モー吉の悠悠パース留学絵日記

この日記では、パースでの留学生活での出来事を中心に、心象風景を交えて、写真とエッセイにより、絵日記風に綴っています。

写真留学の旅から帰還してー個展「夢のあとさき-写心への旅」

2022-03-19 21:39:52 | 今日を旅する
写真留学の旅から帰還してー個展「夢のあとさき- 写心への旅」

 人生百年時代、定年後にも第二の人生があります。
このブログに綴った日記は、それを実践した私自身の、オーストラリアのパースへ写真留学をした記録である。
 振り返ると、この写真留学の旅は、2012年8月31日にスタートしました。
それは、1971年4月から2012年3月までの41年間勤めた市役所を退職した後に思い立った新たなチャレンジ、冒険への旅立ちだった。





 それを思い立つに至ったのは、その一年前に起きた東日本大震災による先の見えない未来を思い、自分の人生を今一度見つめ直したことが一つの契機となった。
 しかし、何よりも、それをあと押したのは、若い頃からの写真への愛であり、好きな写真を基礎から勉強し直したいとの強い思いからでした。
 そして、西オーストラリアの州都パースの州立職業訓練学校(TEFE)で、四年間、若い人たちと、英語と写真の勉強に専念した。それと同時に、「モー吉のパース留学悠々絵日記」と名付けたブログを始めることとなりました。

 そして、その最後の年、この留学を受け入れてくれたパースの街とそこに住む人々への恩返しとして、フォトブック「夢のあとさき-パースの落書 」を献呈しました。


 この道のりを終えた 今、私は写真の神様に心から感謝しているところです。
なぜなら、この留学での経験、とりわけ写真によって、世界と日本、そして 人間をより深く理解することになったと確信しているからです。
 そして、今、長年の 「写真とは何か」との問いに対して、その答えに辿り着くことができました。「写真とは写心である」と。 
 そして、その旅は、八年ほどを経過した2020年2月、コロナ禍とともに、終止符を打つこととなりました。
 そして、古希を過ぎた今、この貴重な私の第二の青春時代を振り返るとともに、この体験を皆さんに共有していただくため、初めての個展「写真留学作品展ー夢のあとさき 写心への旅」を開催することを決心しました。
 この作品展は、これまで写真のカタチを追い求めてきた私自身の旅の「夢のあとさき」でもあります。

 そして、この作品展は、私の写真留学で生み出された作品群がベースになっています。
この展示「夢のあとさき-写心への旅」は、60点余りのイメージからなり、主に六つのシリーズ作品から構成されています。





 思うに、個展「夢のあとさき」の奥底に流れる通奏低音は時間の調べである。すべての作品は、時間の調べの導くままに、光と影によって刻印された残像の化石群で綴られた映像詩である。
 これらの時の残影を、ある人は、「夢のあとさき」と言い、ある人は「残された憧憬」と言い、またある人は「百代の過客、時の旅人」と言い、そして、またある人は"The long winding road"とも言っている。

 シリーズ作品「夢のあとさき- パースの落書」は、パースの街のストリートを舞台にミュージシャンやパフォーマー達が繰り広げた夢の行く末とその痕跡を綴った叙事詩である。今回の個展の中では、20枚のイメージによって、そのストーリーを組み立てている。





 その中には、純潔無垢の少女をはじめ、若者、老人、ホームレス、路上の哲学者、車椅子の人などなど様々な人が登場している。
 彼ら各々は、時空を超えた同じ人かもしれない。すなわち、この作品は、個々の人間達の歴史の一コマ一コマの残像を紡ぎ合わせた、彼らの歴史の黙示録と言っても良いだろう。

 シリーズ作品「バベルの塔」は、旧約聖書の逸話をモチーフにした、人類の歴史を八枚の高層ビル群のイメージによって、ダイジェストに綴った黙示録的な作品である。





 この作品は、パースのどこまでも澄み切った青空に、突き刺さったように聳え立つ高層ビル群を間近に見、光と影の陰影から黙示され、思い浮かんだストーリーである。
 この作品については、二人の女神から想いも浮かばなかった啓示をもらい、痛く感じ入りました。それは、雲の情景を見て、一人には、鳳凰が見えたと教えられ、また、もう一人は、女神、イングリットバークに見えると教えられました。その啓示のあと、確かに、私にもそう見えました。人の心の有り様によってイメージが広がるのは良いことなので、有難い啓示でした。
 このシリーズは、人類の創造と崩壊の歴史を黙示したもので、最後のイメージでは、崩壊するビル群と人類の叫びをイメージングしました。二人の女神達が、そこに、鳳凰と女神を見たのは、人類の叫びの中に、崩壊を救ってくれる救世主の出現を願う心の有り様が、そのような心象風景として啓示されたのではないだろうか。

 シリーズ作品  「道 Road」は、パースのあるストリートを俯瞰して見た情景の中にうごめく影絵のような人間たちの映像に触発されて創造した作品である。






 また、その創造にあたっては、その情景を見たときに思い浮かんだ芭蕉の「奥の細道」の一節、「月日は百代の過客にして、行き交う年も、また旅人なり」との世界観に触発されました。この世界観によって、私は、この作品の中で、「人間もまた、時間のように旅人であり、その旅路は永遠に続く奥の細道である」との一つの世界観を創り上げることを試みました。
 この作品の中で、ストリートは人間が永遠に夢を追い続ける「時間の道」を表しており、また、そこに投影された影絵のような残像は、時の調べによって刻印されたそこに存在する人たち各々の歴史の一コマ一コマを表しています。
 また、この作品のイメージ作りにあたっては、黒白イメージの濃淡によって、墨絵のようなイメージ作りを試みました。
 そして、また、この作品作りで、最も重要だったのは、そのストリートに長い影をを落とし、投影する季節と時間を発見することでした。そのチャンスは、年に1日か、2日しかなく、しかも、それは、冬の日の沈む直前の数秒しか無いことを知りました。そのため、その瞬間を捕らえるのに、三年の歳月を要しました。

シリーズ作品 失われた時間
 この作品は、ある廃墟を旅した時、そこに存在する過去。現在、未来の時の調べに導かれて、そこで実感したイメージの数々、廃墟と化し、アーバンアートで彩られた貝殻のような不気味な姿、繁栄していた過去の蜃気楼、そこに巣食う亡霊たち、また、やがて朽ち行くであろう未来の姿などなど。



 この作品は、それらを10枚の時の残影にイメージングし、過去、現在、未来を思い描いた抒情的なストリーである。そのため、このストリー仕立ての作品の創造にあたっては、多重のイメージづくりを採用し、最後の黒白のイメージでは、やがて訪れるであろう廃墟の崩壊の瞬間を雲海と光り輝く光彩で表現し、それらによって、時空を超えたストリー創りを試みた。



シリーズ作品 残された憧憬-青写真
 私は、この青写真の作品において、「残された憧憬」を表現しようと試みました。
 私はそれを京都の風景やそこに残る日本の典型的な存在の中に発見しました。そこには、今なお、多くの伝統的なしきたりや生活様式が残っています。
 私がそれらの存在に強く惹かれるのは、それが単に遠い日の記憶だけではなく、今もなお連綿と続く存在として残されており、それらの中に潜む日本人の心、情緒を感じるからです。
 それは、例えば、由緒ある神社やお寺の佇まいであったり、町家と呼ばれる伝統的な家屋や、古くから受け継がれている祭りであったりします。舞妓もまた、正にそれをもっとも体現している存在であり、日本的な美とおもてなしの精神の象徴でもあります。
 それらのひとつひとつが、一度、柔らかい太陽光や月光に包まれた時、それは、私に、おぼろげなイメージと一緒に、懐かしい雰囲気をもたらします。
そして、また私の心に愛しい古い記憶を呼び戻します。
 今回、この作品において、ぼやけたイメージと青写真の方法によって、それらの存在たちの中に隠されている「残された憧憬」を創り出そうと思い立ちました。
 それは、写真のイメージのなかに、この「残された憧憬」を表現するには、この二つの表現方法がもっとも適していると、確信したからです。
 
 この作品は、10枚ほどのイメージにより構成されています。私が撮り集めていた京都の写真を素材として「残された憧憬」を表現したシリーズ作品です。
 プロセスは、まず、デジタルデータをPhotoshopでネガティブフィルム化します。
次に、、二種類の化学液から作った感光液をペーパーに塗り、印画紙を創ります。
 この二つの過程を経た後、A4サイズのネガティブフィルムとその印画紙を重ね、太陽光か、暗室で光線をあて印画した後、その感光した印画紙を水で洗い流すと、青色のイメージが浮かび上がってきます。最後にそれを乾燥室で乾かすと、青写真が完成します。

シリーズ作品 幻想の舞妓-もののあわれ
 この作品は、10枚の舞妓のイメージにより、「もののあわれ」の心を表現しようと試みたものです。
 それは、日本人の心、精神構造の一つであり、日本人の審美観、美への繊細な感受性を表し、物事や季節などによって呼び起こされるしみじみとした感情、情緒を意味しています。
 日本人は古から、自然やすべての存在の美しさと儚さへの尊敬の念を抱いてきました。それは、すべてのものが永遠ではなく、儚く散るものであり、そのことさえも、素直に受け入れ、そのような存在のすべてに感情移入して、愛で親しむ姿勢を意味しています。
 ここにあるすべてのイメージは、この「もののあわれ」を表現するために、ぼやけた動きのあるイメージとして捕らえています。それによって、それらが永遠ではなく、儚い存在であることを表しています。
 そして、この作品は、幻想的な無常の世界、散りゆく桜のような、儚くも美しい存在の世界を表すこととなるだろう。


 思えば、この個展は、コロナの風の吹き荒れる真っ只中 の開催となりましたが、折しも雪の降る日々と重なり、その純白のベールがコロナの重苦しい世界を覆い隠し、また、雪の中足を運んでくれたたくさんの女神と戦士達の温かい応援に支えられ、何とか無事に終えることが出来ました。
 本当にありがとうございました。


 特に、私の役所時代、共に戦った多くの戦士達、思いがけないほどのたくさんの人たち、それは、大先輩の方、先輩、後輩、同僚など様々でした。
 皆さんありがとうございました。







 そして、第二の人生に私と同じ写真の道を歩んでおられる大先輩の老戦士達。
ありがとうございました。これからもご指導ください。


 また、写真愛好家の多くの女神と戦士達、個展では、様々な感想をいただきありがとうございました。これから共に写真の奥の細道を探求していきましょう。


 


 そして、この個展の最初の来場者であったうら若き女神、彼女はライブカメラマンの卵とのことでした。彼女は枚方市からライブ撮影のため、名古屋を訪れたその日、玄関のポスターの写真に惹かれて来場したということでした。
 ありがとうございました。これからのご活躍を陰ながら応援しています。



 そして二日目、その日の朝刊の記事を読んで、馳せ参じて訪れてくれ、笑い顔を振りまいてくれた美人姉妹の女神、ありがとうございました。彼女らの笑い顔は、オーストラリア娘たちの人懐こい笑い顔を思い出し、とても懐かしく感じました。ありがとうございました。


 そして、笠寺観音で奉納の舞を披露している舞姫の女神の方。彼女は、雪の降りしきる日曜日、わざわざ足を運んでくれました。その時は、正に女神が、雪とともに舞い降りてきたかのように感じました。ありがとうございました。


 彼女は、笠寺観音の縁日で、毎月、美しい祈りの舞をバイオリンの調べにのせて舞ってくれて、私を始め多くの参拝者の心を癒してくれています。



 そしてまた、パースと接点を持つ多くの女神と戦士達が来場してくれ、懐かしい話がはずみ、楽しい時間を持つことができました。
 ありがとうございました。



 ここで、全ての来場者に感謝の言葉を述べつきることはできませんが、それは、またの機会にということで、お許しをください。




 これで、私の初めての個展は幕を閉じる事になり、今、寂しさが込み上げてきています。
次に、運命の調べとともに 個展の扉が開くのはいつになるだろうか。また、扉の向こうはどんな景色が待っているのだろうか。
 ドラえもんのどこでもドアの如く、扉の向こうには、全く新しい景色の世界が出現するのだろうか。
 そんなことも考えながら、今もまだ、個展の余韻に浸っています。



















時はめぐる 麒麟がくる時を願う心

2020-11-30 00:20:52 | 今日を旅する
 2020年は7年ぶりに、日本で冬の到来を迎えることとなった。
 春先から始まった、コロナ禍によるパンデミックは、この冬になっても、いまだに収束していない。それどころか、この禍は、第三波とも呼ばれるような大波になって、押し寄せてきている。そのため、私も、妻と日本とオーストラリアの隔たりの中で、独りですでに一年程生活をすることになっている。
 
 この大波は、いつになったら引いていくのだろうか、そして、穏やかな昔の日常は、いつになったら戻るのだろうか。
このコロナとの戦に勝つ手だては、今だに見つかっていない。




 そんな折、この春先から始まった大河ドラマ「麒麟がくる」に思いを馳せ、今のこのコロナウィルスと人類との戦いの状況と戦国のその動乱の時代に思いを巡らせている。
 思えば、未来の見えない今の時代、そしてコロナ禍のこの時と、応仁の乱後の戦乱の続く戦国の動乱の世は、いずれも先の見えないという意味では、よく似ているのではないだろうか。

 戦国の時、天下静謐の時がやってくることを人々は願い、そして今、平和な日常が戻ってくることを、人々は渇望している。そして、そのような時をもたらす救世主の出現を。麒麟はいつくるのかと。

 ドラマでは、戦国の一武将である明智光秀が主人公ではあるが、平和な世がくることを願い、奮闘する彼と周りの武将、人々の群像劇として、ドラマは描かれている。
光秀の半生はあまりわかっていないため、このドラマでは、平和を連れてくると言い伝えられている麒麟をキーワードとして、光秀の半生のストーリーを創り上げている。
 
 それまで、大河ドラマでは、光秀は脇役として、また、信長を倒した逆臣として描かれることがほとんどであったが、このドラマでは、彼の人間性、人となりを丁寧に描き、戦国時代に生きた一人の若き武将の人間ドラマとして、また、自ら麒麟がくることを信じて奮闘した人間ドラマとして描かれている。
 


 
 麒麟がくる時代の序章の扉は、信長の桶狭間の戦いでの勝利から開かれたが、その道のりは簡単なものではなく、長く混沌としたさきゆきだった。


 


 光秀は、麒麟の兆しを斎藤道三、足利将軍、織田信長の中に感じ、それぞれに仕えてきたが、未だ、真の麒麟はなかなか現れず、動乱の戦の時代が続いている。
 この先の見えない動乱の世の中で、彼はもがき苦しみ、戦のない平和な世を造るためには、今は戦さもやむを得ないと割り切り、戦いの泥沼の中に落ちていくのである。


 
 その時、古き良き京の都は、帝、将軍、さらには、延暦寺の宗主がいる権力の三重構造からなる、魑魅魍魎たる旧態然とした魔界のような世界であった。そこに、まだ、形の見えていない新しい世界を形作るためには、その古き悪しきものの巣食う魑魅魍魎たる世界を破壊する必要があった。とりわけ、金と女色に溺れ、世俗化した僧兵たちの支配する延暦寺の焼き討ちは必須であっただろう。

 信長から、その延暦寺の焼き討ちを命じられた光秀は、そんな僧たちの実情を知ることもあって、焼き討ちを敢行するのであるが、信長の非人道的な戦い方に違和感を感じ、信長の中にみていた麒麟の希望の光が薄れていったのであろうか。
 それと時を同じくして、足利将軍と信長の亀裂が深まっていくのであるが、二人に仕える光秀はその亀裂の狭間で葛藤し、自分の進むべき道がどこなのかと思い悩み、苦悩するのである。



 先日、久しぶりに、熱田神宮を訪れ、信長が桶狭間の戦いの折に、寄進した土塀を見ることができた。それは、瓦を重ねて築かれたシンプルな塀ではあるが、彼の荒々しくも、ピュアな心が映し出されていた。彼は、後に比叡山延暦寺の焼き討ちを挙行しているが、桶狭間の戦いの前には、この熱田の社で戦勝の祈願をしている。









 これから、ドラマは本能寺の変へと進むが、光秀も本能寺へ向かうおり、神社でおみくじを何度も引き、吉凶を占い、祈願している。

 思い巡って、歴史を振り返って見ると、現在のコロナ禍のような疫病との戦いは、古くはすでに平安時代の頃からあり、それは、祇園祭を始め、様々な疫病払いの祭りとしても存在してきたのである。それは神頼みの素朴な民衆の願いとして、現在も受け継がれてきている。


 そして、春先のこのパンデミックの第一波の折に、テレビで流れていたドラマの「仁」では、江戸の町に流行した疫病「コロリ」と戦う現在からタイムスリップしてきた医者「仁」の奮闘が描かれていた。彼は、まさに、時間を超えてやってきた未来の医術によって、江戸に平和な日常をもたらしたのだ。その医術とは、カビから精製した薬によるものであったが。
 まさに、この「仁」は、平和な世をもたらす麒麟の世、王が仁政によってもたらす平和な世に出現した救世主の麒麟として、ドラマでは描かれていた。

 この全世界に広まったパンデミックは、日本では、桜の咲く季節に始まった。
当初は、夏が来れば収束するだろうと、時の雨のごとく、阿弥陀籤のように、どうなるかわからない占いに逃げる安直な政治家も出現した。
 しかし、それとは裏腹に、季節が巡り、紅葉が落ち葉になっても、なお、この禍は第三波となって、猛威をふるい続け、新しい年が来ても、人々は麒麟の出現を祈ることになっている。
 
 このパンデミックへの人類の戦いの武器は、いまだに、人々に課している距離感、近づかない、向き合わない、話さないといった行動様式である。
 しかし古から続く人間の心の有り様、行動様式は、会いたいと思う相手に無意識にでも、近付こうとするし、触れたいと心が欲すれば、手と手をのばして距離を近づけようとする。これはパンデミックのこの時にあっても、変わることはないだろう。

 それでは、パンデミック前の日常を取り戻し、平和な日常をもたらす麒麟とは何だろうか、そして、いつ現れるのだろうか。
 それは、あのドラマのように、時空を超えて江戸の町に現れた「仁」のような存在がもたらした未来の医術に頼るしかないのだろうか。そして、ドラマのような時空を超えた奇跡が起こるのだろうか。

 そんなことに、思いを巡らしている折、日本の探査機「はやぶさ2号」が、6年の歳月を経て、小惑星「龍宮」から採取した物質をカプセルに入れ、持ち帰ったとの知らせが流れた。そして、この時空を超えて舞い降りたカプセルは、玉手箱と呼ばれることになった。
 それは、人々が、その箱の帰還が、時空を超えて奇跡をもたらしてほしいと、願っていたからだろうか。




 その玉手箱の朗報のもたらした人々の祈りが龍宮に届いたのか、そんな折、パンデミックの元凶であるコロナウィルスに対するワクチンの接種が、イギリスなどで始まることになった。
 そして、この玉手箱の帰還に始まったワクチンの接種が、今までの日常を取り戻す麒麟の世への序章であってほしいと、願ったものだ。
 
 そんな折しも、大河ドラマ「麒麟がくる」では、戦国の動乱は急激に進み、将軍と信長の対立、そして戦へと、大波となって押し寄せていた。
 そしてついに、信長は将軍との戦で勝利を収め、室町幕府は幕を閉じることになるが、未だ残存勢力との戦が続き、動乱の時は続くのである。



 この信長によって築かれる新世界は、どんな世界なのか、光秀が夢見たあの麒麟の現れる世界なのだろうか。そんな光秀の抱いた疑念と葛藤が、あの本能寺の変へと導いていくのだろうか。
 光秀は、自らがプロデュースした信長に仕え、ともに旧世界とそれまで戦ってきたのであるが。
 それにしても、もし本能寺の変がなくて、その後に信長が創りあげる世界は、どのような新世界になっただろうか、また、本能寺の変後、光秀が生き長らえ、天下を取ったら、どのような新世界を造っただろうかとも、思ってしまうのである。
 そういえば、ドラマでは、光秀の妻が亡くなるときに、彼女は、「麒麟を連れてくるのがあなたであったなら.....」と吐露してもいましたが。

 あの時代、麒麟はいつ現れたのだろうか。
 本能寺の変に乗じて、天下を取った秀吉の時代には、平和な麒麟の時代は訪れず、その後、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、江戸に幕府を開くことになった。その後、江戸幕府が開かれ、300年ほど続く戦のない平和な時代がきたのである。それは、同時代の世界において、例を見ないものであった。その意味では、麒麟は家康とともに現れたといっても良いのではないか。
 家康は、当時、まだ魑魅魍魎たる世界の残骸が残る古平安京を遠く離れた東の地に、新たな平安の都、江戸を建造したのである。そして、現在まで、その地は東の平安京、東京として存続しているのである。

 
 この光秀が夢想した麒麟とともにやってくる平和な世を創造する道のりは、桶狭間の戦い(1560)に始まり、本能寺の変(1582)で挫折することになるが、それまでその道のりを主導してきた信長、光秀の死後、関ヶ原の戦い(1600)を経て、ようやく、光秀の夢見た平和な世は成就したのではないだろうか。

 その意味では、本能寺の変は、麒麟の世への一つの分岐点となったものではないか。
 その道のりの中で、光秀がどのように生き、本能寺の変へと突き進んだのか。
そして、その道筋の向こうに、彼は麒麟の出現を見ていたのだろうか。いや、彼の走り続けた道のりこそ、麒麟とともにあった道のりではなかっただろうか。

 そして、この麒麟の出現を願う心は、時を振り返ると、いにしえより、様々な形として記録されている。
 メソポタミアのシュメールの民は、ニビル星の出現として、ローマの時代には、その圧政に苦しむユダヤの民は、ベッレヘムの星に、救世主(メシア)の出現の予兆を見、また、古代中国の民は、まさに麒麟の出現とともに、仁政がもたらされると夢想していたのである。



 そして今、コロナ禍に苦しむ日本では、人々が、コロナウィルスを対峙する麒麟の出現を、アニメ鬼滅の刄に託して渇望しているのだろうか、人々はその映画に群がっている。
 そんなことに想いを巡らしていた折、いつものように庭に出て、空を眺めると、あのはやぶさの航跡のような雲が現れていました。
 そして、それはやがて鬼滅の刄を思わせるような雲に変わり、ついには、沢山の刄が、麒麟の姿のように変身し、浮かび流れていました。
 
 そして、私もまた、古の人々と同じように、また、戦国時代の彼らのように、このパンデミックの時に、平和な日常が早く戻るようにと、空に向かって祈っていました。













 
 
 









時の移ろいー大和の撫子を憶う心

2020-10-21 00:34:39 | 今日を旅する
 コロナパンデミックの風とともにさくら色に染まる時を、七年ぶりに日本で過ごした後も、日本でのステェイが続き、季節の移り変わりも、また七年ぶりに体験することになった。



 


 梅雨時の日本のジメジメとした湿気を充満した空気には、当初は馴染めなかつたが、長年、体に染み付いていたそれに馴染む感覚はすぐに戻り、むしろ懐かしく、優しく体を包んでくれるようになった。また、梅雨の始まりとともに、花をつけ始めた紫陽花の花が、徐々にその色彩を増し、梅雨と親和したその姿が美しさを増していった。梅雨時に、聞こえていたカエルの鳴き声が、梅雨の終わりとともに、蝉の鳴き声に代わって行った。

      
   

  



 それとともに、暑さが増していき、日本特有の蒸し暑い夏の季節がやって来た。
 オーストラリアの夏は、40℃を超えるほどの暑さに達することもあるが、乾燥しており、日陰や家に入ると涼しく感じる。そのため、冷房を使うことはほとんどなく、扇風機でほとんど過ごしていた。
 しかし、この日本の夏は、クーラーは必需品である。クーラーをかけずにいると、熱中症で亡くなってしまうことも多いからだ。私も家にいるときは、クーラーをかけて過ごすことになった。そのため電気代が春先の二倍ほどにかさむことになった。
 この蒸し暑さが続くなか、蝉の亡骸を地面に見かけるようになるにつれ、徐々に蒸し暑さが薄れていき、爽やかな青空にうろこ雲を見かけるようになると、どこからか赤とんぼが訪れるようになった。


  







 そして、まだ残暑が残る九月の季節に入ると、オーストラリアのワイルドフラワーを懐かしく思い出すことになった。オーストラリアでは、この九月の時期には、毎年ワイルドフラワーを観賞するため、名所のキングスパークを家族で訪れるのが常であった。日本のこの九月は、台風の到来する厄介な季節であるが、オーストラリアでは、ワイルドフラワーが乱舞する生命の息吹を感じる春爛漫の季節だ。





 そして、爽やかな秋の夜空に名月が映える頃、思わぬ知らせを聞くことになりました。
 それは、役所時代の友人F君からのものでした。
彼からの知らせによれば、もう一人の友K君の奥さんが九月の八日に急死したとの内容でした。
 K君とは、八月に彼の写真グループの展示会であっていました。その時、彼からはそのような奥さんの健康状況についての話は何もなく、その夜は、友人たちと楽しい時を過ごしていたものです。


  





 F君はK君からの知らせを受け、私に知らせてくれたものでした。F君はずっと前に、奥さんを亡くしており、同じように男やもめになったK君は、まずF君に知らせたものだろうか。
 
 私は、K君の奥さんには、二年前に、K君の写真グループの展示会であっていましたし、新婚当時の彼の家に友人たちと招待を受け、訪れたこともありました。また、几帳面なK君は、毎年クリスマスメッセージを届けてくれ、添えられた彼の家族写真で、奥さんの姿も拝見していました。
そして、今年には、彼のマレーシア赴任時の思い出を綴った本をいただいており、彼と彼の家族が築いてきた貴重な歴史を知ることになりました。


 彼女に何があったかは、その知らせの後、彼にまだあって話を聞いていないため、私は、何も知る由はありませんが、独り身になった彼の心境はどんなものだろうかと、想いを巡らしていました。

 それにつけても、私の場合は、コロナ禍のため、結婚して初めて、半年以上の時間を独り身で過ごしていますが、もうこの世で妻と会うことのできなくなった彼の気持ちは計り知ることできませんでした。

 そんな折、偶然に、万葉の歌人大伴家持のこの歌を知ることになりました。
  
  石竹花が花見るごとに 少女らが笑まひのにほひ思ほゆるかも
  (なでしこ)                     (おとめ)
                     

 万葉集には、ナデシコの歌が二十六首あり、そのうち十一首が家持の作で、彼が好んだ花だと言われています。この歌は、家持が越中国に赴任中に詠んだ歌で、「庭中の花に作れる歌」と題して読んだ、長歌と短歌が一組になった歌とのことです。「少女ら」の「ら」は親愛の表現で、妻の坂上大嬢を指しており、「にほひ」は輝くような美しさを言っているとのことです。長歌では、ナデシコを花妻と表現しており、可憐な花に愛しい妻の姿を重ねていたようです。
 すなわち、彼は、大和の国に残してきた妻を憶い、妻をナデシコになぞらえて、この歌を詠んだのではないだろうか。「石竹」は、現在はセキチク(カラナデシコ)をさしますが、この歌がもととなり、大和撫子と呼ばれるようになりました。ナデシコが「撫し子」となり、撫でるほど愛しい女子を表すこととなったとのことです。

             

 その後、彼が、フェイスブックに妻の死を投稿した折に、私はお悔やみとともに、この家持の歌を添えることにしました。それは、K君の心情と家持の心情が、どこか相通ずるところがあるのではないかと、想えたからです。
 その後、家持が、大和に戻り妻に会うことができたかどうか、わかりませんが、当時の万葉の時代には、もちろん電話もメールもなく、単身赴任は永遠の別れだったかもしれないからです。
 一方、正に今、妻の死という現実に直面した彼の心情は、如何ばかりのものだろうかと、私は想いを巡らしていました。

 そう言えば、数ヶ月前に、オーストラリアのパースにいる妻からのメールに、「久しぶりにピアノを弾きながら、達郎がよく聴いてくれていたことを懐かしく思い出しました。」とあったことを思い出しました。
 そして、このパンデミックがもたらした私と妻との隔たりは、K君の妻との永遠の別れに比べれば、些細な隔たりにすぎないにも関わらず、なぜか私は、このパンデミックが早く収束し、昔の日常が戻り、妻のピアノをゆっくり聴くことができたらと、心から願っていました。


 
 そんなことを思い出している折しも、庭に出て空を見上げると、優しげな雲を抱いた秋空に、一羽の鳥が舞っていました。
 そしてその時、この大空は、時を隔てたあの家持の時代にもあり、また、はるか彼方のパースにも繋がっていることを思うと、彼が、「庭中の花に作れる歌」に願いを込めて詠んだように、私は、その大空に舞う一羽の鳥に、私の願いが届くように心の中で祈っていました。

















パンデミックの風とともに - さくら色に染まる時

2020-05-17 23:27:19 | 今日を旅する
 先日、街中で見たカラスの不吉な予感が正しかったのか、日本にも、確実にあのパンデミックの波が押し寄せてきた。毎日、テレビのニュースの第一報は、感染者数のカウントで始まっていた。


 感染者数の増加につれて、その事態を憂慮し、各自治体の長は、住民に、外出自粛の要請をしていた。そして、政府には、緊急事態宣言を早く出すように要請した。
 政府も、東京五輪が一年延長と決定されると、ようやく重い腰を上げ、ついに四月七日に国内の一部地域を対象に緊急事態宣言を発令することになった。この時、指定された特定地域から、名古屋を含む中部圏は外されていた。しかし、愛知県を含むこの地域も、自主的に外出自粛をしていた。この国の宣言にも関わらず、感染の波は、全国に広がっていった。そのため、政府もこの宣言を全国に拡大し、五月の連休明けまで外出自粛、移動自粛、営業自粛をすることになり、ようやく挙国一致の体制で、パンデミックと対峙する今年の春を迎えることとなった。
 この時期は、例年なら、桜の満開のシーズンを迎え、日本列島はどこでも、満開の桜を愛でる人々でにぎあう時であるのだが。
 それで、どこも、人の数は激減し、繁華街においても、政府が要請していた七割から八割減の人出で、街中は閑散とした状況となっていった。それは、欧州や米国のような強権による都市封鎖によって生まれたゴーストタウン化した状況までには至っていなかったが。
 
 こんな今年の人間社会の状況ではあったが、自然の営みは、変わることなく、そして、毎年連綿と続いてきた桜の開花の時の流れも、確実に流れてきていた。
 今年、いち早く東京にきた、この桜の開花から満開への時の流れに、桜を愛でる人々の心は、抑えきれず、たくさんの人が桜の名所に訪れていた。例年のように桜の樹の下で宴会を開くことはなかったが。
 そして、その時の気の緩みが、二週間後の東京においての感染者の急増を招く結果となった。
 
 そして、私が住むこの名古屋の地にも、一週間遅れて、その桜前線がやってきた。
 私も、東京での桜を愛でる人々の心と同様に、さくらへの思慕の情は抑えきれず、桜の名所、山崎川へ何度も訪れることになった。
 そこは、桜の名所百選にも選ばれている、まさに桜の名所と呼ばれるにふさわしい地で、私の住む地区からもそんなに遠くないところに位置し、歩いても15分程で行くことができる。それで、私は、桜の咲くシーズンになると、はやる心で、よく家族とともに赴いていた。

 そして、その桜を愛でる心は、毎年、この季節になると、花の便りが気になって仕方がない日本人に共通の心のようで、私がオーストラリアにいても、その心は変わりはなかった。
 そして、今年は、パンデミックの余波で、独り身で日本に身を置くことになっていた私は、パンデミックの風とともにではあったが、素直に、その心に身をまかせることにした。

 そして、このような状況の今年ではあったが、桜を追い求めて一喜一憂する私の心は、古人が歌に託した桜の遅速を気にする風流心までには及ばないまでも、それに近い心情でもあった。

  世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 在原業平(古今和歌集)

 この歌には、古人の風流心のほかにも、当時、権勢を伸ばす藤原氏の鬱陶しさへの思いもあったとのことである。
 私が、この古い歌を思い起こし、心惹かれたのは、今年、この時の私の心情、それは、桜への思慕の情とともに、今広がりつつあったパンデミックへの不安が同居していたからだったのだろうか、とも思った。
 
 今年、私が最初に山崎川を訪れたのは、3月21日頃であった。この頃、東京の桜は満開ではあったが、この地では、まだようやく蕾が膨らみ、ちらほらと花開く時期であった。



  


  


  




 そして、日本に足止めされていることもあって、一週間あまり、その地に足を運ぶことができた。
 それで、幸運にも、私は、枯れ枝のような何もない樹枝にほんのりとさくら色の蕾がつく時から、花火のようにパット花を咲かせて、わずか一週間ほどで散っていく桜の姿を、その時の流れとともに見ることができた。

 





 



 





 

 
 
 


 そこは、山崎川にかかる落合橋から石川橋まで、延長2.5kmに及ぶ緑道として整備された堤の散歩道で、四季折々の花木が植えられている。
 桜の咲くシーズンには、以前は、屋台などが出て、木の下で宴会を開いて楽しむのが常であったが、整備後には、周囲の住宅街との共存のため、そのようなことは禁止されることになった。それでも、シーズンにはたくさんの桜を愛でる人々が大勢訪れていた。


 しかし、今年は、その状況は大いに変わっていた。人の数もかなり少なく、ほとんどの人はマスクをしており、その表情はどこか沈んでいた。それは、人々の心に忍び寄っていたパンデミックとともにあることによる不安と影を表しているようでした。



 それでも、人々は、桜のそのときどきの姿に出会えたことに満足し、喜びを感じているようでした。それは、きっと、その桜色に包まれることによって、それが、あたかも魔法の力を有する色となって、また、彼らの不安を消し去るバリアとなって、彼らを守っていたからだろうか。そして、それが、古代から日本人に愛されてきた桜が持つ親和力そのものではなかっただろうか。
    








 そして、ある人が言っていた次の言葉に大いに共感しました。
 "この巡りゆく季節の中で一年に一度、花を咲かせて、わずか一週間ほどで散ってゆく桜の姿に、日本人は、人生やこの世の出会いや別れ、よろこびやせつなさ、命の美しさやはかなさを、投影してきたことに気づかされます。それゆえ、長い歴史のなかで、時代によって投影される思いが変わってきたのもまた事実。日々の暮らしに満ちる光り輝く幸福感だけではなく、歴史に落とされた影の暗さを映し出すことも、桜の花は引き受けてきたのでした。世の中に光があれば影もあり、美しさがあれば醜さもある。ときに厳しい世のことわりを知りながら、気持ちに折り合いをつけ生きていくことを、桜は私たちに一年、また一年、と花を咲かせながら教えてくれます。"  雑誌-和楽四、五月号-桜と日本人
 
 そして、その言葉通り、今年の桜は、いつも通りのその美しさとはかなさではあったが、また、一方で、桜のその姿は、人間社会のパンデミックの影をも映し出し、パンデミックの風とともに生きている人間たちが、その気持ちに折り合いつけて生きていくことを、そのさくら色でもって、生きとし生けるものすべてを、優しく包み込むようにして、身をもって示してくれているようでした。
 そして、この川沿いの堤にたたずみ生きてきた数千本の桜が、桜色に染まっていくその時、人間社会のパンデミックの影の暗さを、また、桜を愛でる人々の心の中に忍び寄るその影さえも包み込む、すべてを桜色に染まめていく時間がそこにはあったのです。




   


 そのような魔法のような時間は、先人たちも感じていたようだ。
 桜をこよなく愛したあの西行は、桜の花の下で死にたいとまで、歌に詠んでいる。
  ねがはくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎのもち月のころ 
 そして、西行は本当に二月の満月の日(現在の3月後半)に亡くなって西上人と呼ばれたとのこと。
 また、あの松尾芭蕉は、たくさんの桜の句を詠んでいる。
  さまざまの事 おもい出す 桜かな 
 生涯旅を棲家とした芭蕉は、その旅の折々に会った桜に、その時々の心象を投影していたようで、この歌は、さまざまの事があった彼の旅は、その折々の桜とともにいつもあり、桜が永遠の旅人芭蕉の旅の友そのものを意味していたことを、物語っているようだ。
 そして、古よりそのような親和力を有してきた桜ではあるが、そのパワーは、人の心を全て満たしてくれるわけではないことを、次の歌が私に教えてくれた。
  桜花 今そ盛りと 人は言へど 我は寂しも 君としあらねば 大伴池主(万葉集)



 この古から続く人間の心の有り様について、パンデミックのこの時にあっても、変わることはないことを、名古屋市東山動植物園企画官の上野氏が教えてくれている。
 パンデミックが人々に課した、距離感、近づかない、向き合わない、話さないといった行動様式は、ホモ・サピエンスという動物としての視点に立つと不自然で、人間の心をないがしろにしている。人間は、会いたいと思う相手には、無意識にでも、近付こうとするし、触れたいと心が欲すれば、手と手をのばして距離を近づけようとすると。
 

 今年、パンデミックの風とともにあった、私のさくら色に染まる時間は、私にさまざまの事をおもいださせ、気づかせてくれました。
 山崎川に集った人々は、パンデミックが人々に課した距離感に、それぞれがもどかしさを心に抱きながら、その心の有り様を桜に問いかけているようでした。







 








パンデミックの風 そして さくら立ちぬ

2020-05-13 22:58:32 | 今日を旅する
 あの万葉集に詠まれた地で、子供達の願いをのせた凧は、天まで届いただろうか、と想いをめぐらしている頃、自然の営みは、いつも通り進み、その地の桜もようやく、蕾を開きつつあった。





 そういえば、あの万葉集に詠まれた歌の碑が、この地の古い神社にあることを思い出し、私は久しぶりにその地の遺跡を巡ることにした。
 その碑は、その地に古くからある八幡神社の境内に建てられている。それは万葉集の歌に詠まれた桜田の名から、人々はその地を愛でて、現在、そこは桜田勝景と呼ばれ、そこに記念碑が建てられている。













 また、その周辺には、その万葉の時代をさらに遡ること、古墳、弥生、縄文そして旧石器といった時代の遺物や遺跡が残っている。それは、貝塚、竪穴住居の発掘であったり、旧石器や弥生時代の石器、古墳時代前の銅鐸などと様々である。現在、それらの発掘作業の記録と遺物は、そこに建てられた見晴台考古資料館の中に、展示されている。以前にも、観たことがあったが、それをまた、観たいと赴いたが、あいにくこのコロナクライシスのため、休館となっていた。
しかし、その辺りの丘陵地の雑木林には、住居の跡と思しき濠の跡を見ることができる。









 その様な遺跡が物語る様に、その昔、この地は、古代の人々が暮らすのに適した地として、また、桜の咲く田畑が連なる美しい地として、古代人に愛された地であったことが想像される。
 
 そして、私は、さくらが、なぜ古代から、日本人に愛されてきたかを知る機会を持つことができた。それは、ある本によれば、サクラはサとクラからなる古代語であり、サは穀物の精霊を指す古代語であり、クラはその精霊が依りつき鎮まるところを意味する、従って、サクラは田の神さまの降臨を表す意であると。そして、その頃のサクラは、日本各地の野山に自生し、春を告げた山桜で、古人は作物は神さまからの授かり物とみなし、山々を彩るこの花に豊作を祈り、また、花の咲き具合で、一年の稲の実りを占ったとのことです。
 そして、その様な意味を持つ桜と田であったからこそ、万葉の時代に歌に詠まれたことに始まり、今もなお、この地の地名として、例えば、桜、桜台、桜本、元桜田と言った地名として、刻印されてきた。
 そのため、現在、この地にも、あちこちに桜が植えられ、道路には、桜並木の歩道を見ることができる。そして、今まさに、あの子供達の桜の蕾が開こうとしていた。



 しかし、その一方、子供たちの凧にのせたその願いとは裏腹に、今広がりつつあったコロナパンデミックの風は、すでには世界に広がりつつあったが、そして、ついには、日本各地へも広がっていった。
 WHOが遅ればせながら、3月11日にパンデミックを宣言したときには、すでにコロナの風は、世界中(110カ国)に吹き荒れていた。
 そんな世の中の状況ではあったが、自然の営みは、何事もないかの様に、訪れつつあった。
 この日本では、毎年やってくる、桜前線と呼ばれている桜の開花の波が、名古屋にもやってきていた。私が、それを七年ぶりに見ることができたのは、奇しくも、このコロナウィルスによるパンデミックのため、日本に足止めをされたお陰でもあった。




 
 この桜の開花の波を、この桜田勝景の地、そして、また、その地に1300年ほど前に創建された笠寺の古寺でも見ることになった。

 また、三月の初め、外出自粛の折ではあったが、メガネの修理のため、名古屋一番の繁華街栄へ行った時にも、それを見ることができた。
 しかし、今年は、街中の歩道を歩く人々は、以前とは違い、まばらであり、とりわけ、ほとんどの人はマスクをしており、普通なら心弾む春先ではあるが、彼らの表情はいつになく、沈んでいた。
 そんな人間社会の雰囲気とは裏腹に、街路樹として植えられている早咲きの桜が、すでにかわいい花をつけ、私たち人間に、命の息吹を囁きかけてきていた。



















 
 そして、その後、その桜の息吹の波は、着実に広がり、大きくなっていった。
 しかし、その時、町中で目にした、ゴミをついばむカラスの姿に、私は不吉な予感を感じていた。