20世紀を代表する、
天才オペラ歌手の「マリア・カラス」は、
若いころ、
母親の故郷であるギリシャで、
オペラ歌手になるべく、
専門の音楽学校に行き、訓練を受け、
大きく成長していくが、
その後、自分が生まれ、
父親の住んでいる、
アメリカに旅立つことを、
決意する。
その時の心情(しんじょう)を、
マリア・カラスは、こう語っています。
「何年もたったいまになって、ようやく、
実感できるのですが、
ずいぶん危険な冒険をしたものだし、
21才の文無(もんな)しの女性が、
戦後まもなく、たった一人で、
父親にも旧友たちにも会えないという、
最悪の状態を想像(そうぞう)しながら、
アメリカに帰るのは、
本当に大変なことでした。
勇敢(ゆうかん)だったなどと言うつもりはありませんが、
若さからくる無垢(むく)な心が、
自分の歌で何ごとかを、なしとげようとする、
勇気と野心を与(あた)えてくれたのです。
私たちが、ふだん、
勇気と呼んでいるものの陰(かげ)に、
もっと深い何かが、ありました。
それは、本能であり、
私を見捨てることのない、
神への絶対的な信頼(しんらい)でした。」
と、言っています。
『勇気』と呼んでいるものの陰(かげ)には、
深い何かがある!
確かに、「勇気」には、
えたいの知れない何かが、ある!
それは、一切(いっさい)を変える力であり、
強力なエネルギーでも、ある。
そして、勇気の陰には、
もっともっと深い何かが、ある!!
それは、本能的とも言える、
自分の中で、決して捨てることのできない、
神への絶対的な信頼だという。
勇気に内包(ないほう)しているもの、
それは、絶対的な信念!
純粋にして誠実な、
けっして、裏切(うらぎ)ることのできない
生命の叫(さけ)び。
その無限のエネルギーが、
『勇気』なのかもしれない。
創価学会(そうかがっかい)の二代会長である、
戸田城聖先生が、
「勇気は、慈悲(じひ)に通じる」
と、言っていた。
慈悲という偉大な命(こころ)は、
ぼくたち普通の人間には、
なかなか、理解できないし、
自分の中から、
出していくのは、困難(こんなん)かもしれない。
けれど、
慈悲(じひ)に通じるものが、勇気だと、いう。
すなわち、勇気には、
慈悲という、はかりがたい無限のエネルギーが、
内在(ないざい)していると、いうことだと思う。
慈悲は、理解しずらいし、
その偉大なエネルギーが、
どういうものか?
はかりかねないかも、しれない。
けれど、勇気を出すとき、
勇気に内包(ないほう)した慈悲が、
自然のうちに、自分の生命から、ふきだし、
信じられない力を、発揮(はっき)する。
だから、マリア・カラスが言うように、
勇気を出すとき、
自分の中から、神的なもの、
すなわち、自分の中にありながらも、
自分を超(こ)えた何かが、
出現し、発揮されていく。
それが、『勇気』なのかも、しれない。
では、
もっとも『勇気』を必要とするもの、
もっとも、『勇気』を内在しているものとは、
何だろうか?
それは、「信仰」です。
いいかげんな宗教心や、
よこしまな宗教心ではなく、
真実の信仰は、『勇気』と直結(ちょっけつ)しています。
すなわち、真実の信仰、
正しき信仰は、『勇気』なしでは、
けっして、できないからです。
その究極(きゅうきょく)の勇気、
究極の勇気の信仰が、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)だと
言っていい!
だから、
南無妙法蓮華経を、となえるのには、
『勇気』がいる。
勇気を出せないような弱虫には、
となえられないのが、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
であるのも、事実です。
よく、創価学会をバカにして、
「宗教なんかに、すがっているのは、
弱虫のやることだ」
とか、言うけれど、
とんでもない!!!逆(ぎゃく)です!!!
たとえば、あなたは、
自分自身を真正面から、見つめ、
真正面から、立ち向かうことが、
できるでしょうか?
そして、自分自身の生命を、
根本から変革(へんかく)しようと思い、
現実に変革していくことが、
できるでしょうか?
これは、難事中(なんじちゅう)の難事なんです。
人は、いくら、偉(えら)そうなことを言っていても、
真正面から自分に立ち向かうことが、
なかかな、できない。
だから、ずるずると、
これでは、いけないと思っていながら、
人生を、無駄(むだ)に過ごしてしまうことも、多い。
こんどは、かりに、
自分自身に立ち向かうことが、できたとしましょう。
かりに、自分自身を真正面から見つめて、
立ち向かうことが、できたとしても、
その自分を、現実に変革していくことが、
できるかというと、
その可能性は、もっと少なくなり、
あきらめるか、現実逃避(とうひ)するかしか、
なくなったりしてきます。
ところが、
創価学会の仏法(ぶっぽう)の信仰は、違うんです!
少し、説明すると、
創価学会が、祈っている、
『ご本尊(ほんぞん)』は、
自分の生命そのものを、表現したものですが、
もう一歩、深く立ち寄(よ)れば、
自分自身の中にある、もっとも強くて偉大な生命
『仏(ほとけ)の生命』を、表現しています。
その強くて偉大な生命である、
『仏(ほとけ)の生命』は、
実は、すべての人の中にあり、
その「仏の生命」という生命の宝(たから)が、
すべての人の中に、
秘(ひ)められている!
ということです。
そして、秘められた、
『仏(ほとけ)の生命』という生命の宝を、
引き出すことができたなら、
その人は
幸せになっていけます。
すなわち、自分自身の中にある、
『仏(ほとけ)の生命』を、
開花させていくことによって、
どんな困難も乗り越え、悩みを解決し、
夢や希望を、かなえて、
幸せを勝ち取っていける!
ということです。
そして、その『仏の生命』を開く、
鍵(かぎ)となるもの、
仏の生命を開く扉(とびら)となるものが、
『ご本尊(ほんぞん)』なんです!!
最初に言ったように、
もっとも強くて偉大(いだい)な、
本当の意味での、
自分自身の生命を、あらわしたものが、
『ご本尊』です。
そして、間違(まちが)ってはいけないことは、
ご本尊は、どこか自分とは、かけ離(はな)れた、
神様とか仏様とかいうものではない。
ご本尊は、
『自分自身の生命』なんです!!
実は、自分自身の中にあるものを、
あらわしたものが、
『ご本尊』なんです・・!!
だから、
ご本尊に祈るとき、
ご本尊は、自分の生命そのものなので、
まず、自分の生命に、
立ち向かわなければならない!
だから、勇気が、いります。
そして、南無妙法蓮華経を、となえるとき、
南無妙法蓮華経は、一切の生命を、
変革する法則(ほうそく)であり、力(ちから)でもあるので、
自分自身の生命の扉(とびら)が開き、
自分自身を、
大きく変革していくことになります!
自分自身に立ち向かう勇気。
自分自身を、変革する勇気。
それが、『ご本尊に祈る』ということなんです。
これが、どれだけ、大変か、わかるでしょうか?
どれだけ、偉大か、わかるでしょうか?
ただし、その勇気を出すから、
確実(かくじつ)に、必ず、
幸せになっていけるわけです。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
だから、この創価学会の、
南無妙法蓮華経の仏法の信仰は、
もっとも勇気のある、
人間の王者でなければ、
祈り、実践(じっせん)することのできない信仰だと、
言っても、さしつかえない!
といっても、これは、
ある意味、逆説(ぎゃくせつ)です。
どういうことか?というと、
南無妙法蓮華経を、となえるから、
勇気が、出てくるんです。
南無妙法蓮華経を、となえていくから、
強く、たくましい、
人間の王者と、輝(かがや)いていくんです。
明と暗、
人間は、
表裏一体(ひょうりいったい)だということです。
同じ人間であっても、
勇気のない弱虫にもなれば、
強い強い王者にも、なる。
同じ人間なんです。
その同じ人間の中から、
最大に強くて、たくましい、
あったかくて、やさしく、愛に満(み)ちた、
最強の王者のような生命を、
引き出していけるのが、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。
結論から言うと、
勇気は、幸せと直結していると思う。
勇気を出せば出すほど、
幸せになっていく!ということです。
そして、その、
勇気を最大限に出すことのできる力(ちから)が、
『南無妙法蓮華経』であり、
『南無妙法蓮華経をとなえる』ことです。
だから、創価学会の、
ご本尊に南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰は、
人生を、
勇気へ!勇気へ!と導(みちび)く・・!
自己に挑戦しながら、
その無限の可能性を、開花していける!
人生を、勇気を持って挑戦する。
悩みを、勇気を持って打ち破る。
困難を、勇気を持って乗り越える。
勇気を持って、幸せをつかむ!!
それができる、
究極にして、唯一(ゆいいつ)の方法といっていいのが、
創価学会が、実践する、
南無妙法蓮華経の仏法です・・・!
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
天才オペラ歌手の「マリア・カラス」は、
若いころ、
母親の故郷であるギリシャで、
オペラ歌手になるべく、
専門の音楽学校に行き、訓練を受け、
大きく成長していくが、
その後、自分が生まれ、
父親の住んでいる、
アメリカに旅立つことを、
決意する。
その時の心情(しんじょう)を、
マリア・カラスは、こう語っています。
「何年もたったいまになって、ようやく、
実感できるのですが、
ずいぶん危険な冒険をしたものだし、
21才の文無(もんな)しの女性が、
戦後まもなく、たった一人で、
父親にも旧友たちにも会えないという、
最悪の状態を想像(そうぞう)しながら、
アメリカに帰るのは、
本当に大変なことでした。
勇敢(ゆうかん)だったなどと言うつもりはありませんが、
若さからくる無垢(むく)な心が、
自分の歌で何ごとかを、なしとげようとする、
勇気と野心を与(あた)えてくれたのです。
私たちが、ふだん、
勇気と呼んでいるものの陰(かげ)に、
もっと深い何かが、ありました。
それは、本能であり、
私を見捨てることのない、
神への絶対的な信頼(しんらい)でした。」
と、言っています。
『勇気』と呼んでいるものの陰(かげ)には、
深い何かがある!
確かに、「勇気」には、
えたいの知れない何かが、ある!
それは、一切(いっさい)を変える力であり、
強力なエネルギーでも、ある。
そして、勇気の陰には、
もっともっと深い何かが、ある!!
それは、本能的とも言える、
自分の中で、決して捨てることのできない、
神への絶対的な信頼だという。
勇気に内包(ないほう)しているもの、
それは、絶対的な信念!
純粋にして誠実な、
けっして、裏切(うらぎ)ることのできない
生命の叫(さけ)び。
その無限のエネルギーが、
『勇気』なのかもしれない。
創価学会(そうかがっかい)の二代会長である、
戸田城聖先生が、
「勇気は、慈悲(じひ)に通じる」
と、言っていた。
慈悲という偉大な命(こころ)は、
ぼくたち普通の人間には、
なかなか、理解できないし、
自分の中から、
出していくのは、困難(こんなん)かもしれない。
けれど、
慈悲(じひ)に通じるものが、勇気だと、いう。
すなわち、勇気には、
慈悲という、はかりがたい無限のエネルギーが、
内在(ないざい)していると、いうことだと思う。
慈悲は、理解しずらいし、
その偉大なエネルギーが、
どういうものか?
はかりかねないかも、しれない。
けれど、勇気を出すとき、
勇気に内包(ないほう)した慈悲が、
自然のうちに、自分の生命から、ふきだし、
信じられない力を、発揮(はっき)する。
だから、マリア・カラスが言うように、
勇気を出すとき、
自分の中から、神的なもの、
すなわち、自分の中にありながらも、
自分を超(こ)えた何かが、
出現し、発揮されていく。
それが、『勇気』なのかも、しれない。
では、
もっとも『勇気』を必要とするもの、
もっとも、『勇気』を内在しているものとは、
何だろうか?
それは、「信仰」です。
いいかげんな宗教心や、
よこしまな宗教心ではなく、
真実の信仰は、『勇気』と直結(ちょっけつ)しています。
すなわち、真実の信仰、
正しき信仰は、『勇気』なしでは、
けっして、できないからです。
その究極(きゅうきょく)の勇気、
究極の勇気の信仰が、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)だと
言っていい!
だから、
南無妙法蓮華経を、となえるのには、
『勇気』がいる。
勇気を出せないような弱虫には、
となえられないのが、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
であるのも、事実です。
よく、創価学会をバカにして、
「宗教なんかに、すがっているのは、
弱虫のやることだ」
とか、言うけれど、
とんでもない!!!逆(ぎゃく)です!!!
たとえば、あなたは、
自分自身を真正面から、見つめ、
真正面から、立ち向かうことが、
できるでしょうか?
そして、自分自身の生命を、
根本から変革(へんかく)しようと思い、
現実に変革していくことが、
できるでしょうか?
これは、難事中(なんじちゅう)の難事なんです。
人は、いくら、偉(えら)そうなことを言っていても、
真正面から自分に立ち向かうことが、
なかかな、できない。
だから、ずるずると、
これでは、いけないと思っていながら、
人生を、無駄(むだ)に過ごしてしまうことも、多い。
こんどは、かりに、
自分自身に立ち向かうことが、できたとしましょう。
かりに、自分自身を真正面から見つめて、
立ち向かうことが、できたとしても、
その自分を、現実に変革していくことが、
できるかというと、
その可能性は、もっと少なくなり、
あきらめるか、現実逃避(とうひ)するかしか、
なくなったりしてきます。
ところが、
創価学会の仏法(ぶっぽう)の信仰は、違うんです!
少し、説明すると、
創価学会が、祈っている、
『ご本尊(ほんぞん)』は、
自分の生命そのものを、表現したものですが、
もう一歩、深く立ち寄(よ)れば、
自分自身の中にある、もっとも強くて偉大な生命
『仏(ほとけ)の生命』を、表現しています。
その強くて偉大な生命である、
『仏(ほとけ)の生命』は、
実は、すべての人の中にあり、
その「仏の生命」という生命の宝(たから)が、
すべての人の中に、
秘(ひ)められている!
ということです。
そして、秘められた、
『仏(ほとけ)の生命』という生命の宝を、
引き出すことができたなら、
その人は
幸せになっていけます。
すなわち、自分自身の中にある、
『仏(ほとけ)の生命』を、
開花させていくことによって、
どんな困難も乗り越え、悩みを解決し、
夢や希望を、かなえて、
幸せを勝ち取っていける!
ということです。
そして、その『仏の生命』を開く、
鍵(かぎ)となるもの、
仏の生命を開く扉(とびら)となるものが、
『ご本尊(ほんぞん)』なんです!!
最初に言ったように、
もっとも強くて偉大(いだい)な、
本当の意味での、
自分自身の生命を、あらわしたものが、
『ご本尊』です。
そして、間違(まちが)ってはいけないことは、
ご本尊は、どこか自分とは、かけ離(はな)れた、
神様とか仏様とかいうものではない。
ご本尊は、
『自分自身の生命』なんです!!
実は、自分自身の中にあるものを、
あらわしたものが、
『ご本尊』なんです・・!!
だから、
ご本尊に祈るとき、
ご本尊は、自分の生命そのものなので、
まず、自分の生命に、
立ち向かわなければならない!
だから、勇気が、いります。
そして、南無妙法蓮華経を、となえるとき、
南無妙法蓮華経は、一切の生命を、
変革する法則(ほうそく)であり、力(ちから)でもあるので、
自分自身の生命の扉(とびら)が開き、
自分自身を、
大きく変革していくことになります!
自分自身に立ち向かう勇気。
自分自身を、変革する勇気。
それが、『ご本尊に祈る』ということなんです。
これが、どれだけ、大変か、わかるでしょうか?
どれだけ、偉大か、わかるでしょうか?
ただし、その勇気を出すから、
確実(かくじつ)に、必ず、
幸せになっていけるわけです。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
だから、この創価学会の、
南無妙法蓮華経の仏法の信仰は、
もっとも勇気のある、
人間の王者でなければ、
祈り、実践(じっせん)することのできない信仰だと、
言っても、さしつかえない!
といっても、これは、
ある意味、逆説(ぎゃくせつ)です。
どういうことか?というと、
南無妙法蓮華経を、となえるから、
勇気が、出てくるんです。
南無妙法蓮華経を、となえていくから、
強く、たくましい、
人間の王者と、輝(かがや)いていくんです。
明と暗、
人間は、
表裏一体(ひょうりいったい)だということです。
同じ人間であっても、
勇気のない弱虫にもなれば、
強い強い王者にも、なる。
同じ人間なんです。
その同じ人間の中から、
最大に強くて、たくましい、
あったかくて、やさしく、愛に満(み)ちた、
最強の王者のような生命を、
引き出していけるのが、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。
結論から言うと、
勇気は、幸せと直結していると思う。
勇気を出せば出すほど、
幸せになっていく!ということです。
そして、その、
勇気を最大限に出すことのできる力(ちから)が、
『南無妙法蓮華経』であり、
『南無妙法蓮華経をとなえる』ことです。
だから、創価学会の、
ご本尊に南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰は、
人生を、
勇気へ!勇気へ!と導(みちび)く・・!
自己に挑戦しながら、
その無限の可能性を、開花していける!
人生を、勇気を持って挑戦する。
悩みを、勇気を持って打ち破る。
困難を、勇気を持って乗り越える。
勇気を持って、幸せをつかむ!!
それができる、
究極にして、唯一(ゆいいつ)の方法といっていいのが、
創価学会が、実践する、
南無妙法蓮華経の仏法です・・・!
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・