この前、
「最終兵器彼女(さいしゅうへいきかのじょ)」
というアニメを見ました。
かなり前のアニメですが、
以前から題名が引(ひ)っかかっていて、
見たくなりました。
見てみたら、最初は、
なんか、まだるっこくなって、
抵抗(ていこう)を感じました。
けれど、だんだん、慣(な)れてきたら、
おもしろくなってきて、
楽しめました。
や~~~!
何と表現(ひょうげん)していいのかわかりませんが、
ある意味、
すごいアニメだと思いました。
なぜかというと、
日本のアニメは、
なんだかんだ、盛(も)り上げるためなのか、
はたまた、人間を殺すのが好きだからか、
よく、人が死にます。
後半のストーリーになると、
それ系のストーリーだと、
毎回、人が死んだりする。
けれど、
この「最終兵器彼女」というアニメは、
本当に、みんな!死んじゃう!!
最終回は、世界に、
主人公、一人しか、残らない!
世界の人、みんな、殺しちゃうなんて、
すごすぎる!!!
それで、世界中の人が、
みんな、死んじゃって、
主人公、一人だけ、生き残って、
それでも、最終兵器となって死んでいった、
自分の彼女を、
愛し続けるというストーリーなんだけれど、
う~~ん!、
話しが極端(きょくたん)なだけに、
確かに、
すごく純粋(じゅんすい)なラブストーリーかもしれない。
すべての人が、いなくなって、
自分ひとりだけが、残(のこ)る。
それでも、彼女を愛し、生きようとする。
人間は、一人でも、生きられるのだろうか?
ひとりでは、生きられないかもしれないが、
この世(よ)には、いなくなったとしても、
愛する人が、いたとしたら、
その人のことを思って、
生きられるのかもしれない。
何かを、思い、何かを、愛しつづける!
それが、生命の本質(ほんしつ)だろうか?
この物語は、極端(きょくたん)ではあるけれど、
ある種の強力なインパクトを、
与(あた)える。
それは、
人間、死(し)ぬ時は、
『一人だ!!』ということです。
どんなに愛する人が、いたとしても、
大好きな友達が、いたとしても、
死ぬ時に、
一緒(いっしょ)に連れて行くことは、
できない・・!!
死ぬ時は、
一人で死んでいかなければならない。
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
こんな意味のことを、言っていた。
「どんなに、愛する人がいたとしても、
どんなに、愛する家族が、いても、
いつかは、死ぬ。
必ず、いつかは、別(わか)れなければならない!
それが、人生の本質だ。
けれど、
我(が) (自分の生命のこと) は、
永遠だ!
だから、我(が)を、
大切にしなければいけない!
我を、強く、たくましく、
最高に幸せな生命として鍛(きた)え、
輝(かがや)かせていかなければならない!」
我(が)を、大切にするとは、
わがまま放題(ほうだい)に、
欲張(よくば)りになれということでは、
当然、ない。
我という自分の生命は、永遠(えいえん)だから、
より大きく、より、おおらかに、
強く、たくましくしていけば、
その我という自分の生命(せいめい)が、
太陽のように輝(かがや)いて、
愛する人を、
愛する家族を、
また、あらゆる人たちを、
自分の生命の輝きによって、
幸せにしていける!!
と、いうことだと思う。
死ぬ時は、ひとりだ。
それは、ある意味、
最終兵器彼女というアニメで、
世界中の人が、みんな死んじゃって、
世界に、たった一人、
残されたのに、似(に)ている。
世界に、一人だけ、残されたとしたら、
どうだろうか?
だれも、いない!
その時は、
自分の心だけが、支(ささ)えだ!
自分の心が、どけだれ、強いか?
自分の心が、どれだけ、大きいか?
すなわち、愛する人を、
どれだけ、愛(あい)しているか?
どれだけ、多くの人を、愛してきたか?
どれだけ、多くの人のために、
尽(つ)くしてきたか?
どれだけ、人のために、生きてきたか?
その人間としての、
もっとも、根幹的(こんかんてき)な部分だけが、
支えとなるだろう。
人々を愛する生命の輝き、
人のことを思い、
人のために尽(つ)くし生きた、
その心の大きさ、生命の輝きだけが、
支(ささ)えとなるだろう!
世界に、たった一人しか、
残(のこ)らなかったとしたら、
お金も権力も名誉(めいよ)も、なんにもならない!
ただの、ガラクタ!
その時、輝くのは、
人々を愛した生命の輝き、
人々に尽(つ)くした心の大きさ!
それだけが、
その人に、価値(かち)を生む。
幸せの本質(ほんしつ)とは、
そういうものなのだと、思う。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
おそらく、死ぬときも、そうだろう。
お金も、権力(けんりょく)も名誉も、
持っていけない!
あるのは、
自分という丸裸(まるはだか)の生命だけ!
そうなったら、
どれだけ、人のために尽(つ)くしたか?
どけだけ、人のために生きたか?
どれだけ、愛する人たちを、
愛することが、できたか?
それだけが、その人の価値となる!
それだけが、その人の宝物(たからもの)となる!
その時、初めて、
自分が、どれだけ幸せなのか?
丸裸の自分の生命だけになったとき、
はっきり、わかる!!
そのとき、
「ああ!自分は、なんと幸せなんだろう!
自分の生命は、こんなにも輝かしく、
美しく、素晴らしいものだったのか!」
と心の底(そこ)から思える、
最高最大の、
溢(あふ)れんばかりの幸せを、
感じることのできる生き方が、
実は、
創価学会(そうかがっかい)の生き方であり、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)
の仏法(ぶっぽう)です。
南無妙法蓮華経を、となえていると、
自分の中から、
仏界(ぶっかい)という最高の生命、
強くて、あったかくて、愛に満(み)ちて、
何ものにも負(ま)けない、
最強の生命が、
自然のうちに、わきあがってくるので、
人を愛する生き方、
人々のためになる生き方が、
自然(しぜん)に、
できるようになってくるからです。
また、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
生命の中の幸福を、
無限に開花(かいか)させる法則(ほうそく)なので、
南無妙法蓮華経を、となえていくと、
自分の生活そのものが、
生きることそのものが、
人々を幸せにすること、世界を幸せにすることに、
つながっていきます。
だから、結局、
自分の存在(そんざい)が、
人々を幸せにするための、
最高の存在に、変(か)わっていきます。
だから、死ぬ時に、
「ああ!自分は、なんと幸せなんだろう!
自分の生命は、こんなにも輝かしく、
美しく、素晴(すば)らしいものだったのか!」
と、感じることが、
できるんだと思います。
実際に、
創価学会の活動と信仰(しんこう)を、
一生懸命(いっしょうけんめい)やってきた人の死顔は、
ほんとうに、安らかで、
まるで生きてるように、
晴れ晴れとして、幸せそのものです。
よく、成仏(じょうぶつ)というけれど、
まぎれもなく、
仏(ほとけ)の顔を、しています!
それは、まさしく、
自分という丸裸の生命になった時に、
お金も権力も名誉も、何の役(やく)にもたたない、
だだ、自分の生命の輝きだけが価値を持つ時に、
どれだけ、人のために尽(つ)くしたか?
どけだけ、人のために生きたか?
どれだけ、愛する人たちを、
愛することが、できたか?
という、
本当の幸せの価値(かち)を問う瞬間(しゅんかん)に、
『ああ!
自分は世界一の幸せものだった!!
自分は、最高最大の勝利者だ!!
私は、勝った!!』
と、心の底から、
思い、感じ、確信(かくしん)した、
幸せの王者、勝利の王者、
生命の王者の顔に、ほかならない!!
だから、創価学会員の死顔は、
最高に素晴らしい!
それは、本当の幸せのために、
生きてきた証(あかし)だ。
生きることが本当の幸せだった証であり、
本当の幸せを、
つかんだ証(あかし)だ!
また、その生きかたが、できるのが、
南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰であり、
創価学会員の生き方です・・・・・!
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・