まえに、テレビで、
自爆(じばく)テロを繰(く)り返す、
過激教団の聖地に、
自爆テロによって命を捨てた人たちの写真が、
聖者のように、神々のように、
飾(かざ)られているのを、
見たことがあります。
自爆テロによって命を捨てた人たちは、
その過激(かげき)教団からしたら、
確かに聖者なのだろう・・・。
けれど、これは、
どう考えても、おかしいし、
常人(じょうにん)の認められるところでは、ないだろう・・。
大切な大切な生命。
その大切な生命を、自爆テロによって、
多くの生命を殺し、
自分の生命までも、殺してしまう!!
こんなひどいことが、あって良いわけがない。
家族を亡くした遺族が、
家族の死を、悼(いた)み、弔(とむら)いたい気持ちは、
十分にわかりますが、
過激教団の聖地に、
自爆テロで命を落とした人たちの写真を、
神々のように、飾(かざ)ることには、
大きな恐怖(きょうふ)と危険性を、
感じないわけにはいかない。
けれど、それと・・・、
似たようなところが、日本にもある・・・。
それは、靖国神社です!。
靖国神社には、戦争によって、
命を落とした人たちの写真が、
自爆テロを繰り返す過激教団のように、
飾られているそうです。
しかも、それらの戦争によって命を落とした人たちを、
『神』と、あがめている!!!
ここに、大きな恐怖と危険性(きけんせい)を、
感じないだろうか?
いくら、それは違(ちが)う!と言ったところで、
戦争で人を殺し、自分も命を落とすのと、
自爆テロで、人々を殺し、自分も死ぬのと、
どう?違いがあるというのだろうか???
そこには、違いはない!!!
その強烈な危険性と異常(いじょう)さを、
鋭(するど)く、
見抜(みぬ)かなければならないと思う。
けれど、そのことに気づかず、
異常な鈍感(どんかん)さを持って、
靖国神社に参拝(さんぱい)する人々が、
あまりにも、多いことか・・・・・!!!
ここに、深刻(しんこく)な、
もっとも深い、
大きな問題があると思う。
その問題とは、何だろうか???
それは、宗教に対する、認識の甘(あま)さ、
認識(にんしき)の無さ、あるいは、
宗教とは、どういうものであるか?ということが、
わかっていない、
『無知(むち)な宗教観』にあると思う。
これは、私の信念だと、
ある人は、言うかもしれない。
確かに、信念は、自分ひとりの問題です。
自分の中にある。
ところが、宗教は、それだけではない。
宗教には、必ず、『祈る対象(たいしょう)』がある。
『祈る対象』がなかったら、
宗教は、なりたたないからです。
祈る対象があるということは、
完全なる個人としての信念とは、
様相(ようそう)を、異(こと)にする。
どういうことかというと、
祈る対象に、必ず、影響(えいきょう)を受ける!
ということです。
だから、宗教と言える。
ここに、宗教のもつ、大きな問題と、
可能性がある。
何に対して、祈るのか?
何に、手を合わせるのか?
これによって、宗教の正邪(せいじゃ)、
人間を幸せに導(みちび)くものか、そうでないものなのか、
決定的な分かれ目となっていく。
信念だけで、解決するほど、
宗教は、甘くない!
必ず、祈る対象がある。
人間が生命である以上、
手を合わせ、祈るということは、
その祈る対象に、
生命は、必ず影響を受ける。
それが、宗教です。
靖国参拝の問題に、もどると、
靖国神社には、
人間魚雷とか、
片道だけの燃料を積(つ)んで、
戦地に向かった飛行機とか、
戦争で死んでいった人たちの、
さまざまな遺品(いひん)も、展示されているようです。
それらのものは、
軍国日本の、悲しい、悲惨(ひさん)な歴史を、
とどめるという点では、
貴重な価値(かち)が、あるとは、思う。
けれど、やはり、
ふに落ちないのは、
戦争で死んでいった人たちを、
『神』と、仰(あお)いでいる点です!
戦争で、亡くなった人たちを、
家族や親族が、悼み(いたみ)、
たたえたい気持ちは、とても、わかるけれど、
それを、神として、
祭(まつ)り上げるのは、間違っていると思う。
死んだら、神になるのか?
死んだら、仏になるのか?
とんでもない!
たとえ、死んだとしても、
その生命は、その死んだ時の、
心の状態、その人の境涯(きょうがい)、
その人の生命状態は、まったく変わらず、
そのまま、残(のこ)っていく。
軍国日本に、
だまされ、大切な若い命を奪(うば)われ、
死んでいった人たちの、
その「悲しみ、苦しみ、怒り、絶望」
は、はかりしれない!
その生命を、神というのならば、
神は、「怒りや、絶望、悲しみや、苦しみ」に、
覆(おお)いつくされた、
苦しみそのもの姿を、現(あら)わすはずです。
それを、神というのなら、
神は、すべての人から希望を奪(うば)い、
苦しめ、悲しませる、
『暗黒の苦しみ』そのものと、なってしまう。
さきほども、話しましたが、
宗教には、かならず、
祈る対象がある。
祈る対象が、なんであるか?によって、
その宗教の、正邪が、きまってくる!
しかも、宗教というのは、
生命の上では、きわめて、科学的に、
必ず、結果を、ともなう。
ある対象に、祈りを捧(ささ)げたら、
その祈った対象と、同じ結果を、
自分の生命に、受けてしまう。
それが、宗教というものです。
すなわち、祈る対象が、
間違(まちが)った、悪しき、マイナスの対象であった場合、
自分の生命も、自分の人生も、
祈った対象と、まったく同じ、
間違った、悪(あ)しき、マイナスの結果が、
必ず、出てきてしまう。
祈っている対象が、化け物や悪魔のような、
存在であった場合、
自分の生命や人生も、
悪魔や化け物(ばけもの)に、とらわれたかのような、
悪(あ)しき、不幸という結果が、
必ず、出てきてしまう!
それが、宗教です!
日本人は、そういうことに、
あまりにも、無頓着(むとんちゃく)だけれども、
日本の観光宗教にしろ、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)、神社信仰にしろ、
一般的な理屈から考えても、
あるいは、仏法哲学(ぷっぽうてつがく)を、
ひもといてみても、
それらが、間違った宗教であることは、
明確に、わかりきっている。
すなわち、そういうものに、
祈りを、捧(ささ)げていると、
その間違った、マイナスの悪影響を、受けてしまい、
自分の人生や生命が、
さまざまな不幸に、陥って(おちいって)
しまうと、いうことです。
靖国神社に、スポットをあてれば、
靖国神社には、東条英機を、はじめとする、
軍国日本の主導者も、
まつられている。
しかも、その人たちを、
『神』と、あがめている。
それを、神と言うのなら、
日本中に、死の苦しみを、味(あじ)あわせ、
世界、アジアの民に、
多くの苦しみと、悲惨(ひさん)を、
巻(ま)き起こすものが、
『神』と、なってしまう!
それらに、祈りを、捧(ささ)げるとしたら、
それは、
『私は、日本中、世界中に、
最大の悲惨(ひさん)と苦しみ、死の悲しみを、
必ず、味あわせてみせます!!』
と、誓(ちか)いを、立てているのと、
同じになってしまう。
きびしいようだけれど、
それが、宗教というものです。
それだけ、恐(こわ)くて、
生命に与える影響が、多大なのが、
本当は、宗教です。
もうひとつ、重要なことは、
たとえ、どんなに善意(ぜんい)で、祈ったとしても、
たとえ、どんな美しい信念で、祈ったとしても、
祈る対象が、間違っていれば、
必ず、間違った影響を受けてしまい、
自分の意思とは、違った間違った方向、
すなわち、不幸という現象(げんしょう)を、
なんらかの形で、かならず、起こしてしまう!
ということです。
この法則(ほうそく)に逆(さか)らえる人は、
ひとりも、いません!
だから、本当は、
靖国神社に、こころからの善意と真心で、
祈りを、ささげたとしても、
それは、戦争でなくなられた人々を、
成仏(じょうぶつ)せさる行為とはならず、
逆に、地獄に落とす行為(こうい)となってしまい、
また、祈ってる自分自身も、
不幸へと、引きずり込(こ)まれてしまうと、
いうことです。
「ひどいことを言う!!!」
と言うかもしれませんが、
本当のことを言わないほうが、
もっとヒドイので、
言わせていただきたいと思います。
また、逆に、
「なに、言っているんだ!
そんなの、関係ないよ!!」
と、笑っている人も、いるかもしれませんが、
絶対に、この法則に逆らえるものでは、
ありません!
結局、最後は、
「どうして、自分が!!」という結果が、
もたらされたとしても、
いたしかたありません・・・。
それが、人間の生命というものです。
それが、宗教というものです。
だから、宗教は、
厳密(げんみつ)に見ていかなければならない!
やはり、いちばんのネックは、
自分が、やっている行為が、
どういうことかも、わからない、
宗教に対する、あまりにもの、
認識の無さ、浅(あさ)はかさ!!
宗教に対する、
あまりにも愚(おろ)かな、
無知(むち)さ加減(かげん)!
その『宗教に対する無知』が、
人間の不幸の、すべての根源(こんげん)には、
あると思う。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
家族や親族が、
戦没者を、悼み(いたみ)、
大切にしたい気持ちは、
すごく、良く、わかる!
問題は、
戦没者(せんぼつしゃ)の生命を、
本当に、成仏させ、
安らがせ、幸せにしていける、
宗教が、必要だ!ということです。
そして、
それが、ほんとうに、できるのが、
創価学会が、実践(じっせん)している、
日蓮大聖人の、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)なんです。
なぜならば、
戦争で亡(な)くなった人たちの生命が、
いちばん、安らぎ、幸せになるのは、
自分の家族や親族が、
だれよりも、幸せになることです。
だれよりも、幸せに、生きることです。
家族や、親族が、
だれよりも、幸せになっていく。
その幸せが、戦没者にも、
伝(つた)わり、戦没者は、安らぎ、
幸せになり、成仏していける。
だから、亡(な)くなった人たちを、
本当に成仏(幸せに)させてくれる宗教は、
今、生きている人間を、
最高に、最大限に、幸せにすることが、
できる宗教でなければ、ならない!
それが、現実の上で、
必ず、できる宗教が、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)です。
だから、
この南無妙法蓮華経の仏法は、
戦没者を、最高最大に、敬(うやま)い、
大切にし、成仏させ、幸せにしてける、
しかも、世界の平和と個人の幸せを、両立できる、
真の宗教だと、いうことが、できる。
また、
世界192カ国に広がる創価学会を見ていると、
実際に、その通りになっています・・・・・!!!
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
自爆(じばく)テロを繰(く)り返す、
過激教団の聖地に、
自爆テロによって命を捨てた人たちの写真が、
聖者のように、神々のように、
飾(かざ)られているのを、
見たことがあります。
自爆テロによって命を捨てた人たちは、
その過激(かげき)教団からしたら、
確かに聖者なのだろう・・・。
けれど、これは、
どう考えても、おかしいし、
常人(じょうにん)の認められるところでは、ないだろう・・。
大切な大切な生命。
その大切な生命を、自爆テロによって、
多くの生命を殺し、
自分の生命までも、殺してしまう!!
こんなひどいことが、あって良いわけがない。
家族を亡くした遺族が、
家族の死を、悼(いた)み、弔(とむら)いたい気持ちは、
十分にわかりますが、
過激教団の聖地に、
自爆テロで命を落とした人たちの写真を、
神々のように、飾(かざ)ることには、
大きな恐怖(きょうふ)と危険性を、
感じないわけにはいかない。
けれど、それと・・・、
似たようなところが、日本にもある・・・。
それは、靖国神社です!。
靖国神社には、戦争によって、
命を落とした人たちの写真が、
自爆テロを繰り返す過激教団のように、
飾られているそうです。
しかも、それらの戦争によって命を落とした人たちを、
『神』と、あがめている!!!
ここに、大きな恐怖と危険性(きけんせい)を、
感じないだろうか?
いくら、それは違(ちが)う!と言ったところで、
戦争で人を殺し、自分も命を落とすのと、
自爆テロで、人々を殺し、自分も死ぬのと、
どう?違いがあるというのだろうか???
そこには、違いはない!!!
その強烈な危険性と異常(いじょう)さを、
鋭(するど)く、
見抜(みぬ)かなければならないと思う。
けれど、そのことに気づかず、
異常な鈍感(どんかん)さを持って、
靖国神社に参拝(さんぱい)する人々が、
あまりにも、多いことか・・・・・!!!
ここに、深刻(しんこく)な、
もっとも深い、
大きな問題があると思う。
その問題とは、何だろうか???
それは、宗教に対する、認識の甘(あま)さ、
認識(にんしき)の無さ、あるいは、
宗教とは、どういうものであるか?ということが、
わかっていない、
『無知(むち)な宗教観』にあると思う。
これは、私の信念だと、
ある人は、言うかもしれない。
確かに、信念は、自分ひとりの問題です。
自分の中にある。
ところが、宗教は、それだけではない。
宗教には、必ず、『祈る対象(たいしょう)』がある。
『祈る対象』がなかったら、
宗教は、なりたたないからです。
祈る対象があるということは、
完全なる個人としての信念とは、
様相(ようそう)を、異(こと)にする。
どういうことかというと、
祈る対象に、必ず、影響(えいきょう)を受ける!
ということです。
だから、宗教と言える。
ここに、宗教のもつ、大きな問題と、
可能性がある。
何に対して、祈るのか?
何に、手を合わせるのか?
これによって、宗教の正邪(せいじゃ)、
人間を幸せに導(みちび)くものか、そうでないものなのか、
決定的な分かれ目となっていく。
信念だけで、解決するほど、
宗教は、甘くない!
必ず、祈る対象がある。
人間が生命である以上、
手を合わせ、祈るということは、
その祈る対象に、
生命は、必ず影響を受ける。
それが、宗教です。
靖国参拝の問題に、もどると、
靖国神社には、
人間魚雷とか、
片道だけの燃料を積(つ)んで、
戦地に向かった飛行機とか、
戦争で死んでいった人たちの、
さまざまな遺品(いひん)も、展示されているようです。
それらのものは、
軍国日本の、悲しい、悲惨(ひさん)な歴史を、
とどめるという点では、
貴重な価値(かち)が、あるとは、思う。
けれど、やはり、
ふに落ちないのは、
戦争で死んでいった人たちを、
『神』と、仰(あお)いでいる点です!
戦争で、亡くなった人たちを、
家族や親族が、悼み(いたみ)、
たたえたい気持ちは、とても、わかるけれど、
それを、神として、
祭(まつ)り上げるのは、間違っていると思う。
死んだら、神になるのか?
死んだら、仏になるのか?
とんでもない!
たとえ、死んだとしても、
その生命は、その死んだ時の、
心の状態、その人の境涯(きょうがい)、
その人の生命状態は、まったく変わらず、
そのまま、残(のこ)っていく。
軍国日本に、
だまされ、大切な若い命を奪(うば)われ、
死んでいった人たちの、
その「悲しみ、苦しみ、怒り、絶望」
は、はかりしれない!
その生命を、神というのならば、
神は、「怒りや、絶望、悲しみや、苦しみ」に、
覆(おお)いつくされた、
苦しみそのもの姿を、現(あら)わすはずです。
それを、神というのなら、
神は、すべての人から希望を奪(うば)い、
苦しめ、悲しませる、
『暗黒の苦しみ』そのものと、なってしまう。
さきほども、話しましたが、
宗教には、かならず、
祈る対象がある。
祈る対象が、なんであるか?によって、
その宗教の、正邪が、きまってくる!
しかも、宗教というのは、
生命の上では、きわめて、科学的に、
必ず、結果を、ともなう。
ある対象に、祈りを捧(ささ)げたら、
その祈った対象と、同じ結果を、
自分の生命に、受けてしまう。
それが、宗教というものです。
すなわち、祈る対象が、
間違(まちが)った、悪しき、マイナスの対象であった場合、
自分の生命も、自分の人生も、
祈った対象と、まったく同じ、
間違った、悪(あ)しき、マイナスの結果が、
必ず、出てきてしまう。
祈っている対象が、化け物や悪魔のような、
存在であった場合、
自分の生命や人生も、
悪魔や化け物(ばけもの)に、とらわれたかのような、
悪(あ)しき、不幸という結果が、
必ず、出てきてしまう!
それが、宗教です!
日本人は、そういうことに、
あまりにも、無頓着(むとんちゃく)だけれども、
日本の観光宗教にしろ、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)、神社信仰にしろ、
一般的な理屈から考えても、
あるいは、仏法哲学(ぷっぽうてつがく)を、
ひもといてみても、
それらが、間違った宗教であることは、
明確に、わかりきっている。
すなわち、そういうものに、
祈りを、捧(ささ)げていると、
その間違った、マイナスの悪影響を、受けてしまい、
自分の人生や生命が、
さまざまな不幸に、陥って(おちいって)
しまうと、いうことです。
靖国神社に、スポットをあてれば、
靖国神社には、東条英機を、はじめとする、
軍国日本の主導者も、
まつられている。
しかも、その人たちを、
『神』と、あがめている。
それを、神と言うのなら、
日本中に、死の苦しみを、味(あじ)あわせ、
世界、アジアの民に、
多くの苦しみと、悲惨(ひさん)を、
巻(ま)き起こすものが、
『神』と、なってしまう!
それらに、祈りを、捧(ささ)げるとしたら、
それは、
『私は、日本中、世界中に、
最大の悲惨(ひさん)と苦しみ、死の悲しみを、
必ず、味あわせてみせます!!』
と、誓(ちか)いを、立てているのと、
同じになってしまう。
きびしいようだけれど、
それが、宗教というものです。
それだけ、恐(こわ)くて、
生命に与える影響が、多大なのが、
本当は、宗教です。
もうひとつ、重要なことは、
たとえ、どんなに善意(ぜんい)で、祈ったとしても、
たとえ、どんな美しい信念で、祈ったとしても、
祈る対象が、間違っていれば、
必ず、間違った影響を受けてしまい、
自分の意思とは、違った間違った方向、
すなわち、不幸という現象(げんしょう)を、
なんらかの形で、かならず、起こしてしまう!
ということです。
この法則(ほうそく)に逆(さか)らえる人は、
ひとりも、いません!
だから、本当は、
靖国神社に、こころからの善意と真心で、
祈りを、ささげたとしても、
それは、戦争でなくなられた人々を、
成仏(じょうぶつ)せさる行為とはならず、
逆に、地獄に落とす行為(こうい)となってしまい、
また、祈ってる自分自身も、
不幸へと、引きずり込(こ)まれてしまうと、
いうことです。
「ひどいことを言う!!!」
と言うかもしれませんが、
本当のことを言わないほうが、
もっとヒドイので、
言わせていただきたいと思います。
また、逆に、
「なに、言っているんだ!
そんなの、関係ないよ!!」
と、笑っている人も、いるかもしれませんが、
絶対に、この法則に逆らえるものでは、
ありません!
結局、最後は、
「どうして、自分が!!」という結果が、
もたらされたとしても、
いたしかたありません・・・。
それが、人間の生命というものです。
それが、宗教というものです。
だから、宗教は、
厳密(げんみつ)に見ていかなければならない!
やはり、いちばんのネックは、
自分が、やっている行為が、
どういうことかも、わからない、
宗教に対する、あまりにもの、
認識の無さ、浅(あさ)はかさ!!
宗教に対する、
あまりにも愚(おろ)かな、
無知(むち)さ加減(かげん)!
その『宗教に対する無知』が、
人間の不幸の、すべての根源(こんげん)には、
あると思う。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
家族や親族が、
戦没者を、悼み(いたみ)、
大切にしたい気持ちは、
すごく、良く、わかる!
問題は、
戦没者(せんぼつしゃ)の生命を、
本当に、成仏させ、
安らがせ、幸せにしていける、
宗教が、必要だ!ということです。
そして、
それが、ほんとうに、できるのが、
創価学会が、実践(じっせん)している、
日蓮大聖人の、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)なんです。
なぜならば、
戦争で亡(な)くなった人たちの生命が、
いちばん、安らぎ、幸せになるのは、
自分の家族や親族が、
だれよりも、幸せになることです。
だれよりも、幸せに、生きることです。
家族や、親族が、
だれよりも、幸せになっていく。
その幸せが、戦没者にも、
伝(つた)わり、戦没者は、安らぎ、
幸せになり、成仏していける。
だから、亡(な)くなった人たちを、
本当に成仏(幸せに)させてくれる宗教は、
今、生きている人間を、
最高に、最大限に、幸せにすることが、
できる宗教でなければ、ならない!
それが、現実の上で、
必ず、できる宗教が、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)です。
だから、
この南無妙法蓮華経の仏法は、
戦没者を、最高最大に、敬(うやま)い、
大切にし、成仏させ、幸せにしてける、
しかも、世界の平和と個人の幸せを、両立できる、
真の宗教だと、いうことが、できる。
また、
世界192カ国に広がる創価学会を見ていると、
実際に、その通りになっています・・・・・!!!
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・