横浜開港当時、輸出のメインとしては生糸と絹製品。
八王子から横浜までの絹の道は有名ですが、横浜の泉区や瀬谷区でも養蚕業や製糸工場が多くあり、隆盛を誇っていました。
昨日の雪もすっかり上がり、晴れ渡った空の下のんびりとした散歩日和。
本日は当時を偲ばせる建物や歴史を訪ねての散歩です。
スタートは相鉄いずみ中央駅から旧鎌倉街道-和泉川沿いを歩いて戻ってくるコースです。
いずみ中央駅を降りたらロータリーを抜けて長後街道へ出ます。
長後街道に出たら、長後方面に左折して道なりに進み、中和田公園を左手に見ながら和泉坂下の交差点を渡り、50メートルほど歩くと左側に斜めに進む小道がありますので脇道に入って行き、けやき公園の先を左折して進んで行くと三柱神社があります。
天神社と日枝神社、神明社を合祀しているので三柱神社と呼ぶそうです。
三柱神社を過ぎ、4つ角を右折して旧鎌倉街道へ。
街道沿いには製糸業を営んでいた旧家の立派な門構えの家が残っています。
200メートルほど歩き、三叉路を右に曲がりすぐに左の脇道へ。
左に小川が流れ右手には田圃が広がる田舎道をのんびり歩くと左手に大きな長屋門の屋敷が見えて来ます。
江戸時代中期の相模を代表する俳人の美濃口春鴻池の生家だそうです。
横浜市地域有形文化財(歴史資料) 美濃口春鴻関係資料一括 23件(非公開)が残されているそうです。
道なりに歩き、再び旧鎌倉街道へ。
相鉄と市営地下鉄の高架橋の下を抜けすぐの左手に富士塚公園という小さい公園があり、奥に富士塚城跡の石碑があります。
源頼朝が石橋山合戦に敗れて安房国へ逃れる際に命を助けたことで知られる飯田家義の館がこの辺りにあったらしいです。実際は富士塚団地の中?
ひたすら旧鎌倉街道を歩いて行きます。
ところどころ宅地化が進み家や畑が広がり視界が開けて来ますが左前方に木々が茂っている丘のうようなものが見えて来ます。
琴平神社と東泉寺です。
入口(参道)は別々なのですが中ではつながっています。
この東泉寺の境内には家義の供養塔と明治32年に発掘された家義の墳墓跡とされるところから出土した五輪塔があります。
下飯田の交差点を直進し、遊水池を右手に見ながら進み、左脇道に入り和泉川に架かる鍋屋橋を渡り突き当たりを右折して2-300メートルで天王森泉館に着きます。
天王森泉館の手前には弁財天があり、ごみのポイ捨ては弁財天のご利益を得る事ができなくなるので止めましょうといったポイ捨て防止の看板が立っていました。
さすがに祟りがあるとは書けなかったと思います。
横浜市歴史的建造物(平成10年1月認定)
この建物は、1911(明治14)年ごろ和泉町内に建てられた市内に残る唯一の製糸関連施設の遺構で、かっての製糸場を移築して当地で住宅に使用されていた物を公園施設として1997(平成9)年に復元。
建物の特徴は明治期の近在農家に見られた四つ間取りを基本とした木造ニ階建てで、座敷を続きで取る新興産業資本家層の典型的な住宅形式が伺えます。
建物の奥には湧き水を利用したわさび田があり、施設入口横から坂を登ると見晴らしの丘という公園があります。
公園から左に降りて行くと下り坂の途中に庚申塚があります。
石碑に刻まれた文字は長い年月で掠れていて、わずかに泉村という文字を読み取る事ができました。
文字数の制限がありますのでちょうと全行程の半分となりましたのでここまで。
つづきは『歴史散歩 -いずみ中央- 後半』をご覧下さい。
では。
八王子から横浜までの絹の道は有名ですが、横浜の泉区や瀬谷区でも養蚕業や製糸工場が多くあり、隆盛を誇っていました。
昨日の雪もすっかり上がり、晴れ渡った空の下のんびりとした散歩日和。
本日は当時を偲ばせる建物や歴史を訪ねての散歩です。
スタートは相鉄いずみ中央駅から旧鎌倉街道-和泉川沿いを歩いて戻ってくるコースです。
いずみ中央駅を降りたらロータリーを抜けて長後街道へ出ます。
長後街道に出たら、長後方面に左折して道なりに進み、中和田公園を左手に見ながら和泉坂下の交差点を渡り、50メートルほど歩くと左側に斜めに進む小道がありますので脇道に入って行き、けやき公園の先を左折して進んで行くと三柱神社があります。
天神社と日枝神社、神明社を合祀しているので三柱神社と呼ぶそうです。
三柱神社を過ぎ、4つ角を右折して旧鎌倉街道へ。
街道沿いには製糸業を営んでいた旧家の立派な門構えの家が残っています。
200メートルほど歩き、三叉路を右に曲がりすぐに左の脇道へ。
左に小川が流れ右手には田圃が広がる田舎道をのんびり歩くと左手に大きな長屋門の屋敷が見えて来ます。
江戸時代中期の相模を代表する俳人の美濃口春鴻池の生家だそうです。
横浜市地域有形文化財(歴史資料) 美濃口春鴻関係資料一括 23件(非公開)が残されているそうです。
道なりに歩き、再び旧鎌倉街道へ。
相鉄と市営地下鉄の高架橋の下を抜けすぐの左手に富士塚公園という小さい公園があり、奥に富士塚城跡の石碑があります。
源頼朝が石橋山合戦に敗れて安房国へ逃れる際に命を助けたことで知られる飯田家義の館がこの辺りにあったらしいです。実際は富士塚団地の中?
ひたすら旧鎌倉街道を歩いて行きます。
ところどころ宅地化が進み家や畑が広がり視界が開けて来ますが左前方に木々が茂っている丘のうようなものが見えて来ます。
琴平神社と東泉寺です。
入口(参道)は別々なのですが中ではつながっています。
この東泉寺の境内には家義の供養塔と明治32年に発掘された家義の墳墓跡とされるところから出土した五輪塔があります。
下飯田の交差点を直進し、遊水池を右手に見ながら進み、左脇道に入り和泉川に架かる鍋屋橋を渡り突き当たりを右折して2-300メートルで天王森泉館に着きます。
天王森泉館の手前には弁財天があり、ごみのポイ捨ては弁財天のご利益を得る事ができなくなるので止めましょうといったポイ捨て防止の看板が立っていました。
さすがに祟りがあるとは書けなかったと思います。
横浜市歴史的建造物(平成10年1月認定)
この建物は、1911(明治14)年ごろ和泉町内に建てられた市内に残る唯一の製糸関連施設の遺構で、かっての製糸場を移築して当地で住宅に使用されていた物を公園施設として1997(平成9)年に復元。
建物の特徴は明治期の近在農家に見られた四つ間取りを基本とした木造ニ階建てで、座敷を続きで取る新興産業資本家層の典型的な住宅形式が伺えます。
建物の奥には湧き水を利用したわさび田があり、施設入口横から坂を登ると見晴らしの丘という公園があります。
公園から左に降りて行くと下り坂の途中に庚申塚があります。
石碑に刻まれた文字は長い年月で掠れていて、わずかに泉村という文字を読み取る事ができました。
文字数の制限がありますのでちょうと全行程の半分となりましたのでここまで。
つづきは『歴史散歩 -いずみ中央- 後半』をご覧下さい。
では。
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