走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

道後 湯釜薬師祭

2010年08月01日 13時59分09秒 | 地域情報/その他
 今日は、道後公園に「湯釜薬師祭」に出かけてきました。
 恥ずかしながら、このいわれについては全く知らなかったためホームページで調べたところ、三好恭治氏の「一遍徒然草紙」に掲載されていたのでご紹介します。

【松山市史】第五巻記載の公式の発表を先ずは記載しましょう。
 県指定(建造物) 石造 湯釜   松山市道後公園    松山市
昭和29年11月24日 指 定
 直径166.7cm,高さ157.6㎝の円筒形,花崗岩の湯口で、天平勝宝年間(749~757)に作られ、正応元(1288)年河野通有の依頼により一遍上人が湯釜の宝珠に南無阿弥陀仏の6字の名号を彫ったという。享禄4(1531)年河野道直が尾道の石工に命じ、胴まわり部に天徳寺徳応禅師撰文の温泉記を彫らせた。この湯口は現在の道後温泉本館ができるまで使われたもので、温泉史上貴重なものである。

(1)円筒形花崗岩の湯口製作が天平勝宝年間(749~757)とすれば、大仏開眼(752)の時代で伊予国に国分寺が建立された時代です。鎌倉時代は13世紀ですから遡ること4~500年ということになります。「奈良時代の湯釜」説の根拠は荒唐無稽ではないようです。

(2)正応1年は一遍の最後の帰郷した年に当たります。河野道有・一遍・湯釜の宝珠・南無阿弥陀仏を結びつけるとすれば逆に正応1年しかありえないことになります。郷土史の文献では「~という」又は「~と伝えられる」と記述しており確証はありません。尚[湯釜]でなく宝珠に「南無阿弥陀仏」と彫られていますが、一遍筆の確証はありません。

(3)享禄4年の記述は1710年頃に編集された「予陽郡郷諺集」(伊予史談会叢書⑮)に基づくものです。

(4)明治以降使用された湯釜は神の湯、養生湯始め幾つか湯釜がありましたので、今後観光資源として活用することも考えてほしいものです。昭和49年刊行の「道後温泉」(松山市発行・編集委員長 和田茂樹)が最も信頼できる研究資料集でしょう。

尚、この「湯釜」ですが、今日では「湯釜薬師」と呼称しており、毎年8月1日を「湯釜薬師祭」として温泉の守護佛をお祭りし、この祭りを皮切りに「道後温泉まつり」がスタートします。当一遍会でもお供えし会員代表が参列しております。

それでお坊さんが来ていたのかと納得しました。
本当に知らないことばかりだと痛感したところであります。