近鉄長野線「河内長野(かわちながの)」駅。
私が大阪芸術大学に入学して、最初に住んでいたのが河内長野市。この「河内長野」駅が、最寄り駅であった。
一次入試に落ちて、二次入試で何とか合格したのが、3月下旬。大学近辺の寮や下宿は、既に定員に達していて、仕方なく大学指定で残っていた、河内長野の下宿を選んだ。
後から思えば、不動産屋へ駈け込むという方法もあったのだが、その時はそこまで頭が回らなかった。
河内長野の下宿は、木造平屋造り。恐らく、古い爪楊枝工場の寮ではなかったかと思われる。
私の部屋は、8畳間ぐらいの広さ。初めて部屋に入ったその日、靴下の裏が真黒に汚れた。掃除もしてくれていなかった。扉には各自で南京錠をかけるのだが、窓の鍵は壊れていて、開放同然の行け行け状態。
便所と炊事場は共同。ガスコンロはコイン投入式。風呂は下宿のオバチャンちである母屋の風呂を借りなければならない。しかも母屋のご家族が入った後じゃなければ、風呂には入れない。
下宿から駅までは、バスで15分程度。歩けば40分ぐらいはかかった。
あまりに不便だったこの下宿。私は、実質10日も宿泊したことがなかった。入学から1ヶ月半程の間は、友達や先輩の部屋を渡り歩いたり、京都の実家まで帰ったりして過ごしていた。
5月の終わり頃のこと。下宿の黒板に下宿人全員の名前が書かれ、その下にそれぞれ「正」の字が記されていることに気付いた。後でその意味を聞いてビックリ! 下宿のオバチャンに背いた回数を表していたのだ。私の場合、どうやら無断外泊がバッドマークの理由らしかった。
結局耐えられず、この下宿を出たのが6月初め。28年前の丁度今頃のことであった。
私が大阪芸術大学に入学して、最初に住んでいたのが河内長野市。この「河内長野」駅が、最寄り駅であった。
一次入試に落ちて、二次入試で何とか合格したのが、3月下旬。大学近辺の寮や下宿は、既に定員に達していて、仕方なく大学指定で残っていた、河内長野の下宿を選んだ。
後から思えば、不動産屋へ駈け込むという方法もあったのだが、その時はそこまで頭が回らなかった。
河内長野の下宿は、木造平屋造り。恐らく、古い爪楊枝工場の寮ではなかったかと思われる。
私の部屋は、8畳間ぐらいの広さ。初めて部屋に入ったその日、靴下の裏が真黒に汚れた。掃除もしてくれていなかった。扉には各自で南京錠をかけるのだが、窓の鍵は壊れていて、開放同然の行け行け状態。
便所と炊事場は共同。ガスコンロはコイン投入式。風呂は下宿のオバチャンちである母屋の風呂を借りなければならない。しかも母屋のご家族が入った後じゃなければ、風呂には入れない。
下宿から駅までは、バスで15分程度。歩けば40分ぐらいはかかった。
あまりに不便だったこの下宿。私は、実質10日も宿泊したことがなかった。入学から1ヶ月半程の間は、友達や先輩の部屋を渡り歩いたり、京都の実家まで帰ったりして過ごしていた。
5月の終わり頃のこと。下宿の黒板に下宿人全員の名前が書かれ、その下にそれぞれ「正」の字が記されていることに気付いた。後でその意味を聞いてビックリ! 下宿のオバチャンに背いた回数を表していたのだ。私の場合、どうやら無断外泊がバッドマークの理由らしかった。
結局耐えられず、この下宿を出たのが6月初め。28年前の丁度今頃のことであった。