阪急京都本線「東向日(ひがしむこう)」駅。
父の弟である叔父が、生前住んでいたの家の最寄り駅。
私としては、この叔父の家で行われた祖母の告別式の際の光景が、ぼんやりと記憶に残っている。当時私は2歳。恐らく私の記憶としては、一番古いものと思われる。
ただ最近改めて母や兄に当時のことを確認してみると、どうやらこの時はこの駅を利用していないらしい。なんでも喪服の母と同行することを私が嫌がり、仕方なくタクシーを使ったのだそうだ。そんなことで人目を気にしていた2歳の私って……? まったく気色悪い2歳である。
叔父とは、じっくり話し合った記憶はない。しかし晩年、私が電話に出た際、よく叔父は話をした。特に戦時中、加藤隼戦闘隊の整備兵だった頃の自慢話をよく聞かされた。元来話好きだった叔父にとっては、生後半年程で既に大人と普通に会話していた私という甥は、格好の話相手だったのかもしれない。
そんな叔父が亡くなったのが、1993(平成5年)の正月。丁度母は酷い神経痛で動けず、私も骨折後のリハビリ中で、告別式に出席することも出来ずで、結局その年の夏、初盆のお参りに家を訪問した際に、この駅を初めて利用した。
仏壇に飾られた叔父の遺影のニヤリとしたその笑顔が、あまりにも叔父らしい雰囲気のある表情だったので……、「叔父さん『ヘヘン、また生意気言いよって』って笑うてはるで」と私が言った途端、ガタガタン、ドンドンドト~ンという音を立てて、仏壇に供えてあった饅頭が畳の上まで転げ落ちてきた。
お盆に叔父が、帰ってきていたのだろうか? いや、それにしても驚いた。
父の弟である叔父が、生前住んでいたの家の最寄り駅。
私としては、この叔父の家で行われた祖母の告別式の際の光景が、ぼんやりと記憶に残っている。当時私は2歳。恐らく私の記憶としては、一番古いものと思われる。
ただ最近改めて母や兄に当時のことを確認してみると、どうやらこの時はこの駅を利用していないらしい。なんでも喪服の母と同行することを私が嫌がり、仕方なくタクシーを使ったのだそうだ。そんなことで人目を気にしていた2歳の私って……? まったく気色悪い2歳である。
叔父とは、じっくり話し合った記憶はない。しかし晩年、私が電話に出た際、よく叔父は話をした。特に戦時中、加藤隼戦闘隊の整備兵だった頃の自慢話をよく聞かされた。元来話好きだった叔父にとっては、生後半年程で既に大人と普通に会話していた私という甥は、格好の話相手だったのかもしれない。
そんな叔父が亡くなったのが、1993(平成5年)の正月。丁度母は酷い神経痛で動けず、私も骨折後のリハビリ中で、告別式に出席することも出来ずで、結局その年の夏、初盆のお参りに家を訪問した際に、この駅を初めて利用した。
仏壇に飾られた叔父の遺影のニヤリとしたその笑顔が、あまりにも叔父らしい雰囲気のある表情だったので……、「叔父さん『ヘヘン、また生意気言いよって』って笑うてはるで」と私が言った途端、ガタガタン、ドンドンドト~ンという音を立てて、仏壇に供えてあった饅頭が畳の上まで転げ落ちてきた。
お盆に叔父が、帰ってきていたのだろうか? いや、それにしても驚いた。