58歳と言う若さで急逝した叔父
3/31の通夜 4/1の葬儀で最後のお別れをしてきました
私の母は長女で叔父は末っ子
私と4つしか違わなかったので兄弟のような関係でした
叔父さんとは呼ばず「あんちゃん」と呼んで慕っていました。
私は幼い頃、祖父母の家に同居していたので、あんちゃんには遊んでもらったような虐められたような記憶が有ります
あんちゃんが、ウシガエルを捕まえて解剖したり 蛇を振り回していたり
山で採ったアケビを食べていて私も欲しいと言うと「これを食べたら頭が変になるんだ!」と言って
口から種を機関銃のように吹き飛ばしていた光景が目に浮かびます
随分長いこと(多分20年以上)会っていなかったのですが 先月(2/10) 甥っ子の結婚式で久々に会った時
私の顔を見て「ともこか!?」と物凄く嬉しそうな もう本当に満面の笑みで喜んでいた顔が脳裏に浮かびます
式の後、妹の家で、あんちゃんはベロベロに酔って上機嫌で「ともちゃ~ん ともちゃ~ん ともちゃ~ん」と言いながら私の手をずーっと握ってて
その後、酔いつぶれて眠ってしまったので、それが最後の思い出です
奥さんは2年前から勉学のために神戸に暮らしていて、子供たちも神戸で暮らしていて
あんちゃんも「定年退職したら神戸へ引っ越すんだ!」なんて言っていて
じゃあ神戸に越してきたら遊びに行くからね!と約束してメール交換して・・・ でも結局メールを1度も送れないままでした
血管にこぶが出来ているのは前から分かっていたらしいけど病院が大嫌いで治療を受けていなかったらしい
腹部の動脈瘤(もしかしたら静脈)が破裂したらしく
亡くなる前の日の朝、少し吐血して会社を休み その時、病院へ行っていたら多分助かっていたけど
我慢していてどんどん出血して大量に吐血、下血してから救急車を呼んだらしいです
救急車の中では、まだ意識が有ったのだとか
連絡先を書いたものを、あんちゃんは ちゃんと用意していたらしいので覚悟はしていたのかな
3/30の未明 私の母や妹が駆けつけた時は危篤状態だったそうです
柩に花を入れる前に、あんちゃんの顔に触れると凄く冷たくて
ドライアイスで冷やして有るので冷たいのは分かっていましたが
ああ本当に亡くなったんだな~ 安らかな顔で少し微笑んでいるようでした
顔も頭も いっぱい いっぱい 撫でてからお花を詰めてあげました 柩に蓋をする時が一番辛かったです
あんちゃんは手先が凄く器用だったらしく
平成15年 手押し式一輪運搬車の補助動力装置 を開発して
勤務先の三菱農機株式会社が特許を取っています
平成17年には科学技術分野の文部科学大臣表彰創意工夫功労者賞を受賞
その時は菱農エンジニアリング(株) で働いていたとか
亡くなった時は、開発部門の別会社(?)に在籍していたようです
私は知らなかったけど
妹の話だと、あんちゃんが小学生の時 バラバラに分解したラジオを「ほーら、よう見ちょけよー」と言って
アッと言う間に組み立てて元通りにして驚かせたりしていたのだとか
31日は母の家に泊まったのですが母の妹(叔母)2人も泊まったので私が幼かった頃の話が聞けました
初孫だった私は祖父母や3人いた叔母たちから溺愛されていたらしい
「可愛くて可愛くて皆で、ともちゃんの取り合いだったんだよ」
「TVのCMで見たお菓子を食べたいって言うとお爺ちゃんが夜遅くても買いに走って
閉まっているお店のドアを叩いて買って帰ったりしてたんだよ」
母は大阪で父と生活していたけど、しょっちゅう私を連れて実家に帰っていたけど
私が帰りたいって言うと とんぼ返りしたりとか
話を聞いていると、どうやら家族全員、私に振り回されていた感じでした(笑)
その後、離婚した父に誘拐されるように私は父に連れ去られて大阪で育ったのですが
親戚に預けられて辛かったことや 父と2人暮らしで寂しい思いばかりしていた事や
その後、再婚相手の継母にいつも意地悪されてたこととか
連れて行かれた時、父は母の悪口をいっぱい言って「お母ちゃんは、ともこの事をいらんって言ってた」と言われ信じてしまっていたけど
本当は父のデタラメで、私が居なくなった時、母は半狂乱になって家族全員で必死に探し回ったそうです
人の話で連れ去ったのが父親と分かって諦めたのだとか
今だったら誘拐で警察に通報だけど 昔なのでどうすることも出来なかったようです
みんなに愛されて育っていたら、もっと性格も変わっていたのかな~なんて思います
長々と書いてしまいました
写真は息子が4月1日に奈良の佐保川で写した物です