蔓(つる)踏んで一山(いちざん)の露動きけり 原石鼎(はら せきてい)
この句を理解する為には、まず、蔓を踏むようなところとは、どこかを思い描く必要がある。
人がよく通う山道を歩いていても蔓を踏むようなことはまずない。人があまり踏み入れない山道か、若しくは、山の斜面を分け入って登っているのだろう。そして、“一山の露”が動くような感じは、標高600メートル以下の広葉樹が生い茂っている山であることが想像される。(私は、山に登ったことがないので、ネットで調べたら、高尾山(標高599m)程度の山までが、山全体木々に蔽われている感じがしたため。)
次に、“露”(秋の季語)を多く含んでいるのは早朝であり、“一山の露”と感じるのは、紅葉前の時期、9月下旬から10月中旬ではなかろうか。これらの推理に基づいて、この句を解釈すると以下のようになる。
「朝早く秋の山中に分け入って、道なき斜面を登っていると、蔓を踏んでしまった。すると、山全体の木が揺れるように思われるほどの夥しい露が降って来た。」
(句の鑑賞では、あまりに細かな推理までは、盛り込まなかった。)
しかし、どうしてこの句を<一僕とぼくぼくありく花見哉>と並べたかのか。
それは、<蔓踏んで>の句にある引っかかりを感じたからだ。
「大山鳴動して鼠一匹」
<蔓踏んで>の句の裏側には、ことわざを詩情に転換したユーモアを感じる。
どうだろう。