走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

温かいおせっかい

2011年03月19日 10時11分39秒 | 東日本大震災
 東日本大震災の義援金のお願いを玄関横に張り紙をしていたところ、絵手紙をやっておられる「なごみの会」の人がやってきて、「あんな文字だけやったら誰も見んわい(見ない)。私が描いてきたけん、これ貼っとき!!」

 なるほどである。
 とっても嬉しかった。

 すぐに玄関ドアに見えるように張った。
なんでもないようなことに注意を払ってくれる。
素敵な「おせっかい」である。

 今回の大地震はとっても悲しいことだけど、日本という国が、日本人というものが一つにまとまる千載一遇のチャンスかもしれない。
今回の地震は日本全体で復興する必要がある。

 まさに、「がんばろう、日本」である。

「惨状、桁違い」=極寒、必要なのは暖房器具―現地入りした日赤医師

2011年03月19日 02時20分36秒 | 東日本大震災
  時事通信 3月18日(金)20時24分配信より

 東日本大震災の被災者を救援するため、日本赤十字社医療センター(東京)から宮城県に派遣された平塚圭介医師(35)が18日、時事通信の取材に応じた。現場で目にしたのは、経験したことのない惨状と感謝の心を忘れずに必死に生きる人々の姿だったいう。

 平塚医師は地震発生2日後の13日から16日まで、同県石巻市の石巻赤十字病院で診察に当たった。最初に目に飛び込んできたのはフロアにあふれる約500人の被災者の姿。「本当に悲惨としか言えない状況で、桁違いだった」。床に横たわる人、ジャージーに革靴の男性―。津波で運ばれて来たヘドロや汗のにおいが鼻をついた。

 まず、正面玄関のひさしの下にテントをつくり、自力歩行が可能な軽傷患者の診察を始めた。中には点滴などで使用するベッドを四つ置き、常時10人以上を受け入れた。時折、救急搬送のヘリコプターの音で、患者の声すら聞こえなくなった。

 明るい話題もあった。孤立化した地域から助け出された子どもが、わが子を捜していた両親と病院で数日ぶりに再会した。周りの歓声を聞きながら、泣くまいと涙をこらえた。

 一番つらかったのは、診察が終わって患者を送り出すとき。「この人たちはどこにも連れて帰ってもらえないんだ」。そう思うと胸が張り裂けそうになった。寒さもこたえた。日赤のユニホームの上に防寒着を着込んで対応したが、テントとはいえ屋外での診療。患者だけでなく、医師らの体力も奪った。「一番必要だったのは暖房器具と燃料」。そう振り返る。

 「こんな遠くまで来てくれてありがとうね」。平塚医師は、診察を通じて幾度となくお礼を言われたという。こちらも何か言って励ましたい。だが、「頑張って」とはとても言えなかった。「ここにいるから、いつでもいらしてくださいね」。そう言うのがやっとだったという。

大津波で妻と息子を失った市職員 「負けないで」と被災者に呼びかけ

2011年03月19日 02時07分36秒 | 東日本大震災
 産経新聞 3月18日(金)22時24分配信より


 名取市職員の西城卓哉さんが書いたメッセージ

 「苦しいけど 負けないで! 名取市職員 S」。東日本大震災で大津波が押し寄せた宮城県名取市の市役所玄関ガラスにこんなメッセージが書かれた紙が張り付けてある。書いたのは名取市職員、西城卓哉さん(30)。津波で最愛の妻、由里子さん(28)が行方不明になり、8カ月の長男、直人くんを失った。自分と同じくかけがえのない家族を失った人たちは多い。それでも精いっぱい生きてほしい-。そんな思いを込めたという。

 3月11日。激しい揺れを感じた西城さんはすぐに、職場から由里子さんの携帯電話を鳴らした。一瞬つながったが声を聴けず、途切れた。すぐに市役所は地震で大混乱、職員としてさまざまな対応に追われ、気が付くと12日未明になっていた。ようやく自宅マンションへ戻ると、エレベーターは止まり、泥に足をとられた。部屋に入ると、2人の姿はなかった。近くの由美子さんの実家へ向かった。

 毛布、食料、紙おむつ…。寒さと飢えをしのげるよう紙袋に目一杯詰め込んで、必死に歩いた。「あとは、2人を見つけるだけ」。しかし、周辺に原形をとどめる家はほどんどなく、がれきの山だ。ひょっとしたら、がれきの下敷きになっているかも知れない…。由美子さんの実家を目指しながら、一晩中捜した。しかし、実家も建物はなくなっていた。

 翌日夜、由里子さんの母親とようやく出会えた。自衛隊のヘリコプターに救出されたのだという。憔悴しきった義母は「2人とも流された。どこにも姿がないの…」という。絶望的な気持ちになったが、わずかな望みを信じ捜索を続けた。

 しかし、直人くんとみられる遺体が安置所にあると聞き、15日夜、身元を確認した。「肌着も服もよだれかけも、妻が好んで着せる組み合わせだった」。安置所で死亡届を出すと居合わせた同僚職員が泣き崩れた。

 職場の後輩だった由里子さんと出会ったのは3年前。「誠実で信頼できる人」と一目で直感し、6月14日の由里子さんの誕生日にプロポーズした。昨年7月には直人くんが生まれた。幸せだった。デジタルカメラには、3人で迎えた最初のクリスマスの写真が保存してある。今年2月に撮影した1枚は3人で写った最後の写真。眺めていると、さまざまな思い出があふれてくる。

 それでも西城さんはメッセージを書いて、市役所玄関ガラスに貼り付けた。

 『最愛の妻と生まれたばかりの一人息子を大津波で失いました。

 いつまでも二人にとって誇れる夫、父親であり続けられるよう精一杯生きます。

 被災されたみなさん。

 苦しいけど

  負けないで!

   名取市職員 S』

 地震発生からちょうど1週間の18日午後2時46分、西城さんの職場でも黙祷を告げるサイレンが鳴り響いた。(吉田智香)