モー吉の悠悠パース留学絵日記

この日記では、パースでの留学生活での出来事を中心に、心象風景を交えて、写真とエッセイにより、絵日記風に綴っています。

パンデミックの風とともに - さくら色に染まる時

2020-05-17 23:27:19 | 今日を旅する
 先日、街中で見たカラスの不吉な予感が正しかったのか、日本にも、確実にあのパンデミックの波が押し寄せてきた。毎日、テレビのニュースの第一報は、感染者数のカウントで始まっていた。


 感染者数の増加につれて、その事態を憂慮し、各自治体の長は、住民に、外出自粛の要請をしていた。そして、政府には、緊急事態宣言を早く出すように要請した。
 政府も、東京五輪が一年延長と決定されると、ようやく重い腰を上げ、ついに四月七日に国内の一部地域を対象に緊急事態宣言を発令することになった。この時、指定された特定地域から、名古屋を含む中部圏は外されていた。しかし、愛知県を含むこの地域も、自主的に外出自粛をしていた。この国の宣言にも関わらず、感染の波は、全国に広がっていった。そのため、政府もこの宣言を全国に拡大し、五月の連休明けまで外出自粛、移動自粛、営業自粛をすることになり、ようやく挙国一致の体制で、パンデミックと対峙する今年の春を迎えることとなった。
 この時期は、例年なら、桜の満開のシーズンを迎え、日本列島はどこでも、満開の桜を愛でる人々でにぎあう時であるのだが。
 それで、どこも、人の数は激減し、繁華街においても、政府が要請していた七割から八割減の人出で、街中は閑散とした状況となっていった。それは、欧州や米国のような強権による都市封鎖によって生まれたゴーストタウン化した状況までには至っていなかったが。
 
 こんな今年の人間社会の状況ではあったが、自然の営みは、変わることなく、そして、毎年連綿と続いてきた桜の開花の時の流れも、確実に流れてきていた。
 今年、いち早く東京にきた、この桜の開花から満開への時の流れに、桜を愛でる人々の心は、抑えきれず、たくさんの人が桜の名所に訪れていた。例年のように桜の樹の下で宴会を開くことはなかったが。
 そして、その時の気の緩みが、二週間後の東京においての感染者の急増を招く結果となった。
 
 そして、私が住むこの名古屋の地にも、一週間遅れて、その桜前線がやってきた。
 私も、東京での桜を愛でる人々の心と同様に、さくらへの思慕の情は抑えきれず、桜の名所、山崎川へ何度も訪れることになった。
 そこは、桜の名所百選にも選ばれている、まさに桜の名所と呼ばれるにふさわしい地で、私の住む地区からもそんなに遠くないところに位置し、歩いても15分程で行くことができる。それで、私は、桜の咲くシーズンになると、はやる心で、よく家族とともに赴いていた。

 そして、その桜を愛でる心は、毎年、この季節になると、花の便りが気になって仕方がない日本人に共通の心のようで、私がオーストラリアにいても、その心は変わりはなかった。
 そして、今年は、パンデミックの余波で、独り身で日本に身を置くことになっていた私は、パンデミックの風とともにではあったが、素直に、その心に身をまかせることにした。

 そして、このような状況の今年ではあったが、桜を追い求めて一喜一憂する私の心は、古人が歌に託した桜の遅速を気にする風流心までには及ばないまでも、それに近い心情でもあった。

  世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 在原業平(古今和歌集)

 この歌には、古人の風流心のほかにも、当時、権勢を伸ばす藤原氏の鬱陶しさへの思いもあったとのことである。
 私が、この古い歌を思い起こし、心惹かれたのは、今年、この時の私の心情、それは、桜への思慕の情とともに、今広がりつつあったパンデミックへの不安が同居していたからだったのだろうか、とも思った。
 
 今年、私が最初に山崎川を訪れたのは、3月21日頃であった。この頃、東京の桜は満開ではあったが、この地では、まだようやく蕾が膨らみ、ちらほらと花開く時期であった。



  


  


  




 そして、日本に足止めされていることもあって、一週間あまり、その地に足を運ぶことができた。
 それで、幸運にも、私は、枯れ枝のような何もない樹枝にほんのりとさくら色の蕾がつく時から、花火のようにパット花を咲かせて、わずか一週間ほどで散っていく桜の姿を、その時の流れとともに見ることができた。

 





 



 





 

 
 
 


 そこは、山崎川にかかる落合橋から石川橋まで、延長2.5kmに及ぶ緑道として整備された堤の散歩道で、四季折々の花木が植えられている。
 桜の咲くシーズンには、以前は、屋台などが出て、木の下で宴会を開いて楽しむのが常であったが、整備後には、周囲の住宅街との共存のため、そのようなことは禁止されることになった。それでも、シーズンにはたくさんの桜を愛でる人々が大勢訪れていた。


 しかし、今年は、その状況は大いに変わっていた。人の数もかなり少なく、ほとんどの人はマスクをしており、その表情はどこか沈んでいた。それは、人々の心に忍び寄っていたパンデミックとともにあることによる不安と影を表しているようでした。



 それでも、人々は、桜のそのときどきの姿に出会えたことに満足し、喜びを感じているようでした。それは、きっと、その桜色に包まれることによって、それが、あたかも魔法の力を有する色となって、また、彼らの不安を消し去るバリアとなって、彼らを守っていたからだろうか。そして、それが、古代から日本人に愛されてきた桜が持つ親和力そのものではなかっただろうか。
    








 そして、ある人が言っていた次の言葉に大いに共感しました。
 "この巡りゆく季節の中で一年に一度、花を咲かせて、わずか一週間ほどで散ってゆく桜の姿に、日本人は、人生やこの世の出会いや別れ、よろこびやせつなさ、命の美しさやはかなさを、投影してきたことに気づかされます。それゆえ、長い歴史のなかで、時代によって投影される思いが変わってきたのもまた事実。日々の暮らしに満ちる光り輝く幸福感だけではなく、歴史に落とされた影の暗さを映し出すことも、桜の花は引き受けてきたのでした。世の中に光があれば影もあり、美しさがあれば醜さもある。ときに厳しい世のことわりを知りながら、気持ちに折り合いをつけ生きていくことを、桜は私たちに一年、また一年、と花を咲かせながら教えてくれます。"  雑誌-和楽四、五月号-桜と日本人
 
 そして、その言葉通り、今年の桜は、いつも通りのその美しさとはかなさではあったが、また、一方で、桜のその姿は、人間社会のパンデミックの影をも映し出し、パンデミックの風とともに生きている人間たちが、その気持ちに折り合いつけて生きていくことを、そのさくら色でもって、生きとし生けるものすべてを、優しく包み込むようにして、身をもって示してくれているようでした。
 そして、この川沿いの堤にたたずみ生きてきた数千本の桜が、桜色に染まっていくその時、人間社会のパンデミックの影の暗さを、また、桜を愛でる人々の心の中に忍び寄るその影さえも包み込む、すべてを桜色に染まめていく時間がそこにはあったのです。




   


 そのような魔法のような時間は、先人たちも感じていたようだ。
 桜をこよなく愛したあの西行は、桜の花の下で死にたいとまで、歌に詠んでいる。
  ねがはくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎのもち月のころ 
 そして、西行は本当に二月の満月の日(現在の3月後半)に亡くなって西上人と呼ばれたとのこと。
 また、あの松尾芭蕉は、たくさんの桜の句を詠んでいる。
  さまざまの事 おもい出す 桜かな 
 生涯旅を棲家とした芭蕉は、その旅の折々に会った桜に、その時々の心象を投影していたようで、この歌は、さまざまの事があった彼の旅は、その折々の桜とともにいつもあり、桜が永遠の旅人芭蕉の旅の友そのものを意味していたことを、物語っているようだ。
 そして、古よりそのような親和力を有してきた桜ではあるが、そのパワーは、人の心を全て満たしてくれるわけではないことを、次の歌が私に教えてくれた。
  桜花 今そ盛りと 人は言へど 我は寂しも 君としあらねば 大伴池主(万葉集)



 この古から続く人間の心の有り様について、パンデミックのこの時にあっても、変わることはないことを、名古屋市東山動植物園企画官の上野氏が教えてくれている。
 パンデミックが人々に課した、距離感、近づかない、向き合わない、話さないといった行動様式は、ホモ・サピエンスという動物としての視点に立つと不自然で、人間の心をないがしろにしている。人間は、会いたいと思う相手には、無意識にでも、近付こうとするし、触れたいと心が欲すれば、手と手をのばして距離を近づけようとすると。
 

 今年、パンデミックの風とともにあった、私のさくら色に染まる時間は、私にさまざまの事をおもいださせ、気づかせてくれました。
 山崎川に集った人々は、パンデミックが人々に課した距離感に、それぞれがもどかしさを心に抱きながら、その心の有り様を桜に問いかけているようでした。







 








パンデミックの風 そして さくら立ちぬ

2020-05-13 22:58:32 | 今日を旅する
 あの万葉集に詠まれた地で、子供達の願いをのせた凧は、天まで届いただろうか、と想いをめぐらしている頃、自然の営みは、いつも通り進み、その地の桜もようやく、蕾を開きつつあった。





 そういえば、あの万葉集に詠まれた歌の碑が、この地の古い神社にあることを思い出し、私は久しぶりにその地の遺跡を巡ることにした。
 その碑は、その地に古くからある八幡神社の境内に建てられている。それは万葉集の歌に詠まれた桜田の名から、人々はその地を愛でて、現在、そこは桜田勝景と呼ばれ、そこに記念碑が建てられている。













 また、その周辺には、その万葉の時代をさらに遡ること、古墳、弥生、縄文そして旧石器といった時代の遺物や遺跡が残っている。それは、貝塚、竪穴住居の発掘であったり、旧石器や弥生時代の石器、古墳時代前の銅鐸などと様々である。現在、それらの発掘作業の記録と遺物は、そこに建てられた見晴台考古資料館の中に、展示されている。以前にも、観たことがあったが、それをまた、観たいと赴いたが、あいにくこのコロナクライシスのため、休館となっていた。
しかし、その辺りの丘陵地の雑木林には、住居の跡と思しき濠の跡を見ることができる。









 その様な遺跡が物語る様に、その昔、この地は、古代の人々が暮らすのに適した地として、また、桜の咲く田畑が連なる美しい地として、古代人に愛された地であったことが想像される。
 
 そして、私は、さくらが、なぜ古代から、日本人に愛されてきたかを知る機会を持つことができた。それは、ある本によれば、サクラはサとクラからなる古代語であり、サは穀物の精霊を指す古代語であり、クラはその精霊が依りつき鎮まるところを意味する、従って、サクラは田の神さまの降臨を表す意であると。そして、その頃のサクラは、日本各地の野山に自生し、春を告げた山桜で、古人は作物は神さまからの授かり物とみなし、山々を彩るこの花に豊作を祈り、また、花の咲き具合で、一年の稲の実りを占ったとのことです。
 そして、その様な意味を持つ桜と田であったからこそ、万葉の時代に歌に詠まれたことに始まり、今もなお、この地の地名として、例えば、桜、桜台、桜本、元桜田と言った地名として、刻印されてきた。
 そのため、現在、この地にも、あちこちに桜が植えられ、道路には、桜並木の歩道を見ることができる。そして、今まさに、あの子供達の桜の蕾が開こうとしていた。



 しかし、その一方、子供たちの凧にのせたその願いとは裏腹に、今広がりつつあったコロナパンデミックの風は、すでには世界に広がりつつあったが、そして、ついには、日本各地へも広がっていった。
 WHOが遅ればせながら、3月11日にパンデミックを宣言したときには、すでにコロナの風は、世界中(110カ国)に吹き荒れていた。
 そんな世の中の状況ではあったが、自然の営みは、何事もないかの様に、訪れつつあった。
 この日本では、毎年やってくる、桜前線と呼ばれている桜の開花の波が、名古屋にもやってきていた。私が、それを七年ぶりに見ることができたのは、奇しくも、このコロナウィルスによるパンデミックのため、日本に足止めをされたお陰でもあった。




 
 この桜の開花の波を、この桜田勝景の地、そして、また、その地に1300年ほど前に創建された笠寺の古寺でも見ることになった。

 また、三月の初め、外出自粛の折ではあったが、メガネの修理のため、名古屋一番の繁華街栄へ行った時にも、それを見ることができた。
 しかし、今年は、街中の歩道を歩く人々は、以前とは違い、まばらであり、とりわけ、ほとんどの人はマスクをしており、普通なら心弾む春先ではあるが、彼らの表情はいつになく、沈んでいた。
 そんな人間社会の雰囲気とは裏腹に、街路樹として植えられている早咲きの桜が、すでにかわいい花をつけ、私たち人間に、命の息吹を囁きかけてきていた。



















 
 そして、その後、その桜の息吹の波は、着実に広がり、大きくなっていった。
 しかし、その時、町中で目にした、ゴミをついばむカラスの姿に、私は不吉な予感を感じていた。













パンデミックの予兆 - 海を越えて

2020-05-03 21:50:20 | 今日を旅する
 今年も、確定申告のため、1月21日、日本へ旅立った。
 折しも、オストラリアは、去年から全土に広がったプッシュファイアーがようやく収まりつつあった時期であったが、飛行機の翼の下に広がった大地の上空には、まだ、ファイアーの煙の残骸と思しき黒っぽい雲が覆っていた。それは、いつも目にする、どこまでも澄み渡った大気を通して見える、あの赤い大地ではなかった。その印象的な情景をカメラに収めたかったが、あいにく、カメラをスーツケースに入れてあったので、そのイメージを記録することができなかった。それで、そのイメージを脳裏に焼き付け、いつの日か、絵にしようとスケッチをすることにした。
 それは、不吉な未来を暗示しているのだろうかと、ふと不安がよぎった。それは、いつもフライトのたびに感じる不安感、それは、大地に暮らす人類が、大地を離れるとき感じる共通の不安感であるが、それとは少し違っていた。それは、すでにその時、中国に広がりつつあったコロナウィルスの猛威を知っていたからかもしれない。そういえば、フライトの前日、妻が、それを心配してか、医療用マスクを一箱買い揃え、私に持参していく様にあてがってくれていました。

                              






 乗り継ぎのため、シンガポールのチャング空港で、いつも通り待ち時間を過ごしていたが、いつもに比べると、人の数が少ない様に感じられたが、相変わらず、中国人が多く、まだ、人の往来が禁止されていないことを物語っていた。
 私は、マスクを着用していたが、彼らのほとんどがマスクをしていない状況だった。チャング空港は世界一のハブ空港で、そこから世界のほとんどの国へ行くことができる空港だ。それで、その時、その後に世界各国へコロナが伝播した発端を見た様な気がした。
 そして、翌朝、中部国際空港に着くと、いつもより、少し少なめではあったが、相変わらず、中国人観光客が沢山たむろっていた。中国武漢から脱出してきた人たちであるかもしれないと思うと、その時、少し心配になっていました。後々、そういった人々から、日本の各地へコロナが伝播していった事実を、その後知ることになりました。







 久しぶりに、名古屋の自宅に着くと、庭には、水仙と寒椿の花が咲いており、主人のいないこの場所にも、毎年、命の花を咲かして待ってくれていて、旅の疲れを癒してくれることに感謝しました。。
 今年の名古屋は暖冬で、一度も雪が降っていないといっていた、タクシードライバーの言葉通り、到着の日以後も大変暖かい日が続きました。それで、まず、家の掃除や、車の点検などを済ませることにしました。
 その後は、年金の手続きなどの用事をまず済まし、郵便物の転送先になっている税理士事務所へ赴き、郵便物を受け取り、近況報告などをしました。いつも、彼とは、積もる話で、楽しい時間を持つことができ、また、彼の話から、日本の、また、名古屋の状況を知ることができ、助かったてます。
 また、今年は、姉が、腰の手術をするということで、名古屋の市大病院へ豊田から連日検査通院しており、私の家から近いため、その都度付き添うことになりました。その後、入院し、股関節を人工骨に変える手術をすることとなりました。そして、手術は成功し、手術後ほぼひと月ほどの入院生活をしていました。
 その一方で、その間に、心配していたコロナウィルスが世界中で徐々に広がり始めていました。
 日本では、最初は、2月はじめに、横浜港に入港したクルーズ船ダイヤモンドプリンセス号内での感染でしたが、その後に続いて、徐々に国内での感染が広がり始めました。国内での最初は、北海道でした。それは、おそらく、二月始めの札幌雪まつりにおとづれた、たくさんの中国人観光客から持ち込まれたウィルスに由来するものだと、確信しました。それは、私が、シンガポールのチャング空港で感じた不安があったからです。その当時、まだ、中国からの渡航禁止をシンガポールも日本もしていなかったからです。唯一していたのは、台湾ぐらいでした。北海道での感染拡大に対して、北海道鈴木知事は、勇敢にも、国とは独自に緊急事態宣言を発し、拡大の阻止に対処しました。彼のこの英断は、海外でも大いに賞賛されました。その後、その措置により、北海道での感染の第一波は食い止められることにつながりました。その後、次々と、感染の波が、大阪、名古屋を始め、その後東京へも直撃することとなりました。




 それにつれて、各地で、外出自粛要請や休校の措置が取られることになりました。私が暮らす名古屋においても、二つのクラスター(集団感染)が発生し、全国でも2番か3番目のたくさんの感染者が発生することになりました。私がよく行くイオンのショッピングモールでも一人の感染者が出たため、それまで混んでいた駐車場が大変空いた状態になっていました。



 それで、私も、安心な場所を選んで、食料品の購入などを済ます様になりました。例えば、それは、昔から地元の人が利用している食料日用品店や、古くからある笠寺と言われる由緒ある寺の境内で毎月の六の日に開かれる青空市場です。特にその市場は、各地からやってきて、テントの店を開いているいろいろな人や店があり、楽しい雰囲気のため、毎回通う様になりました。









 そんな状況であったため、あまり外出しない様にしていましたが、市役所時代の友人で、写真を趣味とし、クラッシックカメラの収集家でもあるKくんからの誘いで、名古屋駅のカフェで互いに写真集を持ち寄り、写真談義をすることになりました。
 彼は、写真を題材に本のデザインと制作を計画しており、私も、留学生活の記録を綴ったブログの記事をまとめた本の制作を計画をしていたため、大いに話が弾みました。私が写真学校の卒業に際して制作印刷した写真集について、その苦労話を披露することになりました。
 そのカフェは、近年の駅前再開発で新築されたビルの中にあり、駅周辺や遠くまで見渡せるベランダを併設しており、そこから遠くに名古屋のシンボル名古屋城を見ることができます。









 彼との楽しい時間を過ごした数日後、毎回帰国の折には集まって、旧交を温めている市役所仲間とも、名古屋駅のいつも利用している居酒屋に集まり、お互いの近況を報告し合い、楽しい時間過ごすことができました。
 今回の帰国では、まだ、本格的に日本に戻る予定ではなく、三月にオーストラリアへ戻る予定でした。そこで、いざ戻るために、飛行機を予約しようと、シンガポール空港の予約サイトを開くと、すでに予約がクローズになっており、すでに予約済みのチケットも六月以降に変更されることになっていました。全日空のパースと成田の直行便も減便されていました。まだ、この時には、出入国禁止にはなっていませんでしたが、オーストラリアでは入国できたとしても、二週間の自宅隔離という措置がなされていました。その後、しばらくして、出入国禁止の鎖国状態になりました。日本も、徐々に出入国の管理が厳しくなり、ついには、オーストラリアと同様に、鎖国状態になりました。オーストラリアの状況については、娘や妻からもメールで知ることとなり、また、日本領事館からも同様の内容のメールが届いていました。
 オーストラリアは日本ほどの感染状況ではなかったにも関わらず、早くから出入国の管理を厳しくしていました。オーストラリアは、昔から、固有種の生物保護のため、国内への生物の持ち込みには、厳しく管理をしてきた歴史があり、その様な姿勢からか、今回のコロナウィルスに関しても、特に厳しく対処していました。また、それは、去年から続いていた森林火災のクライシスを体験していたため、続いて起こりつつあったコロナクライシスに対しても敏感に反応し、対処できたのではと、思いました。
 そして、その時点で、学校では、すでにオンライン授業になっており、妻の英語学校も同様の様でした。スーパーでは、みんなが買い漁るため、すぐに紙類がなくなるようになり、手に入れるのに、妻たちは大変苦労している様でした。
 この様な状況下なので、日本での滞在が長期(六ヶ月ほど)に渡ることが予想されたため、腰を据えて、名古屋での単身生活を送る覚悟を決め、その準備に取り掛かりました。
 まずはじめに、歯医者に通っていたため、医療費のことも考え、また、コロナはもちろん、その他の病気のことも考え、留学を終え、完全に日本へ戻ってからと考えていた住民登録を、早々に済ませ、国民健康保険に加入する手続きも済ませました。そして、交通費が無料になる敬老パス取得の手続きも済ませました。それに関連した一連の手続きをすませると、少し安心しました。
 そして、今まで、一時帰国の折には、毎回簡単に済ましていた日常生活についても、少し、改善することにしました。それは、具体的には、例えば、食生活においては、自炊を中心にし、ご飯を炊飯器で炊き、料理もできるだけ作る様にし、シャワーで済ましていた風呂も、、湯船に入る様にしました。そして、気になっていた障子や網戸の損傷したところを、業者にたのみ、修繕してもらいました。また、留学をはじめてから七年余り、整頓していなかった自室の整頓に取り掛かり、勉強しやすい環境を整えることにしました。
 そんな日常生活の改善とともに、外出自粛で運動不足になることのない様に、毎朝の体操とともに、カメラを持って、近所によく散歩に出かける様になりました。








 それは、私が住んでいる近くには、由緒ある笠寺観音を始め、弥生時代の遺跡を再現している見晴台考古資料館とその周辺を取り巻く笠寺公園という散策に適した大きな公園があるからでした。
 そして、この近辺は、万葉集の時代には、古代の笠寺台地の縁にあたり、その東方には、万葉集の歌に読まれている年魚市潟(あゆちがた)を見下ろすことができる場所でした。古代には、年魚市潟を望むことができたその場所は、今は、笠寺公園の縁にあたり、年魚市潟の代わって、家並みやビル群を見下ろすことができます。




 キンモクセイや雪柳の花とともに、早咲きの桜が咲き始めた三月の初め、笠寺の六の市で野菜や果物を買い求めた、その後、その笠寺公園へ写真を撮りに行きました。
 折しも、コロナによる外出自粛、学校の休校の時期とあって、子供達が、家族とともに、また、友達と一緒に、その公園に遊びに来ていました。その広々とした見晴らしのいい台地の縁に立つと、心が開かれ、ストレスが発散される様です。
 それは、はるか万葉の時代、古代の民が、その同じ大地の縁に立ち、年魚市潟を眺めたときに感じた、驚きと感動で、その心が伸びやかに解き放たれ、歌を読み上げた時と、同じ様な心の高揚を感じることができる証かもしれません。
 また、そこには、この地で百歳まで生きたあの金さん銀さん姉妹の名を持つ桜の木が植えられており、その碑が建てられています。










 そこでは、今、子供達は、風に乗せて、空高く凧をあげるのに熱中していました。彼らの願いを込めた凧は、なかなか風に乗ることができずに悪戦苦闘している様でした。それでも、彼らは凧につながる糸を必死になって引っ張っていました。彼らの願いを込めた凧が天高く登る様に。





 その姿は、現在ある我々の状況、日本の状況、そして、世界のこのコロナウィルスのクライシスの状況を映し出している様でした。
 それで、その時、私は、その情景を写真に収めながら、彼らの凧が天高く揚がっていく様に、思わず応援していました。
 そして、これから開花するであろう子供達の桜が、金さん銀さん桜の様に、長生きできる様にと。