今までにも何度か通っていたのに気がつかなかった。南箕輪村の北に塩ノ井という集落がある。段丘を上がったところに塩ノ井神社があり、その裏手にたくさんの石造物が並んでいる空間がある。庚申塚と言われているだけに「庚申」塔が多い。古いものは元文5年(1736)のもので、以後庚申年に建立されてきている。近くにある「文化・自然遺産分布図という看板があって、それによるとここは「ちとり場」と言われていたようだ。「ちとり場」ということはいわゆる馬の地をとったところ。わたしの記憶のある時代には血とり場が近くにあったが、「血とり」ではなく爪切り場だったいずれにしても塩ノ井神社の裏手の道沿いや、墓地内などにも「馬頭観音」がいくつも立っていて、ちとり場であったが故のことなのだろう。この血とり場の脇に「開田記念」という碑が立っている。この碑に気がつかなかったのだ。よく見ると「西天龍」という言葉が彫られている。「開田記念」の下に「前農林大臣從三位勲三等山本悌二郎閣下題額」あり本文が始まる。
なき人に見せばや
変る秋の来て
西天龍乃
稲のざ波
白馬堂書
背面には次のように刻まれている。
西天龍役員 有志者
征矢嘉十郎 農林技手笹木重作
征矢友三郎 加藤泰能
穂高儔二 征矢平次郎
征矢侑三 征矢孫太郎
征矢眞三 征矢政通
加藤利三郎 征矢朝一
征矢孝治 穂高正一
昭和七年十一月 征矢弘久
六十三齢
征矢定次郎建之
石工 大泉 出羽沢為十郎
征矢性がほとんどで、そこに穂高性などが加わっているから、塩ノ井の関係者が建立したものと思われる。西天竜の水田地帯は、今でこそ段丘上に広大に広がっているが、西天竜幹線水路が開削されたことによって水田になった地。とりわけ段丘崖直上などは最も水に乏しい地であったはず。したがって未開地で平地林がかなり広がっていたと考えられる。段丘崖下であれば湧水によって暮らしの場が展開できたであろうが、段丘崖上では人々が暮らすことは難しかった。この段丘崖線が人々にとって空間の境界域だったと考えられる。そうした姿を今もって段丘崖に求めることができる。段丘崖上にある塩ノ井神社周辺は特別な空間域でもある。神社を囲うように墓地が点在する。後世の新たな墓地も造られている。前述したように地とり場も設けられていた。おそらく葬儀が展開された場所もあったのだろう、そう思っていたら崖下には現在は無住なのだろうが寺もある。段丘崖の上下にそうした空間が散りばめられた場所は、西天竜エリアでも、この塩ノ井が代表的かもしれない。
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