八木城主『一石五輪塔』の供養塔 =徳雲寺境内墓地=
園部町には中世・近世をはじめ多様な石造物(石仏・五輪塔・宝篋印塔・石灯籠・手水鉢・多宝塔)等が現存する。そのほとんどは仏教関てのものが多いようです。
今回、徳雲寺の境内墓地内に、八木城主内藤備前守(内藤氏)の『一石五輪塔』が現存する事を『園部101年記念誌「翼」』より知り…訪ねたが、大きい墓地なので見つけるのに…労多く難儀した。この寺は園部藩主小出吉親の菩提寺である。
寺入口に不許葷酒入山門(くんしゅにゅうざんもんにはいるをゆるさず)の標石(葷酒塔)が建つ。此れよりニラ・ニンニク・ネギ・酒等を持ち込んだり、食してはいけない域なのです。
この葷酒塔の左道際に古い墓地(某氏一族とおぼしき墓)がある。この中に郷土歴史の落穂が、八木城主の歴史が眠る。風雨にさらされ苔むしる基壇石に、戦国武将内藤氏の証の銘文が刻まれ正しく読み取れる。歴史の片隅に置き去りにされ忘れ去られている?…感がする。園部町の石造文化財指定級の秀逸との出会いにワクワクする。…歴史の光がまだ当たっていないようですね? 『一石五輪塔(供養塔)』が語ろうとする声に耳を傾けると、中央歴史へと直結する塔である。 今回は一石五輪塔にスポットを当て、石造物の概略程度の説明を付けます。
一材角柱を削り地・水・火・風・空に成形しています(一石五輪塔)。石材は地元産の花崗岩を使っているようです。基壇を持つ。これは塔婆の一種で比較的安価な為、広く武士・庶民層に供養塔として普及、これにより極楽浄土信仰が爆発的に広がっていったようです。平安中期頃~室町後期時代にかけ盛んに造られてます。歴史文化の香り高い園部の山裾や寺墓地の寄せ墓に眠っていることが多い。
この塔の基壇部に年号は記されていないが、正面に『八木村』『右城主』『内藤氏之塔』が読み取れますが風化が激しい。全長約60㎝(二尺塔)で基壇22㎝×18㎝×18㎝、水部は11㎝、火部は10㎝、風と空部は17㎝の大きさ。
塔の上部(風・空)が自然の倒壊と思われる? 割れているが、上部は元の位置に置かれている。某一族子孫が大切に管理供養されているようです。
(個人名の墓地内なので、名前は伏せ某氏とする。)
『不許葷酒入山門』(葷酒山門に入るを許さず)と彫られた標石。この左奥に古い墓地あり。ここに『一石五輪塔』が眠っている。*注葷酒塔は曹洞宗の寺ではよく見かけますね。
不許葷酒入山門の標石前より、徳雲寺の山門・本堂・梵鐘・庫裏などが見渡せる。
今回、徳雲寺の境内墓地内に、八木城主内藤備前守(内藤氏)の『一石五輪塔』が現存する事を『園部101年記念誌「翼」』より知り…訪ねたが、大きい墓地なので見つけるのに…労多く難儀した。この寺は園部藩主小出吉親の菩提寺である。
寺入口に不許葷酒入山門(くんしゅにゅうざんもんにはいるをゆるさず)の標石(葷酒塔)が建つ。此れよりニラ・ニンニク・ネギ・酒等を持ち込んだり、食してはいけない域なのです。
この葷酒塔の左道際に古い墓地(某氏一族とおぼしき墓)がある。この中に郷土歴史の落穂が、八木城主の歴史が眠る。風雨にさらされ苔むしる基壇石に、戦国武将内藤氏の証の銘文が刻まれ正しく読み取れる。歴史の片隅に置き去りにされ忘れ去られている?…感がする。園部町の石造文化財指定級の秀逸との出会いにワクワクする。…歴史の光がまだ当たっていないようですね? 『一石五輪塔(供養塔)』が語ろうとする声に耳を傾けると、中央歴史へと直結する塔である。 今回は一石五輪塔にスポットを当て、石造物の概略程度の説明を付けます。
一材角柱を削り地・水・火・風・空に成形しています(一石五輪塔)。石材は地元産の花崗岩を使っているようです。基壇を持つ。これは塔婆の一種で比較的安価な為、広く武士・庶民層に供養塔として普及、これにより極楽浄土信仰が爆発的に広がっていったようです。平安中期頃~室町後期時代にかけ盛んに造られてます。歴史文化の香り高い園部の山裾や寺墓地の寄せ墓に眠っていることが多い。
この塔の基壇部に年号は記されていないが、正面に『八木村』『右城主』『内藤氏之塔』が読み取れますが風化が激しい。全長約60㎝(二尺塔)で基壇22㎝×18㎝×18㎝、水部は11㎝、火部は10㎝、風と空部は17㎝の大きさ。
塔の上部(風・空)が自然の倒壊と思われる? 割れているが、上部は元の位置に置かれている。某一族子孫が大切に管理供養されているようです。
(個人名の墓地内なので、名前は伏せ某氏とする。)
『不許葷酒入山門』(葷酒山門に入るを許さず)と彫られた標石。この左奥に古い墓地あり。ここに『一石五輪塔』が眠っている。*注葷酒塔は曹洞宗の寺ではよく見かけますね。
不許葷酒入山門の標石前より、徳雲寺の山門・本堂・梵鐘・庫裏などが見渡せる。