先日、
アニメ『火の鳥・異形編 』を
見た話しを、しましたが、
こんどは、『火の鳥・太陽編』を、
みました。
『太陽編』は、
アニメ・火の鳥の中でも、
いちばん、いいかげんな内容でしたが、
最後に、ちょっと、
ピンときた話しが、ありました。
この話しは、
大友皇子の軍勢(ぐんぜい)に、
へんな超常的な力(いわゆる、超能力)を、
使う仏法者?たちが、味方し、
大海人皇子の軍勢には、古くからの神々が、
味方につき、
ようするに、
仏法(ぶっぽう)の力を使う軍勢と、神々の力を使う軍勢が、
戦うという図式の、
へんてこな内容でした。
結局、この『火の鳥・太陽編』では、
神々の軍勢が、勝利するんですが、
最後のところで、
古くから、村を守っていた神々が、
「私たちは、この村を、去(さ)ります!」
と言います。
なぜ、そうするかと、いうと、
「この里(さと)の人たちには、
もう、神々への信仰の思いが、
なくなってしまった!
だから、もう、この里には、いられない!」
そう言って、
神々は、どこか、遠くに去っていきます。
この話しに、似ている話しで、
仏法(ぶっぽう)には、
『神天上(かみてんじょう)の法門(ほうもん)』
という法則(ほうそく)が、説かれています。
仏法(ぶっぽう)でいう、神々は、
法華経(ほけきょう)の行者を、
守るという契約(けいやく)を、しています。
法華経とは、
すべての人に、最高の幸せを、
もたらす、幸せの根本法則のようなものです。
幸せの根本法則であり、かつ、エネルギーが、
法華経(ほけきょう)ということで、
たとえて言うなら、法華経は、
すべての人を、幸せにすることのできる、
生命における、『幸せの元(もと)』
『幸せになるための、根本原料』
のようなものです。
自動車は、ガソリンなどの燃料がなかったら、
動かないし、
動物は、食べ物がないと生きていけない。
それと同じように、幸せになるためには、
『幸せの元(もと)』、
『幸せになるための、根本原料』が、
必要になってくると、いうことです。
だから、幸不幸から考えれば、
生命というのは、
その『幸せの元(もと)』『幸せの原料』を、
どれだけ、たくさん、とり、
どれたけ、たくさん、食べるか?で、
幸せになれるか、なれないかが、
決まると、言えます。
その『幸せの元(もと)』
『幸せになるための、根本原料』が、
『法華経(ほけきょう)』なんですが、
ということは・・・
『幸せの元(もと)』
『幸せになるための、根本原料』を、
たくさん、とり、食べるということは、
『法華経』を、
どれだけ、たくさん実践(じっせん)したか?
どれだけ、真剣に実践したか?
ということに、なってきます。
だから、『法華経』を、
真剣に、たくさん、実践していくことが、
『幸せの元(もと)』
『幸せになるための、根本原料』を、
たくさん、とり、食べることになります。
そして、神々は、
その『幸せの元(もと)』、
『幸せの原料』を、人々が食べたあとの、
「残りかす」・・
ようするに、幸せに、ただよう匂い(におい)、
幸せに、まとわりつく香り(かおり)を、
食べて、生きていると、されています。
だから当然、神々は、
幸せの原料、幸せの元(もと)が、
たくさん、あるところに、
集まってくるわけです。
これは、なんとなく、
わかると思います。
人間だって、幸せの人の周(まわ)りには、
人が、たくさん、集まってきますが、
不幸の人の周りからは、
どんどん、人が、去(さ)っていきます。
これと、同じ原理(げんり)です。
神々は、
法華経(ほけきょう)の行者を、守ると、
契約(けいやく)を立てているわけだし、
だいいち、神々の好物である、
『幸せの元(もと)』『幸せの原料』から出る、
香(かお)りや、匂い(におい)は、
法華経を実践する人から、できてくるので、
『幸せの元(もと)』『幸せの原料』から出る、
香りや、匂い(におい)を、
食べたいので、神々は、
法華経を実践している人がいる、
その土地、その場所に、
居座(いすわ)っていると、
いうわけです。
ところが、人々が、
法華経に違背(いはい)して、
でたらめな宗教に走ったり、
法華経自体を、捨て去っているために、
神々は、法華経の行者を守るという、
契約を、守ることも、できず、
好物の『幸せの元(もと)』『幸せの原料』を、
食べることが、できないので、
愛想(あいそ)が、つきて、
とうとう、その土地を、
離(はな)れ、天上界に、帰ってしまうという、
話しです。
これが、仏法で説かれる、
『神天上(かみてんじょう)の法門』です。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
今、日本に、はびこっている、
神社、仏閣(ぶっかく)は、すべて、
真実の法華経(ほけきょう)とは、かけ離れた、
でたらめなことを、やっています。
ようするに、金儲け(もうけ)しか、
考えていないし、
教義(きょうぎ)なんて、デタラメで、
無いに等しいというか、
無いより、まだ悪い、
かってに、教義を、ねじまげて、
金儲けに、利用しているだけです。
だから、神々は、愛想(あいそ)が、つきて、
天上に、去(さ)ってしまっていますから、
いくら、神社、仏閣(ぶっかく)を、立てたところで、
そこに、神々など、いません!
じゃあ、神々が去った、
空(から)になった神社、仏閣に、
何が?いるかと、いうと、
神々が去ってしまって、空(あ)き家になっているので、
「これは、ちょうどいい!」
と、悪鬼、魔神、化け物、ゲテモノが、
住み着くことに、なります。
だから、神社、仏閣だと思って、
手を合わせたり、
願い事を、したところで、
それは、悪鬼や魔神、化け物、ゲテモノに、
祈りを、ささげることになり、
そういう、化け物、ゲテモノに、
祈りを、ささげるということは、
化け物、ゲテモノに、命をささげる結果になり、
自分の生命に、悪魔や化け物が投影(とうえい)され、
あたかも、化け物、ゲテモノが、
自分の生命に乗り移(うつ)るような形になっていく。
そうなれば、当然(とうぜん)、
さまざまな形で、
その人の人生に、
不幸が出現してきます。
これが、宗教における、
不幸になる原理(げんり)です。
だから、正月などに、
神社や仏閣(ぶっかく)に行きますが、
人々は新年なので良い事があるように、
神社や仏閣に、行きますが、
はっきり言えば、
それらの神社や仏閣の中身(なかみ)は、
神や仏(ほとけ)とは逆(ぎゃく)の、
悪鬼(あっき)や化け物(ばけもの)のたぐいですから、
そのような化け物、ゲテモノに、
祈りをささげに行くことになります。
悪鬼や化け物に祈りをささげていけば、
自分の生命と人生は、
それら悪鬼や化け物のような、
悪(あ)しきもの、間違(まちが)ったものに、
なっていきます。
自分の生命が、悪(あ)しきもの、
間違ったものになっていったならば、
当然、さまざまな形で、
不幸がもたらされることになります。
だから、正月などに、
神社や仏閣(ぶっかく)に行くのは、
いいことどころか、
新年早々、不幸になる原因(げんいん)を、
作りに行っているに過(す)ぎません・・。
実際、真剣に祈れば祈るほど、
不幸になっていきます。
ひどいことを言っているようですが、
本当のことだから、しょうがありません。
間違った宗教に祈るということは、
自分の生命と人生を、
不幸にしてしまうんです。
神社だから、仏閣だから、
神聖(しんせい)なのではないか・・
と考えるのは、間違えで、
本当は、逆に、
神社や仏閣などの間違った宗教が、
不幸の根源(こんげん)には、あります・・。
これが、本当のところです。
そのことに、早く早く、気づいてほしい・・・。
それとは、逆に、
さきほどの
『神天上(かみてんじょう)の法門』から、
考えるならば、
神々は、法華経(ほけきょう)の行者を守る、
契約(けいやく)を、結(むす)んでいるわけだし、
ようするに、自分が、
法華経の行者になれば、
神々は、その人を、守るために、
天上から、戻(もど)ってくるわけです。
その重要な『法華経(ほけきょう)』ですが・・・、
法華経といっても、
その時代時代によって、
その表現の仕方が、違います。
そして、今の時代の法華経とは、
実は、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
の七文字なんです!
この『南無妙法蓮華経』の七文字が、
法華経なんです。
だから、この『南無妙法蓮華経』の七文字が、
生命における、
『幸せの元(もと)』『幸せの原料』に、
なるわけです。
そして、神々は、
その『幸せの元』『幸せの原料』を、
食べた、残りかす、(香り(かおり)とか、匂い(におい))
を、食べて生きているわけなので、
ぼくたちが、その『幸せの原料』を、
たくさん、たくさん、
食べれば食べるほど、
神々が、自分の周(まわ)りに、集まってくるわけです。
神々が、自分の周りに、集まってくるので、
当然、その自分は、
幸せになっていくわけです!!!
その『幸せの元』『幸せの原料』を、
食べるということが、
実は、『南無妙法蓮華経を、となえる!』
と、いうことです。
だから、南無妙法蓮華経を、となえれば、となえるほど、
『幸せの原料』を、たくさん、食べることになり、
当然、幸せの、残りかす、
幸せの香りや匂(にお)いが、たくさん、でるので、
神々は、大いに喜び、
どんどん、集まってくるわけです。
そして、神々が、集まれば、集まるほど、
当然、自分は、守られ、
幸せになっていきます。
それが、
創価学会(そうかがっかい)が、実践している、
『南無妙法蓮華経を、となえる!』
という、生命を『幸せ』に変革していく、
仏法(ぶっぽう)の実践(じっせん)です。
だから、神々は、神社、仏閣にいるのでは、なく、
『南無妙法蓮華経を、となえる人』のもとに、
いるんです。
『南無妙法蓮華経を、たくさん、
となえる人』のもとに、
神々は、たくさん、集まってくるわけです。
しかも、南無妙法蓮華経の法華経(ほけきょう)を、
現実に正しく実践しているのは、
創価学会だけなので、
『創価学会の中で、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を、
実践している人』のもとに、
神々は、集まってくることに、なります。
だから、創価学会の人たちは、
幸せになっていけるわけです。
この話しは、
具体的に、人間のような形をした、
神々が、いるという説明ではなくて、
『幸せになるための、生命の原理』を、
わかりやすく、説明したものです。
そして、実際に、そのとおりになります!!!!
それは、
幸福と勝利の姿(すがた)を通(とお)して、
世界192ヶ国の、
創価学会の人たちが、証明しています・・・!
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
アニメ『火の鳥・異形編 』を
見た話しを、しましたが、
こんどは、『火の鳥・太陽編』を、
みました。
『太陽編』は、
アニメ・火の鳥の中でも、
いちばん、いいかげんな内容でしたが、
最後に、ちょっと、
ピンときた話しが、ありました。
この話しは、
大友皇子の軍勢(ぐんぜい)に、
へんな超常的な力(いわゆる、超能力)を、
使う仏法者?たちが、味方し、
大海人皇子の軍勢には、古くからの神々が、
味方につき、
ようするに、
仏法(ぶっぽう)の力を使う軍勢と、神々の力を使う軍勢が、
戦うという図式の、
へんてこな内容でした。
結局、この『火の鳥・太陽編』では、
神々の軍勢が、勝利するんですが、
最後のところで、
古くから、村を守っていた神々が、
「私たちは、この村を、去(さ)ります!」
と言います。
なぜ、そうするかと、いうと、
「この里(さと)の人たちには、
もう、神々への信仰の思いが、
なくなってしまった!
だから、もう、この里には、いられない!」
そう言って、
神々は、どこか、遠くに去っていきます。
この話しに、似ている話しで、
仏法(ぶっぽう)には、
『神天上(かみてんじょう)の法門(ほうもん)』
という法則(ほうそく)が、説かれています。
仏法(ぶっぽう)でいう、神々は、
法華経(ほけきょう)の行者を、
守るという契約(けいやく)を、しています。
法華経とは、
すべての人に、最高の幸せを、
もたらす、幸せの根本法則のようなものです。
幸せの根本法則であり、かつ、エネルギーが、
法華経(ほけきょう)ということで、
たとえて言うなら、法華経は、
すべての人を、幸せにすることのできる、
生命における、『幸せの元(もと)』
『幸せになるための、根本原料』
のようなものです。
自動車は、ガソリンなどの燃料がなかったら、
動かないし、
動物は、食べ物がないと生きていけない。
それと同じように、幸せになるためには、
『幸せの元(もと)』、
『幸せになるための、根本原料』が、
必要になってくると、いうことです。
だから、幸不幸から考えれば、
生命というのは、
その『幸せの元(もと)』『幸せの原料』を、
どれだけ、たくさん、とり、
どれたけ、たくさん、食べるか?で、
幸せになれるか、なれないかが、
決まると、言えます。
その『幸せの元(もと)』
『幸せになるための、根本原料』が、
『法華経(ほけきょう)』なんですが、
ということは・・・
『幸せの元(もと)』
『幸せになるための、根本原料』を、
たくさん、とり、食べるということは、
『法華経』を、
どれだけ、たくさん実践(じっせん)したか?
どれだけ、真剣に実践したか?
ということに、なってきます。
だから、『法華経』を、
真剣に、たくさん、実践していくことが、
『幸せの元(もと)』
『幸せになるための、根本原料』を、
たくさん、とり、食べることになります。
そして、神々は、
その『幸せの元(もと)』、
『幸せの原料』を、人々が食べたあとの、
「残りかす」・・
ようするに、幸せに、ただよう匂い(におい)、
幸せに、まとわりつく香り(かおり)を、
食べて、生きていると、されています。
だから当然、神々は、
幸せの原料、幸せの元(もと)が、
たくさん、あるところに、
集まってくるわけです。
これは、なんとなく、
わかると思います。
人間だって、幸せの人の周(まわ)りには、
人が、たくさん、集まってきますが、
不幸の人の周りからは、
どんどん、人が、去(さ)っていきます。
これと、同じ原理(げんり)です。
神々は、
法華経(ほけきょう)の行者を、守ると、
契約(けいやく)を立てているわけだし、
だいいち、神々の好物である、
『幸せの元(もと)』『幸せの原料』から出る、
香(かお)りや、匂い(におい)は、
法華経を実践する人から、できてくるので、
『幸せの元(もと)』『幸せの原料』から出る、
香りや、匂い(におい)を、
食べたいので、神々は、
法華経を実践している人がいる、
その土地、その場所に、
居座(いすわ)っていると、
いうわけです。
ところが、人々が、
法華経に違背(いはい)して、
でたらめな宗教に走ったり、
法華経自体を、捨て去っているために、
神々は、法華経の行者を守るという、
契約を、守ることも、できず、
好物の『幸せの元(もと)』『幸せの原料』を、
食べることが、できないので、
愛想(あいそ)が、つきて、
とうとう、その土地を、
離(はな)れ、天上界に、帰ってしまうという、
話しです。
これが、仏法で説かれる、
『神天上(かみてんじょう)の法門』です。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
今、日本に、はびこっている、
神社、仏閣(ぶっかく)は、すべて、
真実の法華経(ほけきょう)とは、かけ離れた、
でたらめなことを、やっています。
ようするに、金儲け(もうけ)しか、
考えていないし、
教義(きょうぎ)なんて、デタラメで、
無いに等しいというか、
無いより、まだ悪い、
かってに、教義を、ねじまげて、
金儲けに、利用しているだけです。
だから、神々は、愛想(あいそ)が、つきて、
天上に、去(さ)ってしまっていますから、
いくら、神社、仏閣(ぶっかく)を、立てたところで、
そこに、神々など、いません!
じゃあ、神々が去った、
空(から)になった神社、仏閣に、
何が?いるかと、いうと、
神々が去ってしまって、空(あ)き家になっているので、
「これは、ちょうどいい!」
と、悪鬼、魔神、化け物、ゲテモノが、
住み着くことに、なります。
だから、神社、仏閣だと思って、
手を合わせたり、
願い事を、したところで、
それは、悪鬼や魔神、化け物、ゲテモノに、
祈りを、ささげることになり、
そういう、化け物、ゲテモノに、
祈りを、ささげるということは、
化け物、ゲテモノに、命をささげる結果になり、
自分の生命に、悪魔や化け物が投影(とうえい)され、
あたかも、化け物、ゲテモノが、
自分の生命に乗り移(うつ)るような形になっていく。
そうなれば、当然(とうぜん)、
さまざまな形で、
その人の人生に、
不幸が出現してきます。
これが、宗教における、
不幸になる原理(げんり)です。
だから、正月などに、
神社や仏閣(ぶっかく)に行きますが、
人々は新年なので良い事があるように、
神社や仏閣に、行きますが、
はっきり言えば、
それらの神社や仏閣の中身(なかみ)は、
神や仏(ほとけ)とは逆(ぎゃく)の、
悪鬼(あっき)や化け物(ばけもの)のたぐいですから、
そのような化け物、ゲテモノに、
祈りをささげに行くことになります。
悪鬼や化け物に祈りをささげていけば、
自分の生命と人生は、
それら悪鬼や化け物のような、
悪(あ)しきもの、間違(まちが)ったものに、
なっていきます。
自分の生命が、悪(あ)しきもの、
間違ったものになっていったならば、
当然、さまざまな形で、
不幸がもたらされることになります。
だから、正月などに、
神社や仏閣(ぶっかく)に行くのは、
いいことどころか、
新年早々、不幸になる原因(げんいん)を、
作りに行っているに過(す)ぎません・・。
実際、真剣に祈れば祈るほど、
不幸になっていきます。
ひどいことを言っているようですが、
本当のことだから、しょうがありません。
間違った宗教に祈るということは、
自分の生命と人生を、
不幸にしてしまうんです。
神社だから、仏閣だから、
神聖(しんせい)なのではないか・・
と考えるのは、間違えで、
本当は、逆に、
神社や仏閣などの間違った宗教が、
不幸の根源(こんげん)には、あります・・。
これが、本当のところです。
そのことに、早く早く、気づいてほしい・・・。
それとは、逆に、
さきほどの
『神天上(かみてんじょう)の法門』から、
考えるならば、
神々は、法華経(ほけきょう)の行者を守る、
契約(けいやく)を、結(むす)んでいるわけだし、
ようするに、自分が、
法華経の行者になれば、
神々は、その人を、守るために、
天上から、戻(もど)ってくるわけです。
その重要な『法華経(ほけきょう)』ですが・・・、
法華経といっても、
その時代時代によって、
その表現の仕方が、違います。
そして、今の時代の法華経とは、
実は、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
の七文字なんです!
この『南無妙法蓮華経』の七文字が、
法華経なんです。
だから、この『南無妙法蓮華経』の七文字が、
生命における、
『幸せの元(もと)』『幸せの原料』に、
なるわけです。
そして、神々は、
その『幸せの元』『幸せの原料』を、
食べた、残りかす、(香り(かおり)とか、匂い(におい))
を、食べて生きているわけなので、
ぼくたちが、その『幸せの原料』を、
たくさん、たくさん、
食べれば食べるほど、
神々が、自分の周(まわ)りに、集まってくるわけです。
神々が、自分の周りに、集まってくるので、
当然、その自分は、
幸せになっていくわけです!!!
その『幸せの元』『幸せの原料』を、
食べるということが、
実は、『南無妙法蓮華経を、となえる!』
と、いうことです。
だから、南無妙法蓮華経を、となえれば、となえるほど、
『幸せの原料』を、たくさん、食べることになり、
当然、幸せの、残りかす、
幸せの香りや匂(にお)いが、たくさん、でるので、
神々は、大いに喜び、
どんどん、集まってくるわけです。
そして、神々が、集まれば、集まるほど、
当然、自分は、守られ、
幸せになっていきます。
それが、
創価学会(そうかがっかい)が、実践している、
『南無妙法蓮華経を、となえる!』
という、生命を『幸せ』に変革していく、
仏法(ぶっぽう)の実践(じっせん)です。
だから、神々は、神社、仏閣にいるのでは、なく、
『南無妙法蓮華経を、となえる人』のもとに、
いるんです。
『南無妙法蓮華経を、たくさん、
となえる人』のもとに、
神々は、たくさん、集まってくるわけです。
しかも、南無妙法蓮華経の法華経(ほけきょう)を、
現実に正しく実践しているのは、
創価学会だけなので、
『創価学会の中で、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を、
実践している人』のもとに、
神々は、集まってくることに、なります。
だから、創価学会の人たちは、
幸せになっていけるわけです。
この話しは、
具体的に、人間のような形をした、
神々が、いるという説明ではなくて、
『幸せになるための、生命の原理』を、
わかりやすく、説明したものです。
そして、実際に、そのとおりになります!!!!
それは、
幸福と勝利の姿(すがた)を通(とお)して、
世界192ヶ国の、
創価学会の人たちが、証明しています・・・!
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・