御園32号支線水路円筒分水工
昨日記した南箕輪村神子柴地籍の「春日街道」脇に、この分水工がある。すぐ横に「御射山社」の石碑があるように、ここは御射山社があったとされる場所。碑には次のようなことが書かれている、と横にある説明板にある。以下要約されたもの。
御射山社の鳥居の土台石がここにある。御社山社ははじめ坂上田村丸によって大同四年に建てられ、四五一年経た文応元年に再造され、それから三二六年後の天正十三年十一月地震にあい破壊された。以後造営することができず二四三年が経ち、人々はただ空しく嘆いているだけである。
後々その基礎がどこにあったかわからなくならないように碑を立て、もともとからのこことを記しておく
文政十年七月 神子柴村中
ようはここに社があったかどうかわからない。ここは字名「菅沼」という地籍だが、その西に「鳥居原」という地籍がるあから、鳥居がここにあったということなのだろう。『南箕輪村誌』にも「御射山社については明らかでない点が多い」と記されている(上巻517頁)。
現在は見られないが、8月を過ぎると(8月26日が祭日という)、石碑に小屋掛けがされる。これを「穂屋をかける」という。村誌によると「村人はすすきの穂を持って行って御射山社穂屋のすすきと交換して持ち帰り家のお守りにした」という。
さて、分水工を社を訪れた人たちはみな見ていただろうから、この地域の人たちは、ここに分水工があることは承知していただろう。といっても、社の前の春日街道の東側は、神子柴ではなく伊那市御園である。ということで、この分水工は伊那市御園の人たちのためにあるもの。一昨年、サイフォン式に上流にある枡から用水を地下に潜らせ、円筒分水のセンターサークルに湧き出させて分水していたものを、上からズトンとセンターサークルに水を落とす形に変更した。写真でもわかるように、こうすると、水流の向いている方向の水位が勢いで上がるため、サークルの外壁にある分水堰から流出水量が均等ではなくなる。しかし、見た感じは、では逆側の堰からの流水が極端に少ないかとといえば、そうでもない。昔のように水不足に悩んでいた時代なら、この僅差を「不平等」と言っただろうが、今はそのようなことを言う人はいない。そもそも、堰の口の高さを調整すれば、均等にすることもできる。それでも敢えて均等にしようとした、過去の水への思いが汲み取れる。がしかし、今はサイフォン式だと管理がしづらい、ということで、上からズトン、というシンプルな形に変更したしだいである。
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