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ボランティアの仕事、戊辰戦争で亡くなった方のお墓の清掃を・・・!

2008年08月03日 | Weblog


   史談会や古文書の学習メンバー5名で戊辰戦争で亡くなった方々のお墓の草取りや清掃を行いました。史談会のこの活動は戊辰戦争130年にあたる平成10年から始められました。私がこの会に入ってから4年目になります。
   戊辰戦のお墓は市内の4カ所にありますが、私たちは当地区の2カ所のお墓の清掃をします。

             恩徳寺山門

   とても立派な山門です。こちらの恩徳寺さんも由緒のあるお寺さんです。この山門にも何かいわれがありそうです。こちらのお寺には戊辰戦の16人のお墓があります。お墓の掃除をしていたらご住職がお茶を持ってきて下さり暫く雑談をしました。次回こうした機会があった時は、この山門についてお聞きしたいと思います。

              

          

 

    「佐賀鍋島藩の助成を得て・・・」と説明板にはあります。

   5月29日、私は旧二ツ井町を訪れた時のBLOGに次のように書いています。

   旧二ツ井町(現在の能代市)の「清徳寺」です。私はここで大変な勉強をしました。
  「清徳寺」は、山門脇にある案内板によると『秋田藩の家老梅津政景の開基による曹洞宗寺院。戊辰戦争に際し、二ツ井町は南部藩に攻め込まれ、迎え撃つ官軍との激戦地だった。「肥前八勇士の墓」がここに祀られている。東北巡行の際、明治天皇は同じ肥前(佐賀)出身で随行していた参議・大隈重信を代拝させた。』とあります。
  梅津政景は二ツ井町周辺を与えられ、開墾に力を入れた人物で岩関神社に祀られています。このお寺は、文政元年(1818)に建てられたもので、境内にある推定年齢500年の銀杏や欅と共に歴史を感じさせるお寺でした。

   私たちは、「肥前八勇士の墓」を参拝しに行ったのですが、肥前とは今の佐賀県です。何故東北の戊辰戦争に佐賀から兵士が参加していたのでしょうか。
  講師の方が準備して下さった資料や説明によると、佐賀からは600名の新政府軍の近代兵器を持った精鋭部隊が8月26日より秋田軍に参加(戦闘開始は8月10日)、それ以降は南部盛岡軍は敗退を始めることになります。終戦は9月20日でした。
  私は戊辰戦争は単に秋田軍(幕軍)と南部盛岡軍(官軍)が戦い、秋田軍が勝った戦いだったと思っていました。盛岡市の先人記念館で戊辰戦争の特別展を見学した時も南部盛岡軍(官軍)の中の3人の中心人物については詳細に分かったのですが、その時も秋田側のことについては何も分からなかったのです。
   一方だけ知って全てを知った積もりでいたことを厳しく諫められた感のする研修会でした。秋田県側に立って考えていた(調査研究していた)講師の考え方を知ることができとても良かったと思います。
   今後は両極の考えを忘れず考えて見るよう心します

   「肥前八勇士の墓」の墓を訪れたことと同じ内容が記されていました。今までしっかりと先人が記しておられることを読んでいなかったを反省しました。

   隣のお寺のお墓の清掃もしました。こちらには27人の戊辰戦争の戦死者のお墓があります。

         

   こちらのお墓を磨いていているときに教えて頂いたことがあります。左の石には最後に「墓」と彫られていて、右の石には「碑」と彫られています。史談会の会長さんは「右の碑は元は墓だったのだが遺骨を別のお墓に移したので碑となっている」と教えてくださいました。確かに右の石の側面には死骸はどこに葬ったかはっきりと書いていました。密かに「碑」を数えてみたら27の内12が「碑」でした。やはり我が家の墓地で休んで欲しいと思う人が多かったのでしょうか、しばし考えてしまいました。

 

            

                           江戸時代の豪商「佐庄」さんのお墓

 

      

                      最近までの造り酒屋「関善」家のお墓

 

            

                       相馬大作と運命を共にした「関良助」の墓

 

   今日は、我が家の菩提寺で当市の歴史の由緒あるお墓を見つけたり、教えて頂いたりしました。

    年に1回のボランティアのお墓掃除も勉強になるものだと思いました

 

 

        


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