ささやかな人生
だが、その中には必ずそれなりの幸福もあるし、それなりの不幸もあると思う。
そういう意味では、人は、それぞれの不幸を抱えて、その人なりに健気に生きているのだろうと。
つまり、不幸は人の身体の一部のようなものかもしれない。
内臓のように、時に不調になったり、苦しんだり、飛躍した考えかもしれないが、不幸も同じように時々顔を出す。
人が持っている不幸は、よくよく突き詰めていくと似たようなものかもしれないと思うようになった。
そして、素行が顔を出すたびにその人の思い上がりを諌めているのかもしれない。
また、自分の不幸を特別なものだとは思わないことも大切だ。
不幸というのは誰にでもめぐり来て、他の人の不幸と比べられるものではない。
他人の不幸をしたり顔でわかったようなことを言う人がいるが、比べられないということは他人の不幸はわからないということでもある。
ただ、その不幸はわからないけれども、その悲しみを分かち合うことはできるような気がする。
そして、肝心なことは不幸があるから「希望の光」があるということである。
傷ついているときには、なかなかこの「希望の光」を見いだせないが、絶対に希を捨てないことである。