釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

7. 『犬の子はおへど去らねば・・・』

2011-08-03 10:08:48 | 釋超空の短歌
『 犬の子はおへど去らねば、
    犬の子の心を知りて さびしかりけり 』
***
村の道を歩いていたら、どこからか子犬がついてきた。
首輪のないところをみると飼い犬ではないらしい。
捨て犬の子犬かも知れない。
ちょっと追い払う真似してみると少し後ずさりするが、また、ついてくる。

捨て犬の子ながら、人恋しいらしい。
この子犬も「生きもの」に恋しいらしい。

「さびしい」・・・そうだ、「生きものたち」はさびしいものだよ。

私は作者と子犬の「さびしさ」が痛いほど分かるような気がする。
***
以下は夏目漱石の文章の中で私が最も好きな文章。
ここには、漱石という人の「さびしさ」が最も象徴的に表現されていると私は思う。

『車夫は筵の中にヘクトーの死骸を包んで帰って来た。私はわざとそれに近付かなかった。白木の小さい墓標を買って来さして、それへ「秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ」という一句を書いた。私はそれを家のものに渡して、ヘクトーの眠ってゐる土の上に建てさせた。彼の墓は猫の墓から東北に當って、ほゞ一間ばかり離れてゐるが、私の書斎の、寒い日の照ない北側の縁に出て、硝子戸のうちから、霜に荒らされた裏庭を覗くと、二つとも能く見える。もう薄黒く朽ち掛けた猫のに比べると、ヘクトーのはまだ生々しく光ってゐる。然し間もなく二つとも同じ色に古びて、同じく人の眼に付かなくなるだろう。    (「硝子戸の中」夏目漱石)』

6. 山本健吉の解説(2)

2011-08-03 10:06:47 | 釋超空の短歌
私の持っている唯一の詩集「釋超空・会津八一」(新潮社・日本詩人全集16、昭和43年初版)に、山本健一による「釋超空・人の作品」と題された短い解説が掲載されてい.る。

この下記の解説も私は全く共感する。私の人生観みたいなものがあるとすれば、それは下記の山本健吉の文章で完璧に表現されていて、一言も補足する言葉はない。
以下、その解説。
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 自分の寂しさ、悲しさ、はかなさをことさら強調するのが、感傷である。

だが超空においては、それは自分一個に止まらず、人間一般、存在一般につながる普遍的な感情となる。寂寥の感がこのような人間普遍の感情にまで広がるとき、超空はその作者に聡明さを見る。彼が万葉歌人の黒人や家持に認めたのは、この種の聡明さだった。

「黒衣の旅人」とは、歴史的には高市黒人(たけちのくろひと)の流れを汲む旅人ということだった。黒人の羇旅(きりょ)歌の価値の顕彰者は超空である。それは旅における深い自然観照に裏打ちされた孤独感や不安や寂寥感がにじみ出ていて、そこに人間の普遍なるものへの認識が芽生えてくるのである。例を挙げよう。

  何処(いづく)にか船泊(ふなは)てすらむ 安礼(あれ)の崎 
     漕ぎ回(た)み行きし 棚無小舟(たななしをぶね) (万葉集巻一、五八)

  旅にしてもの恋(こひ)しきに やましたの
     朱(あけ)の赭船(そほぶね) 沖に漕ぐ見ゆ  (同巻三、ニ七〇)
                    (注:「赭船」とは赤い色の土を塗った船のこと)

  率(あども)ひて漕ぎ行く船は 高島の安曇(あど)の水門(みなと)に 
     泊(は)てにけむかも                (同巻九、一七一八)

 どれも旅先き、それも船旅において遭遇した、見も知らぬ船に、感慨を託した歌である。自分の孤独な存在感が、相手の孤独な存在感に、同じ孤独さ、さびしさの底においてつながるのであって、このうち「何処にか」と「率ひて」とは、夜になって昼間の景色を脳裏に再現した歌であろう。

その夜どこかの水門(みなと)に船がかりして、昼間すれ違ったあの船は、どこかの水門に、夜泊の場所を得ただろうかと、気にかけているのだ。

またと会うことのない小舟であり、船人であるが、たまたますれ違ったということに、人生のかりそめならぬ、だがかすかといえばかすかな、因縁を感じているのである。
超空の晩年の歌に、

  那霸の江の さびしき泊まり舟どもの 浮べる浪は思ひがたしも

などとあるのも、はるか後になって、沖縄の夜泊の船のさびしさを頭に思い描こうとしている歌で、その根底には、黒人の歌に通ずる感情がたゆたっている。

(以下割愛)
***
この私のブログので感想・連想は、所詮、山本健吉の解説の、言わば私流「変奏曲」に過ぎない。

5. 山本健吉の解説(1)

2011-08-03 10:04:36 | 釋超空の短歌
私の持っている唯一の詩集「釋超空・会津八一」(新潮社・日本詩人全集16、昭和43年初版)に、山本健一による「釋超空・人の作品」と題された短い解説が掲載されてい.る。

この解説が実に良く、私は繰り返しこれを読んでいる。釋超空という人を理解するには恐らくこれ以上の解説はあるまい。少なくとも私には。

以下、この解説の冒頭部分を、私自身が反芻する目的で以下に書いておこう。
(ただし、読みやすいように、適宜、空白行を入れている。)
以下、その解説。
***
北原白秋に「折口さんの歌について」と傍書した『黒衣の旅びと』というエッセイがある。その一節に言う。

『万葉でいへば、同じ旅の歌でも、人麿より黒人くろひと)に、この人は近く、自然の観照の於いても、赤人よりも黒人に深みを見られるごとくに、この人は複雑である。

しかも黒人の境地を出発として、涯(はて)しもない一つ道に踏み出したかの観がある。 この特異にして幽鬼(いうき)のやうな経験者は、幽かに息づいては山沢をわたり、ひそかに息をこらしては林草の間をたづねてゆく。

音こそきかね。道のはるかに立つ埃(ほこり)にも眼を病むのである。』

これは超空の人および歌の特質をよく見据えた言葉であった。超空の旅の歌の「ひそけさ」や「かそけさ」が持つ不思議な寂寥感ーーと白秋は言い、そこに尋常人の鍛錬(たんれん)によっては得られぬ、不気味なほどの底から光って響いて来る、未だかって見ないひとりの人の歌の本質を見た。

『若しかういふ旅人と山奥の径や深い林の中で遭遇ったら、それは明るい昼の日射しの下ではあっても、冷々とした黒い毛ごろもの気色や初めて触れて来るたましひの圧迫を感じずには、すれちがへない或るものがあらう』(同) とまで言っている。

「ひそけさ」や「かそけさ」は、超空の歌にしばしば出てくる形容詞である。

またかと、うんざりする読者もあるかも知れないが、こういう言葉を、ただのセンチメンタリズムと受取ったら間違うのである。それは作者のはかりがたく深く意識の底から聞こえてくるうめき似ている。

そして、言葉の表面の意味内容とは別に、歌の底に沈んでいる一種の重苦しい不気味な暗さを暗示する。

それを感じ取ったればこそ、白秋は「冷々とした黒い毛ごろも気色」と言い、「黒衣の旅人」と言ったのであろう。その「黒」は、人間性の根源の暗黒を示すものだ。

(以下割愛)

4. 『をとめ一人まびろき土間に立つ・・・』

2011-08-03 07:50:37 | 釋超空の短歌
『をとめ一人 まびろき土間に立つならし。くらき その声 宿せむと言ふ』
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おそらく、作者は民俗学の研究の一人旅を終えて、日本のどこか奥深い土地で、疲れた体を休める一泊の宿を探してしたのだろう。

もう、あたりは夕闇に包まれていて、まわりの山々は既に黒い闇の中に沈もうとしている。 すると、いままで歩いてきた古道の端に在る、暗がかった家から低く声がする。

このうたには、こういう背景が先ず眼に浮かんでくる。

「宿せんと言ふ」「をとめ」の声は、どこか暗いというより罔(くら)い。
その声は、どこかの古池の奥から聞こえてきそうな籠もった声。

いや、その声は、人間のふるいふるい歴史の遠くから、かすかに呻くように聞こえてくる魂(たましい)の声のような気さえする。
***
空海に以下の言葉がある。

「生まれ生まれ生まれ生まれて生(しょう)の始めは罔(くら)く
 死に死に死に死に死んで死もまた罔し」

私は釋超空の上記したうたから、この空海の言葉を連想する。

この連想は「をとめ」だから成立する。
つまり、人は人を生み、そして人は死んでいく・・・そういう生と死の連綿とした存在としての人間の連鎖。

そういう人間のありようは、暗い陰にひっそりと佇む「をとめ」のように罔(くら)い。

「宿せむと言ふ」「くらき その声」の「をとめ」は、そのような物象としての人間の根源的なものの象徴ではないか。

たぶん釋超空という人は、人間の物象としての根源的な罔(くら)いものを探求し続けていたのではないだろうか? と私は思ったする。

3. 『夕空のさだまるものか・・・』

2011-08-03 07:48:29 | 釋超空の短歌
『夕空の さだまるものか。
   ひたぶるに
 霄(は)れゆく峰に、
むかひ 居にけり  』
***
座敷の障子を開け、正座して、武士が雨上がり夕空をじっと見ている。

傍らに太刀を置き、正座の姿は微動だにしない。
その凛とした姿。
なにかを覚悟しての夕空の凝視だろう。

あした切腹するのかも知れない。
***
与謝蕪村に以下の句がある。

『お手打ちの 夫婦(めをと)なりしを 衣替(ころもがへ)』

この夫婦の仔細な事情はここでは問わない。
ただ、あした夫婦共お手打ちなるのだ。
しかし今日は衣替えの日。

夫婦は今日平然として衣替えをする。
毎年行っているように。
***
私はこういう人たちの心構えに憧れる。
非日常を目前としながら日常の中の平常心。
***
雨あがり空はやがて夕焼けへと赤く染まっていく。
開け放った障子の外の樹々も静かだ。
武士はやはり正座を崩さず凛として「霄(は)れゆく峰」をみつめている。