走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

最善を尽くすということ

2007年09月10日 05時09分36秒 | その他
☆★☆ 母の手術

 先月の末に母の手術が無事終わり、ほとんど毎日病院通いです。
 手術前から、さまざまな人から色んな話を聞き、母の病気の深刻さを痛感し、どうしてもマイナス思考にしかならない自分がありました。
 「これじゃいけない」と思う自分と「駄目だろうなあ」と思う自分とが交錯しあいながら、最終的には排他的になる気持ちの方が多かったような気がします。
 手術室に入る直前、気丈にふるまっていた母も、堪えきれず泣きながら手術室に入っていきました。
 苦しかったのは、誰よりも母の方だったはずなのに、また、自分のことだけを考えてしまいました。

☆★☆ 気丈な母

 父が死んでから、母は自分の生き方を示すことで人としての行き方を諭すようなところがあります。
私が市役所に入所して以来、「うちのような家庭の子は、市役所に入れてもらえることじたいないんだ。そのことを常に感謝し、身を粉にして世の中のために働きなさい。」と言われつづけた。
そのことを実践できているかどうかは自信がないが、でも、そのことを心がけようという自分がいます。

☆★★ おじの事業の失敗の後

 伯父(母の兄)の事業が失敗した話は依然したことがあるような気がするので省略をしますが、その後の母の行動を話させていただきます。
 伯父が事業を失敗した後、母は私に内緒で住みなれた家を売り払ってしまった。
そこには一円も余裕のない家庭事情があった。
当時、学生の私に大学を辞めてほしいとは、自分の兄弟の不始末でとても言えなかったのであろう。
 下宿に電話がかかってきて、
  「家、売ったから。」
  「え!!」と驚く私に、
  「もう買い手は決まってるから。」
  「そう。それでええん?」
  「ええんよ。」
  「そう。」
  それ以上、何も言えなかった。

 私は、ボロ家だったが、父と母が苦しみながら何とか自分たちだけでもった家だということを知っていた。
 何よりも、父の思い出が凝縮した家だということを知っていた。
 簡単な電話の会話で、住みなれた家はなくなった。
 引越しの日、私は帰省しなかった。
 後で人に聴くと、母は泣きじゃくりながら家を出ようとしなかったという。

☆☆☆ 術後の経過

 昨日、主治医の先生に呼ばれ、先生も驚くくらい奇跡的回復力を見せた母の退院の目途がついた。
 術後、集中治療室ではじめて再会した母は、Vサインをしていた。
 常に、生きるということの姿勢。
 最後まで最善を尽くすという姿勢。

 改めて、身をもって教えられた。