ハイドンとシューベルトのピアノ・ソナタと言えばあまりピアノが上手じゃなかった人の作品と言っていいと思います。それをわざわざ抜群のテクニックのキーシンが採り上げるんだから、テンポや強弱、タッチなどなどを変化させながら、今までにない魅力を創造しようってことなんだろうなって予想していました。まあ、それはそのとおりだったんですが、それだけなら今の私は記事を書く気はしないですね。
ハイドンとシューベルトがあまりピアノが上手じゃないって言いましたけど、それはモーツァルトやベートーヴェンのような名手に比べてって意味で、例えば二人のヴァイオリン・ソナタを聴くとピアノ・パートの充実した内容と技巧的なことはよく似てて、自分が弾くことが前提になっていることが明らかです。そういう感じがハイドンやシューベルトには乏しいですね。だからこそ、料理のやり方もいろいろ考えられるんでしょう。松阪牛じゃあ料理の幅がかえって狭くなるようなもんです。
このCDのライナーノーツを書いている(いろんな意味でw)有名な人は、その辺がわかってるのかどうなのか、「度肝を抜かれるハイドンの演奏」とか言って、「平凡なところは1ヶ所として存在しない。ともかく唖然、呆然の連続なのである」云々と平凡な文章で書いている一方で、シューベルトの演奏は「いつものキーシンの模範的な解答だけに、このアルバムをハイドンだけで統一したらどんなに良かったろう」とキーシンが聞いたら間違いなく唖然、呆然とするようなことを言います。……上手な演奏、感動を与える演奏をするだけで、才能も誠実さもある人間がCDを録音していけるような時代とでも思ってるんでしょうかね。名演も名録音も山ほどある中で、あえてリリースするためには、もっと知的なたくらみがなければやっていけないでしょうに。
あっさり言ってしまえば、キーシンはモーツァルトとベートーヴェンを裏から照射しようとしたとか、モーツァルトとベートーヴェンとは別のピアノ音楽の可能性を示そうとしたとかというふうに私は理解しました。曲の選択もそう考えるとよくわかります。それは例えばハイドンの30番がモーツァルトに、52番がベートーヴェンに似ているという単純な理由だけじゃなくて、彼らからは出てこないものがあるからです。それがより濃厚なシューベルトの14番をはずしてはこのアルバムは成り立ちません。
最後にはアンコールふうに連弾曲の「軍隊行進曲」第1番をリストの弟子のタウジッヒが独奏用に編曲したものが収められています。即興曲などでなく、あえて無邪気で華やかな曲を選び、シューベルトの独り言のような音楽から距離をおいて別のパースペクティヴを見せようとしていることがわかっておもしろかったですね。
すっかりアルツっていました。
どうしよう・・
夢のもつれさんのブログを読むたびに
聴きたいものが増え続けます
なのでこれからはノートに書き出していくことにしました。
それにしても、ノートに書き出すってホントかわいいですw。