『 道に向く逢阪寺の
墓石の
夕つく色を、
見てとほるなり 』
***
通勤とか通学とか、あるいは主婦なら夕餉の支度とか、誰でも、いつも通る路があるものだ。
つまり日常生活の路である。
そこには馴染みの食堂とか八百屋とか魚屋とか雑貨屋とかが昔はあったものだが、今やそれらはスーパーマーケット等にとって変わられ、それらの小さな店は懐かしき『昭和の風景』になってしまった。
しかし、今でもお寺は健在のようだ。
このいつも通る路端に大きなお寺があって、この寺の門近くには、これまた大きな墓石が路に向いて立っている。
このあたりの森(しん)とした雰囲気は昔から、ちっとも変わっていない。
通勤とか通学とか、あるいは主婦なら夕餉の支度とか、この路をいつも通っている人たちは・・・この墓石はもう意識の外にあって今や誰も見向きもしない。
こういう日々の流れにあって、ある夕暮れ、その墓石をふと見た人がいた。
その墓石の表面に何とも言えぬ『夕つく色』の色彩に気付いたのだ。
紺碧とでも言おうか、いや緋色とでも言おうか、なんとも不思議な光の反射に一瞬気付いた。
今生では見られぬ色彩をその墓石に見たと、その人は思った。
その夕べから、その人は、その路を通り過ぎるたびに、その墓石を見やるのだが・・・しかし、あのときの『彼岸の色』は今だに見ることができない。
墓石の
夕つく色を、
見てとほるなり 』
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通勤とか通学とか、あるいは主婦なら夕餉の支度とか、誰でも、いつも通る路があるものだ。
つまり日常生活の路である。
そこには馴染みの食堂とか八百屋とか魚屋とか雑貨屋とかが昔はあったものだが、今やそれらはスーパーマーケット等にとって変わられ、それらの小さな店は懐かしき『昭和の風景』になってしまった。
しかし、今でもお寺は健在のようだ。
このいつも通る路端に大きなお寺があって、この寺の門近くには、これまた大きな墓石が路に向いて立っている。
このあたりの森(しん)とした雰囲気は昔から、ちっとも変わっていない。
通勤とか通学とか、あるいは主婦なら夕餉の支度とか、この路をいつも通っている人たちは・・・この墓石はもう意識の外にあって今や誰も見向きもしない。
こういう日々の流れにあって、ある夕暮れ、その墓石をふと見た人がいた。
その墓石の表面に何とも言えぬ『夕つく色』の色彩に気付いたのだ。
紺碧とでも言おうか、いや緋色とでも言おうか、なんとも不思議な光の反射に一瞬気付いた。
今生では見られぬ色彩をその墓石に見たと、その人は思った。
その夕べから、その人は、その路を通り過ぎるたびに、その墓石を見やるのだが・・・しかし、あのときの『彼岸の色』は今だに見ることができない。