釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

32. 『夕かげの明かりにうかぶ土の色・・・』

2011-08-26 07:50:41 | 釋超空の短歌
『夕かげの明かりにうかぶ土の色。 ほのかに 靄(もや)は這ひにけるかも』
***
私は小さい頃(小学生の5,6年生頃かな)、理由もなく午後という時間帯が嫌いだった。
特に初夏とか晩秋とかの午後は嫌いだった。

あたりは、ひっそりとしていて、なんだか生気がなく、時間がとんよりと過ぎていく。
世界が死んでいるように鬱陶しい。

耳に注意すると土間の柱時計はチクタクと時を刻んでいる。
外を見ると見慣れた風景は張り付いたように「無表情」のままだ。

このうたに私は、そのような「けだるさ」を感じる。
「生きる」ということの「けだるさ」か。

これは非常に贅沢な感情とは言えるだろう。
「生きる」ということに、それこそ全身全霊を賭けなければならない人は多いだろうから。

しかしーーー
一応五体満足でもーーー(それは、かけがえなく贅沢なことだが)
しかしーーー
「生きる」ということが、なんと言いようもなく「けだるい」。

この「けだるさ」の正体は?

私は分からない。
ただ、この正体なるものが今だに私に巣食っている。

31. 『なき人の今日は七日となりぬらん・・・』

2011-08-25 14:01:26 | 釋超空の短歌
『 なき人の
  今日は、七日になりぬらむ。
    遭ふ人も
    あふ人も
  みな 旅人 』
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私は一切の仏事に無関心な人間である。
いや遠慮なく白状すれば、一切の仏事に軽蔑さえしている人間である。

さらに言えば、仏事のみならず、一切の他の宗教的行事に遊戯以上の価値を認めない人間である。そう、私は、一切の宗教行事に、稚児の遊戯以上の価値を認めない。

宗教とは、畢竟、人類にとって極めて危険な火遊びである。
そして、私は宗教の偽善ほど「偽善」いう言葉に似つかわしいものは、この世にないと思っている。

それでは生きていることに淋しくはないかと問われたら・・・確かに、生きていることは淋しいとは私は思う。 しかし、その淋しさは、私における宗教の不在に拠るものでは決してない。私での宗教の不在は・・・むしろ、せいせいとした気分に私をさせる。

ここまで宗教を無定義に使ってきた。
ここで宗教もしくは宗教的雰囲気を下記のうたに限定させれば・・・私はその宗教の、まさに命がけの信奉者である。

そのうたとは、今迄何度も書いてきた『供養等』の連作である。
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人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ 
                                   
道に死ぬる馬は、仏となりにけり。行くとどまらむ旅ならなくに    
                                   
邑(むら)山の松の木(こ)むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓 
                                   
ひそかなる心をもりて、をはりけむ。命のきはに、言うこともなく   
                                     
ゆきつきて 道にたふるゝ生き物のかそけき墓は、草つゝみたり
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この『供養等』こそが私の宗教である。その宗教がいかなる名前のものか、勿論、私は興味はない。 この記事での掲題のうたも、もちろん、『供養等』の変奏であることは言うまでもない。

PS.
こんなところに書くことではないが、数年前、私はある住職と喧嘩した。
私に言わせれば、この住職(に代表される仏教界)の金銭的強欲に、流石に温厚な私も激怒した。私は即改葬の処置をとった。

そして、私は死後ある大学病院へ献体する契約をし、医学生諸君へ献体後、遺体はその大学病院の共同墓地へ「永代供養」することになっている。このことは、私の宗教の必然的成り行きである。この行為は、私において『供養等』となんら矛盾しない。

30. 『葛(くず)の花 踏みしだかれて・・・』

2011-08-25 08:31:11 | 釋超空の短歌
『葛(くず)の花 踏みしだかれて、色あたらし。
          この山道を行きし人あり。』
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このうたは釋超空の代表歌だそうだ。
このうたの直接の意味は私みたいな門外漢でも分かる。

文学のみならず如何なる分野でも先人はいるものだ。
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芭蕉のその一人だろう。

デヴァカント(Devakant)というアーティストがいる。
1996年、NHK・BSで『音巡礼・奥の細道』という番組が放送された。

実に良い番組であった。特に演出の良さが抜きんでいた。この演出家は今でも覚えている。 波多野紘一郎。たぶん字は間違っていないと思う。当時から私は彼を注目しているのだが、この番組のほかは残念ながら観たことがない。

次にデブァカント。彼は歌の旅人と自称しているようだ。アルメニア系アメリカ人で世界各地を訪ね歩いているらしい。芭蕉はインドで知ったと番組で言っていた。

この番組では彼はインド風の白装束をし、編み笠を被(かぶ)り、長い杖を片手にひたすら「奥の細道」旧跡を訪ね歩く。その森閑とした旧跡を背景にして、これまたインドあたりの古楽器を奏で自作の歌をうたう。

ときには土地の老人たち御詠歌や坊さんたちの声明とのコラボレーションもやる。

NHKのPR文では『日本の原風景を現代のスピリットに蘇らせる音楽紀行』とあるが、そのとおりの稀有の番組であった。
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私がBHSテープからBDディスクへと、真っ先にダビングしたのはこの番組だった。

この番組は私が今迄みてきたTV番組の中でベスト1だと躊躇なく言える。

29. 『にぎわしく人住みにけり・・・』

2011-08-24 07:52:26 | 釋超空の短歌
『にぎわしく 人住みにけり。
   はるかなる木(こ)むらの中ゆ 人わらふ声 』
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人間が好きか嫌いかと問われたら、私は人間嫌いの部類に入る。人と付き合うというのが生来苦手で、今でもそうだ。

人間と一緒にいるより、私は犬や猫と一緒に居るほうが気楽だ。
但し、私は独身ではないから、正真正銘の「人間嫌い」とは言えないだろう。

(ここで、こんな駄文を書いていることを家内が知ったら不機嫌を越して又いつもの馬鹿が始まったと軽蔑するに違いない)

ともあれ、一応、家内は別にして、人間という動物は決して好きではない。
というより、人間という生物は私には疲れる存在なのだ。
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このような人間嫌いの私ではあるのだが、上記したうたは好きだ。

『はるかなる木(こ)むらの中ゆ 人わらふ声』を、遠くから何気なく聞くという「人懐かしさ」は恐らく私は人一倍強いとは思う。

これは、ある意味で矛盾していることだが、私は遠くから人を見るのは好きなのだ。

その人が、私と無縁であればあるほど、そして二度と逢わない行きずりの人であればあるほど、私はその人が好き、というより、懐かしい印象を私に残す。

これは、漱石の『肩にきて人なつかしや赤とんぼ』の赤とんぼの心情かも知れない
。  この赤とんぼに訊いてみたい。 人なつかいしいとき、あるかい?

27. 『をとめ居て、ことばあらそふ声すなり・・・』

2011-08-23 07:25:53 | 釋超空の短歌
『 をとめ居て、ことばあらそふ声すなり。
    穴井(あない)の底の くらき水影(みずかげ) 』
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いままでみてきた釋超空のうたには、「をとめ」が登場するうたが二つあった。
それらは下記のうただ。

『をとめ一人 まびろき土間に立つならし。くらきその声 宿せむと言ふ』
『邇摩(にま)の海 磯に向かひて、ひろき道。をとめ一人を おひこしにけり』

掲題のうたを含めて、これらの三人の「をとめ」には共通点があるように私は思う。
その共通点は、まさに 『穴井(あない)の底の くらき水影(みずかげ)』だと私は感じる。

私は男性だから女性のかたがどう思うか分からないが、「をとめ」と聞いたとき男性は、(と男性一般に広げるのは誤りだろうから、少なくとも私は)その「をとめ」に何か不気味なと言うと語弊があるが、ある謎めいたものや原初的なものを感じる。

おそらく人間の根源的なものは女性、とりわけ「をとめ」と表現される処女にあるような気が私はする。男性は所詮の女性の属性の断片に過ぎないのではないか。

掲題のうたには、『ことばあらそふ声すなり』とある。
何をあらそっているのだろう。
何をあらそうにせよ、あらそっているのは男性たちに違いない。

その、あらそいの圏外で、ぼんやりと佇んでいるのは・・・『穴井(あない)の底の くらき水影(みずかげ)』 のような「をとめ」である。

当然、人間実存の探求者である釋超空の関心は、この「をとめ」にある。
男性と女性とは、この宇宙での実存の次元が異なっているのだから。
(高低を定義ぬきで言えば、女性は男性より高次元の存在なのだ)