『 なき人の
今日は、七日になりぬらむ。
遭ふ人も
あふ人も
みな 旅人 』
***
私は一切の仏事に無関心な人間である。
いや遠慮なく白状すれば、一切の仏事に軽蔑さえしている人間である。
さらに言えば、仏事のみならず、一切の他の宗教的行事に遊戯以上の価値を認めない人間である。そう、私は、一切の宗教行事に、稚児の遊戯以上の価値を認めない。
宗教とは、畢竟、人類にとって極めて危険な火遊びである。
そして、私は宗教の偽善ほど「偽善」いう言葉に似つかわしいものは、この世にないと思っている。
それでは生きていることに淋しくはないかと問われたら・・・確かに、生きていることは淋しいとは私は思う。 しかし、その淋しさは、私における宗教の不在に拠るものでは決してない。私での宗教の不在は・・・むしろ、せいせいとした気分に私をさせる。
ここまで宗教を無定義に使ってきた。
ここで宗教もしくは宗教的雰囲気を下記のうたに限定させれば・・・私はその宗教の、まさに命がけの信奉者である。
そのうたとは、今迄何度も書いてきた『供養等』の連作である。
***
人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ
道に死ぬる馬は、仏となりにけり。行くとどまらむ旅ならなくに
邑(むら)山の松の木(こ)むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓
ひそかなる心をもりて、をはりけむ。命のきはに、言うこともなく
ゆきつきて 道にたふるゝ生き物のかそけき墓は、草つゝみたり
***
この『供養等』こそが私の宗教である。その宗教がいかなる名前のものか、勿論、私は興味はない。 この記事での掲題のうたも、もちろん、『供養等』の変奏であることは言うまでもない。
PS.
こんなところに書くことではないが、数年前、私はある住職と喧嘩した。
私に言わせれば、この住職(に代表される仏教界)の金銭的強欲に、流石に温厚な私も激怒した。私は即改葬の処置をとった。
そして、私は死後ある大学病院へ献体する契約をし、医学生諸君へ献体後、遺体はその大学病院の共同墓地へ「永代供養」することになっている。このことは、私の宗教の必然的成り行きである。この行為は、私において『供養等』となんら矛盾しない。
今日は、七日になりぬらむ。
遭ふ人も
あふ人も
みな 旅人 』
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私は一切の仏事に無関心な人間である。
いや遠慮なく白状すれば、一切の仏事に軽蔑さえしている人間である。
さらに言えば、仏事のみならず、一切の他の宗教的行事に遊戯以上の価値を認めない人間である。そう、私は、一切の宗教行事に、稚児の遊戯以上の価値を認めない。
宗教とは、畢竟、人類にとって極めて危険な火遊びである。
そして、私は宗教の偽善ほど「偽善」いう言葉に似つかわしいものは、この世にないと思っている。
それでは生きていることに淋しくはないかと問われたら・・・確かに、生きていることは淋しいとは私は思う。 しかし、その淋しさは、私における宗教の不在に拠るものでは決してない。私での宗教の不在は・・・むしろ、せいせいとした気分に私をさせる。
ここまで宗教を無定義に使ってきた。
ここで宗教もしくは宗教的雰囲気を下記のうたに限定させれば・・・私はその宗教の、まさに命がけの信奉者である。
そのうたとは、今迄何度も書いてきた『供養等』の連作である。
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人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ
道に死ぬる馬は、仏となりにけり。行くとどまらむ旅ならなくに
邑(むら)山の松の木(こ)むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓
ひそかなる心をもりて、をはりけむ。命のきはに、言うこともなく
ゆきつきて 道にたふるゝ生き物のかそけき墓は、草つゝみたり
***
この『供養等』こそが私の宗教である。その宗教がいかなる名前のものか、勿論、私は興味はない。 この記事での掲題のうたも、もちろん、『供養等』の変奏であることは言うまでもない。
PS.
こんなところに書くことではないが、数年前、私はある住職と喧嘩した。
私に言わせれば、この住職(に代表される仏教界)の金銭的強欲に、流石に温厚な私も激怒した。私は即改葬の処置をとった。
そして、私は死後ある大学病院へ献体する契約をし、医学生諸君へ献体後、遺体はその大学病院の共同墓地へ「永代供養」することになっている。このことは、私の宗教の必然的成り行きである。この行為は、私において『供養等』となんら矛盾しない。