『ある男』、石川慶監督、121分、2022年。妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝、清野菜々。原作は、平野啓一郎『ある男』(2018)。
中々のオールキャスト作品。
たっぷり2時間という長めの映画だけど、柄本明やでんでんなど、節々に登場する大御所がぐいっと引っ張ってくれて、飽きさせない。
安藤サクラの息子役、坂元愛登(まなと)くんが、良かったな。ラスト近くのシーンで母親の安藤さんと話をするんだけど、この重要なシーンはとても記憶に残った。自分の中では、作品のメインとも言える大切な台詞だった。
別人に成り代わって生きることを選んだ、ある男。
その是非を問うているストーリーでないことは明らかだ。では何を軸に生きて行くのかと言うと、先述の残された妻と息子の会話が全てだと思える。
二人は「ある男」のことが好きだったし、「ある男」も、二人のことが好きだった。こう書くとまるで童話の中の文みたいで、少し笑ってしまう。けれどそれ以上に何があるだろうか。私の中で、結論はとてもシンプルだ。
ラストで一つ、また展開を向かえるのだが、それは私にはあまり心地のよいものではなかった。
身体性や今ここの感覚に基づかない世界の中で、堂々巡りをしている。
そういう側面が私達にあるなら、それはそれで別にいい。
しかし私達がそもそも、言葉のない世界に、完全なものとして(精神的に)生まれてきたんだとしたらどうだろう?
「おぎゃあ」と生まれたその瞬間、その世界に、制約するものとしての言葉は何も無かったはずだ。自他を分断するものは無かったはずだ。おそらく、全てに満ち足りて、最初のひと呼吸をしたに違いない。ああ、大満足である。
こういう映画を見ると、時々はそんな瞬間に戻りたくなる。
さあとりあえず布団に入って、ぬくぬくと寝よう。しかし布団って気持ちいいなあ。
柄本明が出てくると目が覚める。↓素晴らしい怪人っぷり。
清野菜々さん。↓もう一人の「ある男」と彼女の涙が、母子の会話と対を成す。↓
言葉での関係性を築くまで、彼は絵を描いていた。↓
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