日本へ Summer Holiday 2015. 1
サマーホリデーの1月、例年通り日本へ一時帰国しました。
16日にパースを立ち、30日に戻るという二週間足らずの一時帰国でしたので、これも例年通り、慌ただしい日々の連続でした。
また、日本は冬の真っただ中で厳しい寒さのため、真夏のオーストラリアからきた直後は、寒さが身にしみましたが、2、3日もするとそれにも慣れ、身の引き締まる寒さも、また、なつかしく思えてきました。
1月の一時帰国では、例年、税金と年金の手続をすることにしており、そのため、名古屋市の共済組合と年金事務所を訪れました。
共済組合には、私が務めていた当時の部下の女性が今も働いており、いつも彼女に手続を説明してもらい大変助かっています。その日は、その後、別の友人と役所の近くの鰻屋で昼食をとることとなり、なつかしく話が弾みました。その店は、古くから名古屋城の外堀沿い店を構えている老舗で、その鰻丼の味も格別です。
1月の一時帰国では、例年、税金と年金の手続をすることにしており、そのため、名古屋市の共済組合と年金事務所を訪れました。
共済組合には、私が務めていた当時の部下の女性が今も働いており、いつも彼女に手続を説明してもらい大変助かっています。その日は、その後、別の友人と役所の近くの鰻屋で昼食をとることとなり、なつかしく話が弾みました。その店は、古くから名古屋城の外堀沿い店を構えている老舗で、その鰻丼の味も格別です。
その後、私は久しぶりに、私が昔努めていた市政資料館を訪れてみることにしました。そこは、私にとっては、特に思い出深い職場であったこととともに、国の重要文化財でもあるその建物のたたずまいは、私の気に入っている場所でもあります。折しも,その日には、展示室で例年行われてきた、市民の絵画の展示会が開かれていましたので、それをゆっくり見学することができました。
そして、昔の私の部下が今も務めているだろうかと、なつかしい思いに駆られ、事務室を覗いてみると、驚いたことに、彼女が今も昔(15年ほど前)と同じように働いていました。
久しぶりの再会に、彼女も大変喜んでくれ、なつかしく話が弾みました。彼女は書道の先生もしており、彼女の主催する「手展」と称する展示会への写真の出展を、以前に勧められたこともあり、今回も、日本へ帰国したら、個展を開かないかと、薦めてくれました。
そして、別の日には、大学時代の友達に会うこととなりました。
それは、去年の1月に彼らと会った後すぐに、その中のひとりであるN君が急逝したこともあって、彼の思い出話などをするためでもありました。
友人の一人が、N君の急逝の事情などを調べてきてくれたので、その話を聞きながら、彼の思い出話に話が弾み、彼の弔いがようやく出来たような気持ちになりました。
私は友達と別れた後、以前、彼を案内したことのある名古屋のネオン街を歩きながら、私の傍らをN君が煙草をふかしながら、ひょうひょうと歩いている姿を、その時感じていました。
また、別の日には、一時帰国の折りには毎回会っている、役所の同期生と1年ぶりに会い、楽しい時間を持つことが出来ました。皆、元気な姿で再会することができたのが、なによりでした。
今、彼らは皆、ようやくすべての仕事から解放され、自由な時間をもつことが出来ているようですが、親の面倒をみたり、孫の世話をする者もいて、私以上に,世間のしがらみのなかで,苦労をしているのではないでしょうか。
いずれにせよ、40年程、役所を取り巻く同じ社会の中で過ごして来た仲間達であり、顔を会わせれば、話題は尽きず、今回も昼から夜まで、談話はつづきました。
夜の帳がおりた頃、我々はようやく、名古屋では定番の珈琲店「コメダ」を後にして、灯りのともった堀川の橋を渡り、照明に輝きだした名古屋駅のツインタワーを目指し、私たちは別れを惜しみながら歩みを進めていました。
名古屋駅に着くと、イルミネーションに飾られた街路樹の向こうに、不夜城のように輝くツインタワーがそびえていました。
そして、私は、その光景を撮ろうと、ファインダーを覗いていました。
その時、焦点の合わないファインダーの向こうには、無数の光の乱舞する中に、友と語り尽くしたかつての光景の数々が、走馬灯のように浮かんでいました。
その時、焦点の合わないファインダーの向こうには、無数の光の乱舞する中に、友と語り尽くしたかつての光景の数々が、走馬灯のように浮かんでいました。