夜中寒くなって来ました
寒いなと一度目が覚めました。
お布団から出てる顔や手が冷たい。
顔までお布団かぶり
寒さを避けて。(笑)
子供の頃
とても寒い京都の夜
布団の中にすっぽり入っていつも
ここは洞窟の中
そうよ
ここは洞穴なのよ
と、洞窟の中の物語を想像していました。
ふとあの時の感覚が戻ります。
ちょっと楽しいかなあ。
洞窟の中の奥に行くと
通路を抜けた所に
秘密の場所が広がるんです
そこはお花畑で空も美しいところ
そこにかわいい屋根のおうちがあって
私はそのおうちに住んでいます
そんな想像をいつもしていました。
寒い夜の楽しみでありました。
気温がずいぶん低くて
アカギレがよくできました
学校行くとき手の甲は真っ赤で痛くて
手袋洗濯しないとすぐに血が付きました
今はいいハンドクリームとかあるから
アカギレの子どもたちはいないでしょうね(笑)
昔はトイレ掃除も冷たい水でした。
お湯をやかんで練炭のアサガオ型の火鉢にかけておいて
裏の寒いトイレ掃除をして感覚なくなると
終わったあとに裏庭の洗い場にやかん運んで金ダライに、お湯を注ぎました
そこにお水足して
いい塩梅のお湯になったら
手を浸けます
ジワーッってあたたかくなるあの瞬間は天国
温泉に入ってる想像をするのです。
その頃は、温泉なんか知らないけれど
テレビとかで見る温泉を想像しながら手を浸けて
そう、ここは温泉なのよ
って楽しい想像をいつもしていました。
お湯はとてもとてもいい気持ち。
子供の頃の想像力はとても柔軟でとても豊かですね~。
そんな柔軟な想像力を
いつまでもいつまでも持っていたいなあと想うんです。
想像して作り出して行く世界は無限で
それでも私という一人の人間は限りがあるのですけれども
私が本当に幸せなのは
想いを込め表現した作品を生みだして
それをカタチにできることです。
しかし本当に大切なのは実はそのカタチではありません。
私の持論ですが
カタチは物質。
カタチの中に内在する何らかの大切なものに人は感動したり喜びを覚える気がするのです。
若い頃初めて文化博物館に展示が決まった時
その初日に大回顧展されてたしおみ先生が
同じ題材の絵をふたつ並べて展示しておられましたが
そこに私の手を取り連れて行かれ
「このふたつの絵を見て、あなたは何を感じる?」
と言われました。
私は何もわからないままに
「こちらは嬉しそう。こっちはちょっとさみしい気がします」
そう言うと先生はニッコリ笑って
「それがね、絵の中に内在するエネルギーなのよ。そういう心情があった」
そう言われました。
先生からスケッチブックで
構図の取り方とか色んな事を会期中しょっちゅう私のお隣の小画廊にお運びしてもらい教えてもらった貴重な経験でした。
「着眼点とか感性をそのまんまに成長していきなさい」
私はその時初めて
作品の見えない所が大切なのだと言うことを教わりました。
木で作るというともちろんその技術や工法はとても大切。
けれども画廊で表現していくということはそれではないと。
素材の使い方や組み合わせ含め
これからも表現を色々模索しあらわしていきたいですが
その内在するエネルギーを、感じられるような世界にしていきたいなと
偉そうに想っているんです。
どこまでできるかわかりません。
でも
私が色んな方々から教わった有形無形の宝物は
息子にも少しずつでも伝えて行きたいと想っています。
表現の模索は彼の仕事。
それは助けられません。
自分で苦しみ壁に当たらなければ何も乗り越えられない気がします。
私は自分の世界を広げて行くのみで
彼の表現には干渉もしません。
違うからです。
彼と私は違う個。
いずれライバルになりますね。
凝り固まったり、固執して感性を、錆びつかせないために私も柔らかくいたいなあと想います。
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