不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心 石川 啄木
「一握の砂」 明治34年(1910年)刊
「空に吸われている心」とは、自然と自分の心が同化した瞬間だと私は思う。多くの人がこの歌に共感するのは、ある程度年を重ね、感情に流されない(分別がつく)ようになった半面、思春期の感じやすく、壊れやすい心情(自然と同化可能な心情)が、失われたことを寂しいと感じるからだろう。
啄木自身、そんな思いで詠ったのだと思う。十五歳の(お城の草に寝転んでいた)あの時に、空に吸われていく感覚はもう蘇らないのだろうかと。
蛇足だが、私が高校生の時に、担任の女教師(国語担当)が、この歌の解説で「こんな風に時間を過ごすんだったら、授業をさぼっても良いよ。」みたなことを言ったことが印象に残っている。まあ、我々がこんな時間の使い方をしないだろうことを見越しての発言だったと思うが。
それにしても、年を取ってから、「空に吸い取られるように感じる瞬間」を持つことは至難だ。