先日、街中で見たカラスの不吉な予感が正しかったのか、日本にも、確実にあのパンデミックの波が押し寄せてきた。毎日、テレビのニュースの第一報は、感染者数のカウントで始まっていた。
感染者数の増加につれて、その事態を憂慮し、各自治体の長は、住民に、外出自粛の要請をしていた。そして、政府には、緊急事態宣言を早く出すように要請した。
政府も、東京五輪が一年延長と決定されると、ようやく重い腰を上げ、ついに四月七日に国内の一部地域を対象に緊急事態宣言を発令することになった。この時、指定された特定地域から、名古屋を含む中部圏は外されていた。しかし、愛知県を含むこの地域も、自主的に外出自粛をしていた。この国の宣言にも関わらず、感染の波は、全国に広がっていった。そのため、政府もこの宣言を全国に拡大し、五月の連休明けまで外出自粛、移動自粛、営業自粛をすることになり、ようやく挙国一致の体制で、パンデミックと対峙する今年の春を迎えることとなった。
この時期は、例年なら、桜の満開のシーズンを迎え、日本列島はどこでも、満開の桜を愛でる人々でにぎあう時であるのだが。
それで、どこも、人の数は激減し、繁華街においても、政府が要請していた七割から八割減の人出で、街中は閑散とした状況となっていった。それは、欧州や米国のような強権による都市封鎖によって生まれたゴーストタウン化した状況までには至っていなかったが。
こんな今年の人間社会の状況ではあったが、自然の営みは、変わることなく、そして、毎年連綿と続いてきた桜の開花の時の流れも、確実に流れてきていた。
今年、いち早く東京にきた、この桜の開花から満開への時の流れに、桜を愛でる人々の心は、抑えきれず、たくさんの人が桜の名所に訪れていた。例年のように桜の樹の下で宴会を開くことはなかったが。
そして、その時の気の緩みが、二週間後の東京においての感染者の急増を招く結果となった。
そして、私が住むこの名古屋の地にも、一週間遅れて、その桜前線がやってきた。
私も、東京での桜を愛でる人々の心と同様に、さくらへの思慕の情は抑えきれず、桜の名所、山崎川へ何度も訪れることになった。
そこは、桜の名所百選にも選ばれている、まさに桜の名所と呼ばれるにふさわしい地で、私の住む地区からもそんなに遠くないところに位置し、歩いても15分程で行くことができる。それで、私は、桜の咲くシーズンになると、はやる心で、よく家族とともに赴いていた。
そして、その桜を愛でる心は、毎年、この季節になると、花の便りが気になって仕方がない日本人に共通の心のようで、私がオーストラリアにいても、その心は変わりはなかった。
そして、今年は、パンデミックの余波で、独り身で日本に身を置くことになっていた私は、パンデミックの風とともにではあったが、素直に、その心に身をまかせることにした。
そして、このような状況の今年ではあったが、桜を追い求めて一喜一憂する私の心は、古人が歌に託した桜の遅速を気にする風流心までには及ばないまでも、それに近い心情でもあった。
世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 在原業平(古今和歌集)
この歌には、古人の風流心のほかにも、当時、権勢を伸ばす藤原氏の鬱陶しさへの思いもあったとのことである。
私が、この古い歌を思い起こし、心惹かれたのは、今年、この時の私の心情、それは、桜への思慕の情とともに、今広がりつつあったパンデミックへの不安が同居していたからだったのだろうか、とも思った。
今年、私が最初に山崎川を訪れたのは、3月21日頃であった。この頃、東京の桜は満開ではあったが、この地では、まだようやく蕾が膨らみ、ちらほらと花開く時期であった。
そして、日本に足止めされていることもあって、一週間あまり、その地に足を運ぶことができた。
それで、幸運にも、私は、枯れ枝のような何もない樹枝にほんのりとさくら色の蕾がつく時から、花火のようにパット花を咲かせて、わずか一週間ほどで散っていく桜の姿を、その時の流れとともに見ることができた。
そこは、山崎川にかかる落合橋から石川橋まで、延長2.5kmに及ぶ緑道として整備された堤の散歩道で、四季折々の花木が植えられている。
桜の咲くシーズンには、以前は、屋台などが出て、木の下で宴会を開いて楽しむのが常であったが、整備後には、周囲の住宅街との共存のため、そのようなことは禁止されることになった。それでも、シーズンにはたくさんの桜を愛でる人々が大勢訪れていた。
しかし、今年は、その状況は大いに変わっていた。人の数もかなり少なく、ほとんどの人はマスクをしており、その表情はどこか沈んでいた。それは、人々の心に忍び寄っていたパンデミックとともにあることによる不安と影を表しているようでした。
それでも、人々は、桜のそのときどきの姿に出会えたことに満足し、喜びを感じているようでした。それは、きっと、その桜色に包まれることによって、それが、あたかも魔法の力を有する色となって、また、彼らの不安を消し去るバリアとなって、彼らを守っていたからだろうか。そして、それが、古代から日本人に愛されてきた桜が持つ親和力そのものではなかっただろうか。
そして、ある人が言っていた次の言葉に大いに共感しました。
"この巡りゆく季節の中で一年に一度、花を咲かせて、わずか一週間ほどで散ってゆく桜の姿に、日本人は、人生やこの世の出会いや別れ、よろこびやせつなさ、命の美しさやはかなさを、投影してきたことに気づかされます。それゆえ、長い歴史のなかで、時代によって投影される思いが変わってきたのもまた事実。日々の暮らしに満ちる光り輝く幸福感だけではなく、歴史に落とされた影の暗さを映し出すことも、桜の花は引き受けてきたのでした。世の中に光があれば影もあり、美しさがあれば醜さもある。ときに厳しい世のことわりを知りながら、気持ちに折り合いをつけ生きていくことを、桜は私たちに一年、また一年、と花を咲かせながら教えてくれます。" 雑誌-和楽四、五月号-桜と日本人
そして、その言葉通り、今年の桜は、いつも通りのその美しさとはかなさではあったが、また、一方で、桜のその姿は、人間社会のパンデミックの影をも映し出し、パンデミックの風とともに生きている人間たちが、その気持ちに折り合いつけて生きていくことを、そのさくら色でもって、生きとし生けるものすべてを、優しく包み込むようにして、身をもって示してくれているようでした。
そして、この川沿いの堤にたたずみ生きてきた数千本の桜が、桜色に染まっていくその時、人間社会のパンデミックの影の暗さを、また、桜を愛でる人々の心の中に忍び寄るその影さえも包み込む、すべてを桜色に染まめていく時間がそこにはあったのです。
そのような魔法のような時間は、先人たちも感じていたようだ。
桜をこよなく愛したあの西行は、桜の花の下で死にたいとまで、歌に詠んでいる。
ねがはくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎのもち月のころ
そして、西行は本当に二月の満月の日(現在の3月後半)に亡くなって西上人と呼ばれたとのこと。
また、あの松尾芭蕉は、たくさんの桜の句を詠んでいる。
さまざまの事 おもい出す 桜かな
生涯旅を棲家とした芭蕉は、その旅の折々に会った桜に、その時々の心象を投影していたようで、この歌は、さまざまの事があった彼の旅は、その折々の桜とともにいつもあり、桜が永遠の旅人芭蕉の旅の友そのものを意味していたことを、物語っているようだ。
そして、古よりそのような親和力を有してきた桜ではあるが、そのパワーは、人の心を全て満たしてくれるわけではないことを、次の歌が私に教えてくれた。
桜花 今そ盛りと 人は言へど 我は寂しも 君としあらねば 大伴池主(万葉集)
この古から続く人間の心の有り様について、パンデミックのこの時にあっても、変わることはないことを、名古屋市東山動植物園企画官の上野氏が教えてくれている。
パンデミックが人々に課した、距離感、近づかない、向き合わない、話さないといった行動様式は、ホモ・サピエンスという動物としての視点に立つと不自然で、人間の心をないがしろにしている。人間は、会いたいと思う相手には、無意識にでも、近付こうとするし、触れたいと心が欲すれば、手と手をのばして距離を近づけようとすると。
今年、パンデミックの風とともにあった、私のさくら色に染まる時間は、私にさまざまの事をおもいださせ、気づかせてくれました。
山崎川に集った人々は、パンデミックが人々に課した距離感に、それぞれがもどかしさを心に抱きながら、その心の有り様を桜に問いかけているようでした。
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