長谷(はつせ)の斎槻(ゆつき)が下にわが隠せる妻。あかねさし照れる月夜(つくよ)に人見てむかも
岡野弘彦先生の解説は以下の通り。 (『万葉の歌人たち』 NHKライブラリー)
<長谷の地の、神聖な槻の木の下に、私が隠した妻。
その妻を、あかあかと照る月の光で、人が見ただろうか。
(「斎槻」は、神聖な槻(ツキ→ケヤキ)の木。「あかねさし」は「照る」の枕詞。「月夜」は月そのものを言う。)
これはおそらく、飛鳥の初瀬川に沿ったそのあたり一帯でよく歌われた歌でしょう。場面が重層的に進行するとともに、叙情の思いも深まって、印象の深い歌で、背景に物語をともなっていただろうという気がします。>
さあ、この背景にある物語とはどのようなものなのだろうか。
妻を隠す。人に見られはしなかっただろうかと心配している。将に、サスペンスドラマの冒頭部分のようだ。
次に
ますらをの思ひみだれて隠せるその妻。天地に(あめつち)に徹(とほ)り照るとも顕れめやも
という歌が続く。
岡野先生の解説。
<「ますらを」は、心も身も健やかで、理想的な男のこと。
心も身をすぐれた男子が、思い乱れて隠したその妻。
天地にその美しさが照り輝いても、人に見あらわされるはずがあるものか。>
自らを心も身も健やかな人間だと言う。それは、私は身も心も健やかな人間ではなかったのかと自分を問い詰める言い方のような気がする。
私は身も心も健やかな人間ではなかったのか。その私が思い乱れて(自分が妻にしようとしている)女性を隠した。落ち着け(と自らに語り掛け)この子の美しさが天地に照り輝いても、(ますらをの私を神様が見守って下さって)人に見つけられるようなことはないはずだ。
さあ、あなたは、この歌の謎は解けたでしょうか?
私は、この歌の主題は「略奪婚」だと思う。
女性を奪って来て隠している。その女性の親族はいなくなった娘を必死になって探している。妻(となる人)を隠したところを他人に見られなかっただろうか。でも、私は健やかで行い正しい人間だ。だから、妻が見つかってしまうようなことがあるはずがない。