釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

31. 『なき人の今日は七日となりぬらん・・・』

2011-08-25 14:01:26 | 釋超空の短歌
『 なき人の
  今日は、七日になりぬらむ。
    遭ふ人も
    あふ人も
  みな 旅人 』
***
私は一切の仏事に無関心な人間である。
いや遠慮なく白状すれば、一切の仏事に軽蔑さえしている人間である。

さらに言えば、仏事のみならず、一切の他の宗教的行事に遊戯以上の価値を認めない人間である。そう、私は、一切の宗教行事に、稚児の遊戯以上の価値を認めない。

宗教とは、畢竟、人類にとって極めて危険な火遊びである。
そして、私は宗教の偽善ほど「偽善」いう言葉に似つかわしいものは、この世にないと思っている。

それでは生きていることに淋しくはないかと問われたら・・・確かに、生きていることは淋しいとは私は思う。 しかし、その淋しさは、私における宗教の不在に拠るものでは決してない。私での宗教の不在は・・・むしろ、せいせいとした気分に私をさせる。

ここまで宗教を無定義に使ってきた。
ここで宗教もしくは宗教的雰囲気を下記のうたに限定させれば・・・私はその宗教の、まさに命がけの信奉者である。

そのうたとは、今迄何度も書いてきた『供養等』の連作である。
***
人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ 
                                   
道に死ぬる馬は、仏となりにけり。行くとどまらむ旅ならなくに    
                                   
邑(むら)山の松の木(こ)むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓 
                                   
ひそかなる心をもりて、をはりけむ。命のきはに、言うこともなく   
                                     
ゆきつきて 道にたふるゝ生き物のかそけき墓は、草つゝみたり
***
この『供養等』こそが私の宗教である。その宗教がいかなる名前のものか、勿論、私は興味はない。 この記事での掲題のうたも、もちろん、『供養等』の変奏であることは言うまでもない。

PS.
こんなところに書くことではないが、数年前、私はある住職と喧嘩した。
私に言わせれば、この住職(に代表される仏教界)の金銭的強欲に、流石に温厚な私も激怒した。私は即改葬の処置をとった。

そして、私は死後ある大学病院へ献体する契約をし、医学生諸君へ献体後、遺体はその大学病院の共同墓地へ「永代供養」することになっている。このことは、私の宗教の必然的成り行きである。この行為は、私において『供養等』となんら矛盾しない。

30. 『葛(くず)の花 踏みしだかれて・・・』

2011-08-25 08:31:11 | 釋超空の短歌
『葛(くず)の花 踏みしだかれて、色あたらし。
          この山道を行きし人あり。』
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このうたは釋超空の代表歌だそうだ。
このうたの直接の意味は私みたいな門外漢でも分かる。

文学のみならず如何なる分野でも先人はいるものだ。
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芭蕉のその一人だろう。

デヴァカント(Devakant)というアーティストがいる。
1996年、NHK・BSで『音巡礼・奥の細道』という番組が放送された。

実に良い番組であった。特に演出の良さが抜きんでいた。この演出家は今でも覚えている。 波多野紘一郎。たぶん字は間違っていないと思う。当時から私は彼を注目しているのだが、この番組のほかは残念ながら観たことがない。

次にデブァカント。彼は歌の旅人と自称しているようだ。アルメニア系アメリカ人で世界各地を訪ね歩いているらしい。芭蕉はインドで知ったと番組で言っていた。

この番組では彼はインド風の白装束をし、編み笠を被(かぶ)り、長い杖を片手にひたすら「奥の細道」旧跡を訪ね歩く。その森閑とした旧跡を背景にして、これまたインドあたりの古楽器を奏で自作の歌をうたう。

ときには土地の老人たち御詠歌や坊さんたちの声明とのコラボレーションもやる。

NHKのPR文では『日本の原風景を現代のスピリットに蘇らせる音楽紀行』とあるが、そのとおりの稀有の番組であった。
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私がBHSテープからBDディスクへと、真っ先にダビングしたのはこの番組だった。

この番組は私が今迄みてきたTV番組の中でベスト1だと躊躇なく言える。