昨日は日中もだるくて仕様がなく、夜歯医者さんへ寄ってからの帰宅がようようで、そのまま頓挫いたしました(笑)
寝る前に思い立って、風邪薬など飲んでみましたら、今朝はだいぶ楽になり、ヤレヤレというところです。
(日のたつほどに白さが際立って、今年はことのほか清く美しく見えるハンゲショウ)

昨夜のこと。
このところ食べているシジミですが、ここ2日ほど体重を量っていなかったので、いかに?と乗せてみれば、1760g(号泣)
なんでー!!
食べているじゃない。
数日前は1860あったのが、数日で100g減っているってどういうこと?
量り方が悪いのか、それともやっぱり何か出来ているのか?
追記: 本日 量りなおしてみたら、1850ありました( -。-)=ホッ
昨日は秤の置き方が悪かったのかなぁ???
お騒がせいたしましたm(_ _)m
本人は元気にうろつきまわっていますが、それでも半年前に比べれば、動く量は減っているのは確かで・・・
やはり父と同じで、店じまいの用意をしているのかな・・・
まだ「これ 飽きた。こっちも食べた。何か他がいい」と言っているだけ、本人は具合が悪く感じていないのが幸いと思うべきなのでしょう。
最近は暑くなったので、一緒に寝ようって言っても「ぼく やだー!」って、すぐにベッドから降りちゃうし。
ちょっと寂しい かーさんなのでした。
(ただいままっさかりのアガパンサスとクラリーセージ)

わが身もいずれは寄る、彼岸の岸辺。
ゆったり波に身を任せ、自然と岸に打ち上げられるなら、それが大往生と言うものかもしれません。
先日来読み直している櫻守の一節に
人間、死んでしまうと、なあんも残らしまへん。灰になるか、土になるかして、この世に何も残しません。けど、いまわたしは、気づいたことがおす。人間は何も残さんで死ぬようにみえても、じつは一つだけ残すもんがあります。それは徳ですな・・・・・・ 人間が死んで、その瞬間から徳が生きはじめます
徳 お若い方には、トンとあずかり知らぬことかもしれません。
でも確かに、人間生きているうちに多少の徳を積んだなら、折々に人に思い出してもらえるかもしれません。
「ああ、あの人にああもこうもしてもらった」とか「あの人のおかげで」と思ってもらえれば、生きた甲斐があろうというものです。
たとえそうは言われなくとも、身内や友達に思い出を残せるならば、それも徳といえるのかもしれません。
でも「反面教師」という思い出だけは、ごめんですが(^^;;
人間が徳を積むのは、わが身の往生のため、心の平安のため、生きるに欲深くならないため。
欲を我を捨て、日々精進・・・・・・って、とてもそんな境地になれるわけはないのですが、昨夜のシジミを見て、ふとそう思ったりもし・・・。
先に逝ったユキの残してくれたもの、シジミのくれた沢山のもの、こゆきの残すであろうこれからのあれこれも、世には畜生といわれるものですら、人間に与えることのなんと大きなことか。
それらはすべて、このウサギたちの「かーさんに施した徳」というものかもしれません。
畜生ですら与えられる徳を、人間はどれだけつむことが出来るのやら。
草木ですら、与えられた場所で、与えられた条件で、精一杯生きようとする。
日々、人に楽しみと慰めと喜びを与えて、これも徳と言えるかもしれません。
自分をごり押しせず、あるがままに受け止めて、その中で生きれるだけ生きる。
それが大切だよ、ってウサギも植物も諭しているのかもしれません。
(カワラナデシコは、やはり良いですね♪)

(原種クレマチスのハンショウヅルが、今年は良く咲いています。)

シジミは、後どれくらいそばにいてくれるのでしょう。
あまりシジミに気を取られていると、こゆきだって6歳なのですから、何があってもおかしくないお年頃。
連れ立って、ユキのところに遊びに行かないとも限らない(--)
こゆきも肥満と言う大病を持っていますし、おにーちゃんがいないと始まらない子ですからね。
ともあれ、人様のご迷惑にならないようにわが身をいといながらも、ウサギたちとの日々を大事に過ごさなくちゃいけません。
まさかこれほどウサギ病になるとは、夢にも思わなかった人生。
いえ、垣間見て「ウサギだけは手を出すまい」と強く思っていただけに、なおさら不思議なご縁を感じざるを得ません。
さて、いかにこれからのシジミとの生活を受け入れていくのか。
うさぎの神様は、私に何を経験させ、教えようとしているのか。
心澄まして、受け取らなくてはなりませんね。
(ミントにマウンテンミントが、いよいよ咲き出します)


(昨年かなり枝を落としたはずなのに、逆襲とばかりに枝数増やしたセイヨウニンジンボク)

寝る前に思い立って、風邪薬など飲んでみましたら、今朝はだいぶ楽になり、ヤレヤレというところです。
(日のたつほどに白さが際立って、今年はことのほか清く美しく見えるハンゲショウ)

昨夜のこと。
このところ食べているシジミですが、ここ2日ほど体重を量っていなかったので、いかに?と乗せてみれば、1760g(号泣)
なんでー!!
食べているじゃない。
数日前は1860あったのが、数日で100g減っているってどういうこと?
量り方が悪いのか、それともやっぱり何か出来ているのか?
追記: 本日 量りなおしてみたら、1850ありました( -。-)=ホッ
昨日は秤の置き方が悪かったのかなぁ???
お騒がせいたしましたm(_ _)m
本人は元気にうろつきまわっていますが、それでも半年前に比べれば、動く量は減っているのは確かで・・・
やはり父と同じで、店じまいの用意をしているのかな・・・
まだ「これ 飽きた。こっちも食べた。何か他がいい」と言っているだけ、本人は具合が悪く感じていないのが幸いと思うべきなのでしょう。
最近は暑くなったので、一緒に寝ようって言っても「ぼく やだー!」って、すぐにベッドから降りちゃうし。
ちょっと寂しい かーさんなのでした。
(ただいままっさかりのアガパンサスとクラリーセージ)

わが身もいずれは寄る、彼岸の岸辺。
ゆったり波に身を任せ、自然と岸に打ち上げられるなら、それが大往生と言うものかもしれません。
先日来読み直している櫻守の一節に
人間、死んでしまうと、なあんも残らしまへん。灰になるか、土になるかして、この世に何も残しません。けど、いまわたしは、気づいたことがおす。人間は何も残さんで死ぬようにみえても、じつは一つだけ残すもんがあります。それは徳ですな・・・・・・ 人間が死んで、その瞬間から徳が生きはじめます
徳 お若い方には、トンとあずかり知らぬことかもしれません。
でも確かに、人間生きているうちに多少の徳を積んだなら、折々に人に思い出してもらえるかもしれません。
「ああ、あの人にああもこうもしてもらった」とか「あの人のおかげで」と思ってもらえれば、生きた甲斐があろうというものです。
たとえそうは言われなくとも、身内や友達に思い出を残せるならば、それも徳といえるのかもしれません。
でも「反面教師」という思い出だけは、ごめんですが(^^;;
人間が徳を積むのは、わが身の往生のため、心の平安のため、生きるに欲深くならないため。
欲を我を捨て、日々精進・・・・・・って、とてもそんな境地になれるわけはないのですが、昨夜のシジミを見て、ふとそう思ったりもし・・・。
先に逝ったユキの残してくれたもの、シジミのくれた沢山のもの、こゆきの残すであろうこれからのあれこれも、世には畜生といわれるものですら、人間に与えることのなんと大きなことか。
それらはすべて、このウサギたちの「かーさんに施した徳」というものかもしれません。
畜生ですら与えられる徳を、人間はどれだけつむことが出来るのやら。
草木ですら、与えられた場所で、与えられた条件で、精一杯生きようとする。
日々、人に楽しみと慰めと喜びを与えて、これも徳と言えるかもしれません。
自分をごり押しせず、あるがままに受け止めて、その中で生きれるだけ生きる。
それが大切だよ、ってウサギも植物も諭しているのかもしれません。
(カワラナデシコは、やはり良いですね♪)

(原種クレマチスのハンショウヅルが、今年は良く咲いています。)

シジミは、後どれくらいそばにいてくれるのでしょう。
あまりシジミに気を取られていると、こゆきだって6歳なのですから、何があってもおかしくないお年頃。
連れ立って、ユキのところに遊びに行かないとも限らない(--)
こゆきも肥満と言う大病を持っていますし、おにーちゃんがいないと始まらない子ですからね。
ともあれ、人様のご迷惑にならないようにわが身をいといながらも、ウサギたちとの日々を大事に過ごさなくちゃいけません。
まさかこれほどウサギ病になるとは、夢にも思わなかった人生。
いえ、垣間見て「ウサギだけは手を出すまい」と強く思っていただけに、なおさら不思議なご縁を感じざるを得ません。
さて、いかにこれからのシジミとの生活を受け入れていくのか。
うさぎの神様は、私に何を経験させ、教えようとしているのか。
心澄まして、受け取らなくてはなりませんね。
(ミントにマウンテンミントが、いよいよ咲き出します)


(昨年かなり枝を落としたはずなのに、逆襲とばかりに枝数増やしたセイヨウニンジンボク)
