このまえ、
下弦の月(ラスト・クォーター)という映画を、
見ました。
この映画は、
矢沢あいの同名の漫画(まんが)「下弦の月」を、
映画化したものです。
19年まえ、
ロンドンで暮(く)らしていた
ミュージシャン、アダムは、
恋人、上条(かみじょう)さやか、
と愛し合う。
けれど、
アダムの恋人、上条さやかは、
19歳の若さで、
不治(ふじ)の病に倒(たお)れ、
「きっと生(う)まれ変わってくる」
という言葉を残(のこ)して、
死んでいく。
その言葉を、信じることもできず、
アダムは、絶望(ぜつぼう)して、
自殺(じさつ)する!
そして、アダムの霊(れい)は、
暗黒の闇(やみ)の世界に、
永遠に、さまよい続ける。
死んだ上条さやかは、
「きっと生まれ変わってくる」
と言った言葉どおり、
『望月美月(もちづき みづき )』として、
生まれ変わってくる!
しかし、アダムに会えることは、なかった。
なぜなら、
自殺した人間は、
生まれ変わることは、できず、
永遠(えいえん)に暗黒(あんこく)の闇の世界で、
苦しみつづけるという
設定(せってい)だからです。
19年に一度だけ、同じ形(かたち)の月が、
同じ月日に現れるという。
それが、
「下弦の月」(ラストクウォーター)という、
設定です。
そして、「下弦の月」が現れた時、
奇跡(きせき)を、おこせる!
ということに、なっている。
アダムは、暗黒の世界で、
ひたすら、
その下弦の月を待(ま)ち続ける。
そして、アダムの恋人、上条さやかが、
この世を去(さ)った時と、
同じ月(下弦の月)が、
また、19年後に、現(あらわ)れる。
そして、
その19年に一度しか現れない
「下弦の月」(ラストクウォーター)の奇跡で、
アダムは、
上条さやかの生まれ変わり、
望月美月に、
会うことができる。
しかし、それは、
望月美月を、暗黒の死の世界に、
導(みちび)くことになってしまう!
下弦の月が消え去ろうとするとき、
望月美月は、
事故に、遭(あ)い、
生死(せいし)を、さまよう。
肉体は、植物人間状態で、
かろうじて、生きているものの、
その霊は、幽霊(ゆうれい)として、
アダムと、めぐり合い、
アダムを愛した、
謎(なぞ)の館(やかた)で、さまようことになる。
だが、やがて、
望月美月の霊魂(れいこん)は、
現実の生きている、
さまざまな人たち(愛する人たち)の助けを得(え)て、
アダムとの別れを、決意し、
アダムも、また、微笑(ほほえ)んで、
それを、認(みと)め、
見送っていく。
望月美月は、
自分の肉体に戻り、
蘇生(そせい)して、
現実の愛(あい)すべき人たちと、
生きていくという、
だいたい、そんな感じのストーリーです。
この映画では、
よく言われる、
人間には、前世(ぜんせ)とか来世(らいせ)があり、
人間の生命は、永遠に生まれ変わって、
自己という生命(せいめい)は、
形は変わっても、
永遠に生き続けるということが、
前提(ぜんてい)として、
ストーリーが、展開されている。
このことを、認めないと話しが、
成(な)り立たなくなっている。
また、自殺してしまった絶望の霊(生命)を、
いかにして、安らがせ、
苦しみから、解(と)き放(はな)つことができるか?
ということが、
キーワードと、なっている。
こういう話しに興味(きょうみ)がない人には、
なんの利益(りえき)もないと思うけれど、
自分の亡(な)くなった家族や親族、友達、
そんな、今は、この世界に、
いなくなってしまった霊(生命)に対して、
たとえば、
悲しい死、苦しい死を
迎(むか)えた人であったならば、
その死んだ霊魂(生命)に対して、
「どうか、安(やす)らかであってほしい!」
「幸せで、あってほしい!」
「成仏(じょうぶつ)していてほしい!」
と、
願う人も、少なくないと思う。
そのために、
お墓参(はかまい)りをし、
さまざまな宗教(しゅうきょう)、信仰(しんこう)によって、
亡くなった人たちを、とむらったりする。
けれど、それらが、
すべて正しいわけでは、ない!
間違(まちが)った信仰、間違った宗教は、
亡くなっていった生命を、
逆に、
地獄(じごく)に落としてしまう結果になるからです。
そこに、大きな落(お)とし穴(あな)があり、
ほとんどの人が、
宗教の正邪(せいじゃ)に対する認識に、
欠如(けつじょ)している。
たとえば、葬式仏教(そうしきぶっきょう)・・・
葬式(そうしき)に呼んでくださいと、
言わんばかりですが、
この葬式仏教は、はっきり言って、
完全に間違った、デタラメな宗教です。
いくら高いお金を払(はら)って、
お経(きょう)を読んでもらったところで、
亡くなった人も、自分たちも、
地獄に落とし、
不幸に引(ひ)きずり込(こ)む結果にしかなりません。
神社信仰(じんじゃしんこう)にしても、
同じです。
デタラメの間違った宗教ですから、
どんなに、真心(まごころ)を込(こ)めて、
祈(いの)ってみたことろで、
自分も亡くなった人も、不幸にし、
実際、自分の人生に、
さまざまな形(かたち)で、
不幸という結果(けっか)が、出てきてしまいます。
ひどいことを言うと、
言うかもしれませんが、
それは、本当(ほんとう)のことであり、
本当のことを言わないほうが、
もっと、ひどいと思います。
最初のテーマに戻(もど)りますが、
それでは、
亡くなった人たち、
悲(かな)しい死、苦しい死を迎(むか)えてしまった生命を、
たとえば、
自殺してしまった霊(生命)であったとしても、
その霊(生命)を、
安らかに、幸せに、
歓喜(かんき)の生命に変えることは、
できるのだろうか?
答えは、『できる!!』です・・・。
それが、創価学会(そうかがっかい)が実践する、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
の仏法(ぶっぽう)なんです。
『南無妙法蓮華経を、となえる』ことを
原点(げんてん)とした、
創価学会の活動なんです。
その『南無妙法蓮華経』というのは、
全宇宙(ぜんうちゅう)を幸せに変換(へんかん)する、
生命の法則(ほうそく)なんです。
だから、南無妙法蓮華経を、となえると、
その生命が、
死んでいる生命(休んでいる生命)であろうと、
生きている生命(活動してる生命)であろうと、
生命そのものを、
幸せに変換することが、できる!
それが、
南無妙法蓮華経の音声(おんじょう)であり、
創価学会が実践(じっせん)している、
「南無妙法蓮華経の仏法」です。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
南無妙法蓮華経の音律(おんりつ)は、
全宇宙に、とどく!という。
たとえ、自分の家族や親族、友達が、
地獄の底で、あえいでいたとしても、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
地獄の底までも、とどき、
その人を、亡(な)くなった霊(生命)を、
救(すく)い出し、歓喜の(幸せの)生命に、
変えることが、できる!
それが、
『南無妙法蓮華経を、となえる』ことの、
無限(むげん)の力(ちから)の、
ひとつだという。
だから、
亡くなった人たち、
悲しい死、苦(くる)しい死を迎えてしまった生命、
自殺してしまった霊(生命)、
絶望の内に、死んでいった生命であったとしても、
その霊(生命)を、
本当に救い、
安らかに、幸せに、
成仏(じょうぶつ)させてあげたい!
と思ったら、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を実践し、
ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経を、となえぬく以外に、
方法はない!と断言しても、
言い過(す)ぎではありません。
これ以上の追善回向(ついぜんえこう)は、
絶対に、ありえないからです!・・・・。
だから、前世とか来世とか、
永遠の生命の存在(そんざい)を、信じ、
死んでいった霊(生命)が、存在すると、
信(しん)じている人たち、
そうでなくても、
亡くなった家族や友人を、心から思い、
その亡くなった霊(生命)に対して、
こころから、
安らかであってほしい! 幸せであってほしい!
と願(ねが)う人たちにとっても、
『南無妙法蓮華経を、となえる』ということは、
最高最大に、価値(かち)のある、
無上の、究極(きゅうきょく)の、
行動となります・・・・・!
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・