先日、
マンガで、
進撃(しんげき)の巨人(きょじん)を
読みました。
この物語は、
題名(だいめい)の通り、
「進撃の巨人」が主人公であり、
進撃の巨人が、
物語の中心(ちゅうしん)にあります。
文字の通り、
進撃の巨人が、
どんな時でも、ともかく、
「進撃」、
すなわち、前進し続けることによって、
ストーリーが展開(てんかい)していきます。
これが、進撃の巨人が、
進むことを、やめてしまったら、
物語が成(な)り立たなくなるし、
終わってしまう。
だから、進撃の巨人が、
前進し続けることは、
避(さ)けることができないことであり、
絶対条件(ぜったいじょうけん)であると、
言えます。
けれど、考え方を変えれば、
これはマンガ・進撃の巨人に
限(かぎ)った話しではなく、
あらゆる人間、
あらゆるケースに当(あ)てはまることです。
その『進む』ということが、
どういう意味合(いみあ)いを持つかは、
それぞれの人によって、
違(ちが)うと思いますが、
もし、進むのをやめてしまったら、
その人の『何か』が、
終わってしまう。
そう、言えると思います。
だから、
どんな人にとっても、
進むということは、
必要不可欠(ひつようふかけつ)なことであり、
絶対条件だと、いえます。
進むということ、
前進するということは、
人生のすべてといっても、
過言(かごん)ではないと思います。
では、その「進む」ということは、
どうやって、形成(けいせい)されているのだろうか?
そこに、
重要(じゅうよう)な意味合いがあると思います。
マンガ・進撃の巨人に戻(もど)ると、
進撃の巨人は、どんな時でも、
進み続ける。
進撃の巨人になることのできる、
進撃の巨人の持ち主(もちぬし)である、
主人公のエレンは、
どんなに絶望(ぜつぼう)しても、
どんなに悲しくても、
どんなに涙(なみだ)を流しても、
それでも、前進を続ける・・・!!
なぜか???
どうして、進むことができたのか???
それは、
進撃の巨人になることができる、
進撃の巨人の持ち主である、
エレンが、
『未来(みらい)』を、知っていたからです。
進撃の巨人には、
未来を見る能力(のうりょく)があり、
その能力によって、
エレンは、未来を見ていた・・!!
ゆえに、
その未来に向(む)かって、
そうなるまで、
どこまでも、進み続けたわけです。
未来を見ていたがゆえに、
どんなことがあっても、
進むことが、できた。
その未来があるがゆえに、
どんなに過酷(かこく)でも、
進むことが、できた!!!
そう、言えると思います。
けれど、
ここに、ミソがあり、
ここに、ミソがあり、
仮(かり)に、未来が見えたにしても、
それ自体、確証(かくしょう)はないし、
あやふやです。
人が聞いたら、
そんなの、妄想(もうそう)だよ!
と、いうかもしれません。
それを、否定(ひてい)する要素(ようそ)は、
山ほど、あるわけです。
まして、
困難(こんなん)であれは、困難であるほど、
それを、否定するのは、
たやすくなります。
エレンのような場合、
進むのは、辛(つら)く、
大変な障害(しょうがい)がともない、
悲しみをふりきって進むのは、
大変な精神力とエネルギーを、
必要としたはずです。
にもかかわらず、
エレンは、進み続けた・・!
なぜか?
それは、エレンが、
『信じていたからです!!』
これが、
進むことの正体(しょうたい)であり、
原動力(げんどうりょく)だと、
言えます。
進む原動力は、
『信(しん)じる』ことにある。
エレンは、
進撃の巨人の能力によって、
未来を見て、
それを、信じることによって、
初めて、
進むことが、できた・・!
信じること・・。
ここに、重要なポイントがあるわけです。
だから、「信じること」は、
人生においても、
未来においても、
夢や希望を叶(かな)えるためにも、
もっとも、重要な位置(いち)を
占(し)めているわけです。
だから、
信じることの大小(だいしょう)、
信じることの強さやエネルギー、
あるいは、
信じるものが、
どれだけ正しいか、正しくないか。
どれだけ価値(かち)があるか、ないかによって、
人生は、
大きく左右(さゆう)されていくわけです。
人は、信じるということについて、
それほど深(ふか)く、
注意を向け、
考えようとはしないように思うけれど、
実(じつ)は、
興味(きょうみ)をいだき、
関心(かんしん)を向けなければならないのが、
『信じる』
というこのなのかもしれない。
では、何を信じたらいいのか?
どうしたら、信じる力を最大限に引(ひ)き出し、
幸せになっていけるのか?
そこに、最も重要な問題が、あります。
要(よう)は、
エレンのように、
未来を見ることができて、
そのことによって、
強力に「信じる力」が生(しょう)じ、
その信じる力によって、
どんな困難があっても、
絶対に負(ま)けないで、
最後まで、進むことができれば、
いいわけです。
そうすれは、
人生を勝利していけるだろうし、
幸せにもなっていけるはずです。
幸せの原動力も、
やはり、「信じる」ことから
始まるということです。
だから、
単純(たんじゅん)に考えれば、
良い意味で、
進撃の巨人に匹敵(ひってき)するような、
信じる力をもたらすものがあれば、
幸せになっていけるわけです。
信じるといっても、
間違ったものを信じたり、
不幸(ふこう)になるものを信じたら、
当然、幸せになれるはずがありません。
信じるというと、
宗教(しゅうきょう)を連想(れんそう)しますが、
日本においても、
一般的(いっぱんてき)に、
それらの宗教が、
観光(かんこう)や縁起(えんぎ)もの、
儀式(ぎしき)や正月の行事くらいにしか
考えられていないのは、
それらの宗教が、現実問題として、
なんの力もない!
ということです。
力がないだけならいいのですが、
それらの宗教は、間違っているので、
逆(ぎゃく)に、マイナスの作用(さよう)をして、
人を、不幸にしてしまいます。
それらの宗教は、
人間の中の「幸せになる力」を弱め、
不幸へと誘(さそ)い、
不幸へと引きずり、
結局(けっきょく)のところ、
人間を不幸にしてしまいます。
それが、日本の、
観光(かんこう)宗教や神社信仰(じんじゃしんこう)、
葬式(そうしき)宗教だと、
いえます。
だから、それらのものは、
幸せになる「信じる力」には、
なりえません。
宗教というと、
神頼(かみだの)みとか、おすがり信仰、
区切(くぎ)りの行事のような、
棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことを連想しますが、
そうではなく、
エレンが前進したように、
「信じる力」によって、
人間が本来(ほんらい)、持っている、
幸せになる力を無限に引き出し、
開花(かいか)させるものが必要だ!
ということです。
信じる力によって、
幸せになる力を、引き出す!!
そのための宗教が、
必要だ!ということです。
宗教と考えるのがいやだったら、
幸せになるためのルーティン 、
幸せになるために、
信じる力を引き出すルーティンと考えても、
いいかもしれません。
その、信じる力によって、
あらゆる幸せを、
無限(むげん)に引き出すルーティンが、
創価学会(そうかがっかい)の人たちが実践している、
ご本尊(ほんぞん)に
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえる、
『仏法(ぶっぽう)』だと、いうことです。
たとえるならば、
進撃の巨人のように、
あたかも、未来が見えているような
「信じる力」をもたらすもの、
そして、
あたかも進撃の巨人のように、
どんなことがあっても、
幸せに向かって前進できる、
無限の生命力(せいめいりょく)と希望をもたらすものが、
創価学会(そうかがっかい)の
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
をとなえる、
『仏法(ぶっぽう)』の信仰だと
いうことです。
ここで、
正しいということ、
間違(まちが)っていないということ、
幸せになるために価値があるということが、
最も大切(たいせつ)になってきますから
言いますが、
信じることにおいて、
本当(ほんとう)に正しく、
本当に価値(かち)があり、
本当に幸せになる力をもたらすものは、
この、創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰(しんこう)しか、ありません。
進撃の巨人に戻ると、
マンガの後半で、
「始祖(しそ)ユミル 」という人物が、
登場します。
始祖ユミルは、
マンガ・進撃の巨人に中で、
主人公のエレンが生きている時代から
二千(2000)年まえに生まれた、
奴隷(どれい)の少女で、
ほかの奴隷たちの悪事(あくじ)を、かばったため、
王に殺されかけます。
逃亡(とうぼう)の途中、
多くの矢(や)を受け、
死にかけますが、
深い穴(あな)に落ち、
有機生物(ゆうきせいぶつ)の
起源(きげん)のようなものに接触(せっしょく)し、
そこで、巨人の力を得て、
復活(ふっかつ)します。
マンガ的には、
大地の悪魔(あくま)と契約(けいやく)して、
巨人になる能力を手に入れたと
されています。
その後、
巨人になる力は、
始祖ユミルの子供たちに受(う)け継(つ)がれ、
子供たちから子孫(しそん)へと、
受け継がれます。
その巨人になる能力のある人々のことを、
「ユミルの民(たみ)」といい、
悪魔の民として、
恐(おそ)れられます。
そして、始祖ユミルは、
死後も、
過去も未来もない、
時空(じくう)を超(こ)えた世界に存在し、
そこで、延々(えんえん)と、
巨人を創(つく)り続け、
巨人たちの能力や肉体を、
つかさどっているとされています。
すなわち、
ある意図(いと)をもって、
巨人を動かし、操(あやつ)りたかったら、
始祖ユミルの存在する世界に行き、
始祖ユミルと接触(せっしょく)し、
「こうしてくれ!」
と、始祖ユミルに願いを伝(つた)えて、
始祖ユミルが、その願いを受け入れ、
始祖ユミルが、それを実行(じっこう)したとき、
願いが実現していくと、
いいことです。
そのため、
主人公のエレンは、
すべての巨人やユミルの民を、
意(い)のままに操(あやつ)ることができるという、
「始祖の巨人の力」を使うために、
始祖ユミル との接触を、
試(こころ)みる。
エレンは、
始祖ユミルとの接触を
阻(はば)もうとする勢力(せいりょく)に、
殺されかかるが、
すんでのところで、
始祖ユミルとの接触を果(は)たす。
やがて、
エレンの願いと思いは、
始祖ユミルに通(つう)じ、
ユミルは、エレンの願いを受け入れ、
その願いを実行します。
そして、
始祖の巨人の持つ、
強大な力が、動き出す。
この始祖ユミルが存在している世界、
過去も未来もない、
時空を超えた世界に、
エレンがいた時間は、
永遠のように永(なが)くも感じられる。
けれど、
現実の世界に戻ってみると、
始祖ユミルの世界にいた時間が、
ほんの1秒にも満(み)たなかったことが、
わかります。
1秒にも満たない時間の中に、
無限のように長(なが)い、
ドラマとストーリー、
そして、無限の価値があった!
と、いうことです。
思うに、
もしかしたら、
「祈(いの)り」とは、
こういうものではないか?
と、思いました。
祈りといっても、
棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことではなく、
創価学会の人たちが、
ご本尊に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえる、
信じる力を、
無限に引き出そうとする「祈り」のことです。
確かに、
南無妙法蓮華経をとなえて祈る時間は、
一瞬(いっしゅん)かもしれない。
けれど、
そこに、未来を動かす
無限のストーリーと価値が、
あるのかもしれない。
だから、
南無妙法蓮華経をとなえる祈りには、
願いを叶える力が、
あるのかもしれない。
ご本尊に、
南無妙法蓮華経をとなえて祈る、
その祈る前(まえ)と、祈った後(あと)では、
表面的には、
何かが、大きく変(か)わるということは、
ないかもしれない。
もちろん、
時として、
南無妙法蓮華経をとなえた後、
劇的(げきてき)に何かが変わるということも、
あります。
けれど、普通(ふつう)は、
南無妙法蓮華経をとなえた後、
見た目(みため)、
何かが大きく変わって見えるということは、
ないかもしれない。
けれど、
表面的には変わっていなくても、
何かが、大きく変わっている。
未来という結果(けっか)が、
幸せの方向に、
大きく変わっていると、
いえるかもしれない。
だから、
心が、スッキリするし、
清々(すがすが)しくなる。
素晴らしい歓喜(かんき)を、
感じるときもある。
それは、表面的には変わっていなくても、
未来が幸せに変わったから、
そう、感(かん)じるのではないだろうか・・。
たとえば、
家電(かでん)など、
動かなくなって修理(しゅうり)に出すと、
修理から戻ってきても、
だいたい、見た目が変わるわけではない。
けれど、
劇的に変わっている!!
なぜなら、
動かなかったものが、
動くようになっているのだから!
それと同じように、
創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる祈りは、
「自分の世界」という家電を、
修理するようなものかもしれない。
南無妙法蓮華経をとなえて祈った後は、
「自分の世界」の見た目は、
変わっていなくても、
「自分の未来の世界」が、
幸せの方向(ほうこう)に、
劇的に変わっている!!
そう、言えるかもしれない・・。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が、
「日蓮が弟子檀那等(でしだんなとう)、
正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)
・不受余経一偈(ふじゅよきょういちげ)と
無二(むに)に信ずる故(ゆえ)によつて
此(こ)の御本尊の宝塔(ほうとう)の中へ入るべきなり」
と言っています。
『宝塔(ほうとう)』とは、
金・銀・ダイヤモンドなど、ありとあらゆる宝石、
世界の美しい花や自然、
素晴らしい音楽や芸術で飾(かざ)られた、
地球の直径の3分の1もの大きさがある、
巨大な塔(とう)で、
ありとあらゆる幸せが詰(つ)まったものだと、
考えられます。
これが、何を意味しているかといえば、
この宝塔は、
「自分の生命(せいめい)」を、
表現(ひょうげん)しています。
「自分の生命」には、
それだけスゴイ、
宝と幸せが、詰まっていると、
いうことです。
また、その、
ありとあらゆる宝石や幸せが、
詰まった宝塔(ほうとう)を、
文字で表現したものが、
『ご本尊(ほんぞん)』
でもあります。
その宝塔の中に、
どうやって入っていくのか?
言い方を変えれば、
それだけの宝(たから)や幸せを、
どうやって、自分のものにしていくのか?
といえば、
『無二(むに)に信ずる故(ゆえ)によつて』
すなわち、
純粋(じゅんすい)に、
信じることによって、
その宝の塔(とう)の中に入ることができる。
すなわち、
ご本尊を、
純粋無二(じゅんすいむに)に信じることのよって、
ありとあらゆる宝石や幸せを、
つかむことが、できる!!
と、言っています。
この話しは、
さきほどの、
進撃の巨人の中の、
「始祖ユミル」の話しに
少し、似(に)ているかもしれない。
信じることによって生(しょう)じた
前進する力によって、
始祖ユミルの世界に行き、
ユミルに自分の願いを伝え、
その願いが、始祖ユミルに受け入れられ、
始祖ユミルがそれを実行した時に、
願いが叶(かな)っていく。
同じように、
創価学会の人たちが、
ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえて祈る時、
その「信じる力」のよって、
ご本尊という、
幸せと宝(たから)が詰(つ)まった宝塔の中に、
自分の生命が入っていく。
そして、
ご本尊に願いが伝わり、
自分の願いが、かなっていく!!
そう、たとえることが、
できるかもしれない・・。
ご本尊は、
功徳聚(くどくじゅ)といい、
功徳(くどく)の集まりだという。
功徳とは、
物質的であれ、精神的であれ、
この仏法(ぶっぽう)の実践によって、
自分の生命に授(さず)けられる、
『幸せ』という、
とびっきりのプレゼントのようなものだろうか。
また、ご本尊は、
輪円具足(りんえんぐそく)ともいい、
車輪が円を描くように、
ありとあらゆる、一切の功徳が、
欠(か)けることなく、そなわっている。
すなわち、ありとあらゆる幸せが、
欠けることなく、
ご本尊(ほんぞん)の中にある!!
ということです。
それが、
ご本尊という『宝塔』だろうか。
その、ご本尊という
幸せの塔(とう)には、
欠けることなく、
あらゆる幸せがあるのだから、
自分の望む幸せも、
必(かなら)ず、存在(そんざい)する!!
と考えられます。
ゆえに、
純粋無二に、信じて、
ご本尊に、
南無妙法蓮華経をとなえていった時、
その中に(ご本尊の中に)、
自分の幸せもある!!ので、
自分の願いや幸せも、
当然(とうぜん)のように、叶(かな)っていく・・!!
そう、
表現できるのかも、しれない・・・。
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
子どもが怖(こわ)いことが起こると、
「おかあちゃーん」と
母親のところへ飛(と)んでいくように、
母親のところへ、
死にものぐるいというか、
純粋(じゅんすい)というか、
それ以外にないのだと言う、
その一念(いちねん)で
御本尊に直結(ちょっけつ)し、
願っていけば、
どんなことも通じます。
その祈りは、かないます。
と言っています。
真剣(しんけん)を超(こ)えた、
純粋な祈りは、
ご本尊に通(つう)じ、
そして、
祈りは、かなっていく。
それは、
進撃の巨人の中で、
エレンの、
真剣を超えた、必死(ひっし)の願いが、
始祖ユミルに通じ、
ユミルが、エレンの願いを
実現していったようなものです。
ともかく、
マンガ・進撃の巨人の中で、
エレンは、進み続けた。
そこにしか、活路(かつろ)はないからです。
そして、
その進撃するエネルギーは、
強力に信じる力にあった。
その信じる力ゆえに、
負けなかった。
信じているがゆえに、
どんな絶望にも、耐(た)えた。
どんな悲しみも、乗り越えていくことができた。
それは、
人生を勝利し、幸せになっていく
道のりと同じだと思う。
そう考えた時、
どうしても、信じる力が、
必要となる。
強く、
誤(あやま)りなく、
最高に価値のある
「信じる力」が、必要となる。
その、
最も、強力で、
最も、正しく、
最も、価値のある、
最高に幸せになる『信じる力』が、
創価学会が実践(じっせん)している、
ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だと、
いうことです。
それは、
マンガ・進撃の巨人の中で、
エレンが、
どんなに辛くても、
どんなに悲しくても、
どんなに苦しくても、
どんなに絶望しても、
最後の最後まで、前進し続けて、
自分の目的を、
果たしていったように・・・!!!
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・