木曜日位から降ったり止んだりの天気が続いていましたが、本日は朝から快晴。
今回は鎌倉時代に六浦港から物資を運ぶのに重要交通路であった朝夷奈切通を目指してJR鎌倉駅を午前11時に出発。
六浦と鎌倉を結ぶ街道は金沢街道と呼ばれ、当時の六浦は塩の産地であり、安房・上総・下総等の関東地方をはじめ、海外(唐)からの物資集散の港で各地の物資は、朝夷奈切通を越えて鎌倉に入って来たそうです。
途中の名所・旧跡を尋ねながらの散策ですから何時間掛かるか判りませんが、事前にルートは調べてありますので携帯電話のGPS機能を頼りに出発です。
ルート案内の指示通りに駅前のロータリーを抜けて大通りに出て、信号を渡り鎌倉警察署の脇の道をを右に入って行って突き当たりを左。
しばらく歩くと地図上に『日蓮上人辻説法跡』というのがありましたので早速、寄り道。(道路に面していたので寄り道でもないんですが)
解説によりますと
日蓮上人は慶長5年(1252)、安房(千葉県)から鎌倉に来て、松葉ケ谷(現在の長勝寺、安国論寺の辺り)に草庵を結びました。毎日のようにこの辺りを訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行なったと伝えられているそうです。
観光都市鎌倉ならばでしょうか、案内板には日本語はもちろん、英語・中国語・韓国語で解説文が書かれていました。
この日蓮上人辻説法跡ですが、誰が覚えていていつこのような石碑が建てられたのか不思議です。
地図を表示
ルート案内に沿って歩くと道路左手に妙隆寺というお寺がありましたがそのまま通過。
しばらく歩くと東勝寺跡と高時腹切りやぐらの案内表示がありましたのでルートを外れちょっと寄り道。
ルートを外れてしばらく歩くと『ルートから外れてます』とアナウンスが。
ちゃんと位置情報を取得して動作しているようです。
民家の間の道を進み坂道を登って行くと木々に覆われた未舗装路になり、左手のフェンスで囲まれたところに国指定史跡 東勝寺跡の解説板があり、すぐ先には高時腹切りやぐらの立て看板が立っていました。
そのまま進むと祇園山ハイキングコースになってしまいますので、数枚撮影してもと来た道に戻りました。
国道204号金沢街道に出て20分位歩いて杉本寺に到着。
奈良時代に行基が開いたと伝えられる鎌倉最古の寺。
本尊の十一面観音像三体は、国または市指定の重要文化財で、うち一体は行基の作とされています。坂東三十三観音霊場の第一番札所。
苔むした石段が有名。(もちろん通行不可)
幟が立並ぶ石段を登って行くと藁葺き屋根の仁王門があり左右に仁王様が鎮座しています。
通りに戻って数分で鎌倉五山第五位に列する稲荷山浄妙寺参道が左に見えて来ます。
今回は浄妙寺には参拝せずに山門脇を通って奥の山の中腹にある鎌足稲荷神社へ寄ってみました。
境内の解説板によると大織冠藤原鎌足公は乳児の時、稲荷大神さまから鎌を授けられ、以来、常にお護りとして身につけ、大神さまのご加護を得られました。大化元年(645)、中大兄皇子(後の天智天皇)らとの協力のもと蘇我入鹿を討って大願を成就された鎌足公は、翌年大化2年(646)東国に向われ、相模国由井の里に宿泊されました。その夜、『あなたに鎌を授けて守護してきたが、今や入鹿討伐という宿願を成し遂げたから、授けた鎌を我が地に奉納しなさい』との神告があり、お告げのままに鎌を埋納したことによるとされています。
藤原鎌足が遠く鎌倉まで来ていたとは知りませんでした。
かなり寄り道をしていたのでここからはひたすら朝夷奈切通を目指して歩いて行きました。
浄妙寺を過ぎると反対方向から歩いて来る人通りも途絶え狭い歩道をすれ違う事もなくなりました。
鎌倉から切り通しに行く時には左側を歩く事をオススメします。
道の両側に歩道はあるのですが、右の歩道は所々でガードレールがなくなるので交通量の多い道ですから安全のためガードレールが続く左側が絶対オススメです。
寄り道しないと決めながら十二所神社へ寄り道!
創建は弘安元年(1278)。かつては熊野十二所権現社と呼ばれ、光触寺の境内に鎮守社として祀られていたという。天保9年(1838)に里人の手により現在の地に移築された。
祭神:天神(あまつかみ)7柱、地神(くにつかみ)5柱の12神で神社の名前の由来になったそうです。
信号のところで国道204号から右脇の道へ。案内表示が出ていますので初めての方でも迷う事はないと思います。
左側に川(太刀洗川)を見ながら木々に覆われた未舗装路を進み涼しさを感じながら歩いて行きます。
朝夷奈切通という標柱があり道を左に入って行くと解説の石柱と朝比奈三郎にちなむ三郎滝があります。
ここから先が朝夷奈切通で山道となっています。
この朝夷奈切通は国指定史跡で解説によれば国史跡 昭和44年6月5日指定。
鎌倉幕府は仁治元年(1240)六浦津との重要交通路として、路改修を議定、翌年4月から工事にかかりました。執権北条泰時自らが監督し、自分の乗馬に土石を運ばせて工事を急がせたといいます。、当時の六浦は塩の産地であり、安房・上総・下総等の関東地方をはじめ、海外(唐)からの物資集散の港でした。舟で運ばれた各地の物資は、この切通を越えて鎌倉に入り、六浦港の政治的・経済的価値は倍増しました。また、鎌倉防衛上必要な防御施設として、路の左右に平場や切岸の跡とみられるものがのこされています。
鎌倉市境の南側には、熊野神社がありますが、これは鎌倉の艮(鬼門)の守りとして祀られたと伝えられています。鎌倉七口の中、最も高く険阻な路です。
昨日まで雨が降っていたので山道は所々、水が流れ出してまるで沢渡りをしているような足下の状態です。
途中、小さなお子さんを連れたご夫婦とすれ違いましたが、小さなお子さんを連れてこの山道は大変だと思いました。
また、昔の人はこの山道を荷物を担いで通ったのかと思うと頭の下がる思いです。
切通の出口付近(六浦側)の崖に彫られているこの磨崖仏が今回の朝夷奈切通散策の目的です。
山の岩肌を削って道を作り、崖の面に彫られた磨崖仏!
誰がいつ岩を削って作ったかは判りませんが(旅の安全祈願か信仰心からか)現代のように機械のない時代にノミと金槌で彫ったのでしょう、線はしっかりと刻まれています。
ここまで来たかいがありました。
この先は山道が続きますが、下って行けば横浜横須賀道路の高架下を通り国道23号(環状4号線)朝比奈バス停近くに出ますので、バスで鎌倉駅や大船駅、金沢八景駅行けます。
鼻欠地蔵
崖に彫り込まれた像の高さが4メートル余りのお地蔵様の磨崖仏で、風化して鼻が欠け落ちているためこのように呼ばれました。江戸時代に出版された『江戸名所図会』にはこの地蔵の挿絵はあり、やさしそうな顔立ちや膝元で汲んだ手などが描かれていますが、今は輪郭を見る事ができます。また、江戸時代の地歴が書かれている『新編鎌倉誌』には、この地蔵について、武蔵国と相模国の境界にあることから『界地蔵』といわれた事、この場所から来たへ向う道は釜利谷や能見堂へ通じた事が書かれています。
では。
今回は鎌倉時代に六浦港から物資を運ぶのに重要交通路であった朝夷奈切通を目指してJR鎌倉駅を午前11時に出発。
六浦と鎌倉を結ぶ街道は金沢街道と呼ばれ、当時の六浦は塩の産地であり、安房・上総・下総等の関東地方をはじめ、海外(唐)からの物資集散の港で各地の物資は、朝夷奈切通を越えて鎌倉に入って来たそうです。
途中の名所・旧跡を尋ねながらの散策ですから何時間掛かるか判りませんが、事前にルートは調べてありますので携帯電話のGPS機能を頼りに出発です。
ルート案内の指示通りに駅前のロータリーを抜けて大通りに出て、信号を渡り鎌倉警察署の脇の道をを右に入って行って突き当たりを左。
しばらく歩くと地図上に『日蓮上人辻説法跡』というのがありましたので早速、寄り道。(道路に面していたので寄り道でもないんですが)
解説によりますと
日蓮上人は慶長5年(1252)、安房(千葉県)から鎌倉に来て、松葉ケ谷(現在の長勝寺、安国論寺の辺り)に草庵を結びました。毎日のようにこの辺りを訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行なったと伝えられているそうです。
観光都市鎌倉ならばでしょうか、案内板には日本語はもちろん、英語・中国語・韓国語で解説文が書かれていました。
この日蓮上人辻説法跡ですが、誰が覚えていていつこのような石碑が建てられたのか不思議です。
地図を表示
ルート案内に沿って歩くと道路左手に妙隆寺というお寺がありましたがそのまま通過。
しばらく歩くと東勝寺跡と高時腹切りやぐらの案内表示がありましたのでルートを外れちょっと寄り道。
ルートを外れてしばらく歩くと『ルートから外れてます』とアナウンスが。
ちゃんと位置情報を取得して動作しているようです。
民家の間の道を進み坂道を登って行くと木々に覆われた未舗装路になり、左手のフェンスで囲まれたところに国指定史跡 東勝寺跡の解説板があり、すぐ先には高時腹切りやぐらの立て看板が立っていました。
そのまま進むと祇園山ハイキングコースになってしまいますので、数枚撮影してもと来た道に戻りました。
国道204号金沢街道に出て20分位歩いて杉本寺に到着。
奈良時代に行基が開いたと伝えられる鎌倉最古の寺。
本尊の十一面観音像三体は、国または市指定の重要文化財で、うち一体は行基の作とされています。坂東三十三観音霊場の第一番札所。
苔むした石段が有名。(もちろん通行不可)
幟が立並ぶ石段を登って行くと藁葺き屋根の仁王門があり左右に仁王様が鎮座しています。
通りに戻って数分で鎌倉五山第五位に列する稲荷山浄妙寺参道が左に見えて来ます。
今回は浄妙寺には参拝せずに山門脇を通って奥の山の中腹にある鎌足稲荷神社へ寄ってみました。
境内の解説板によると大織冠藤原鎌足公は乳児の時、稲荷大神さまから鎌を授けられ、以来、常にお護りとして身につけ、大神さまのご加護を得られました。大化元年(645)、中大兄皇子(後の天智天皇)らとの協力のもと蘇我入鹿を討って大願を成就された鎌足公は、翌年大化2年(646)東国に向われ、相模国由井の里に宿泊されました。その夜、『あなたに鎌を授けて守護してきたが、今や入鹿討伐という宿願を成し遂げたから、授けた鎌を我が地に奉納しなさい』との神告があり、お告げのままに鎌を埋納したことによるとされています。
藤原鎌足が遠く鎌倉まで来ていたとは知りませんでした。
かなり寄り道をしていたのでここからはひたすら朝夷奈切通を目指して歩いて行きました。
浄妙寺を過ぎると反対方向から歩いて来る人通りも途絶え狭い歩道をすれ違う事もなくなりました。
鎌倉から切り通しに行く時には左側を歩く事をオススメします。
道の両側に歩道はあるのですが、右の歩道は所々でガードレールがなくなるので交通量の多い道ですから安全のためガードレールが続く左側が絶対オススメです。
寄り道しないと決めながら十二所神社へ寄り道!
創建は弘安元年(1278)。かつては熊野十二所権現社と呼ばれ、光触寺の境内に鎮守社として祀られていたという。天保9年(1838)に里人の手により現在の地に移築された。
祭神:天神(あまつかみ)7柱、地神(くにつかみ)5柱の12神で神社の名前の由来になったそうです。
信号のところで国道204号から右脇の道へ。案内表示が出ていますので初めての方でも迷う事はないと思います。
左側に川(太刀洗川)を見ながら木々に覆われた未舗装路を進み涼しさを感じながら歩いて行きます。
朝夷奈切通という標柱があり道を左に入って行くと解説の石柱と朝比奈三郎にちなむ三郎滝があります。
ここから先が朝夷奈切通で山道となっています。
この朝夷奈切通は国指定史跡で解説によれば国史跡 昭和44年6月5日指定。
鎌倉幕府は仁治元年(1240)六浦津との重要交通路として、路改修を議定、翌年4月から工事にかかりました。執権北条泰時自らが監督し、自分の乗馬に土石を運ばせて工事を急がせたといいます。、当時の六浦は塩の産地であり、安房・上総・下総等の関東地方をはじめ、海外(唐)からの物資集散の港でした。舟で運ばれた各地の物資は、この切通を越えて鎌倉に入り、六浦港の政治的・経済的価値は倍増しました。また、鎌倉防衛上必要な防御施設として、路の左右に平場や切岸の跡とみられるものがのこされています。
鎌倉市境の南側には、熊野神社がありますが、これは鎌倉の艮(鬼門)の守りとして祀られたと伝えられています。鎌倉七口の中、最も高く険阻な路です。
昨日まで雨が降っていたので山道は所々、水が流れ出してまるで沢渡りをしているような足下の状態です。
途中、小さなお子さんを連れたご夫婦とすれ違いましたが、小さなお子さんを連れてこの山道は大変だと思いました。
また、昔の人はこの山道を荷物を担いで通ったのかと思うと頭の下がる思いです。
切通の出口付近(六浦側)の崖に彫られているこの磨崖仏が今回の朝夷奈切通散策の目的です。
山の岩肌を削って道を作り、崖の面に彫られた磨崖仏!
誰がいつ岩を削って作ったかは判りませんが(旅の安全祈願か信仰心からか)現代のように機械のない時代にノミと金槌で彫ったのでしょう、線はしっかりと刻まれています。
ここまで来たかいがありました。
この先は山道が続きますが、下って行けば横浜横須賀道路の高架下を通り国道23号(環状4号線)朝比奈バス停近くに出ますので、バスで鎌倉駅や大船駅、金沢八景駅行けます。
鼻欠地蔵
崖に彫り込まれた像の高さが4メートル余りのお地蔵様の磨崖仏で、風化して鼻が欠け落ちているためこのように呼ばれました。江戸時代に出版された『江戸名所図会』にはこの地蔵の挿絵はあり、やさしそうな顔立ちや膝元で汲んだ手などが描かれていますが、今は輪郭を見る事ができます。また、江戸時代の地歴が書かれている『新編鎌倉誌』には、この地蔵について、武蔵国と相模国の境界にあることから『界地蔵』といわれた事、この場所から来たへ向う道は釜利谷や能見堂へ通じた事が書かれています。
では。
思った以上に激しく、道もあっているのかどうかすら不安で、国道に出たときは、なんだかホッとしたことを思い出しました。
この時はただただ切通しへ行くことだけが目的だったため、磨崖仏というものの存在すら知りませんでした。
これはもう一度足を運ばないといけないかもしれませんね。。。
私は梶原景時の太刀洗水を見落としてしまいました
GPSはルートの確認には便利でした
今までは地図を用意して散策に行ってましたがこれからは事前調べて現地でルート確認すむので荷物が少し減ります。
ただ、携帯のバッテリーもすぐ減りますが・・・