モー吉の悠悠パース留学絵日記

この日記では、パースでの留学生活での出来事を中心に、心象風景を交えて、写真とエッセイにより、絵日記風に綴っています。

地球年代記

2012-05-13 03:18:07 | 失われた時を旅する
地球年代記 5月9日(水) 曇り後雨

 秋から冬に向かう、季節の変わり目の最近は、このパースも天気が安定せず、今日も小雨混じりの曇った空模様だ。
 そこで、久しぶりに日本から持参したDVD「風の谷のナウシカ」を観ることとした。
 冒頭のシーンで、この地のピナクルズに似た風景が描かれており、昨年、ガイドさんから聞いた言葉を再確認した。そして、宮崎駿さんが描く「腐海」深部の浄化された光景と、キャメロン監督が描くアバター星の森の光景が、良く似ていることに今回あらためて気づき、二人の想像力の豊かさに驚いたものだ。


 また、このパース市内を走る無料バスキャッツは、宮崎さんのアニメ「トトロ」の猫バスを連想させ、乗っていても楽しく癒されるものだ。


 ピナクルズと言えば、昨年、その風景に感動し、「ピナクルズとノーザン・テリトリーを巡る妄想の旅」で、地球の過去と現在と未来を巡る、妄想を抱いたものであるが、イスラエルの言語学者セガリオ・シッチン博士が描く「地球年代記」には、もっと驚愕の失われた歴史が語られている。
 
 彼が語る地球の年代記とはどのようなものだったのだろうか。 
 彼は、メソポタミアで発見された膨大な量の粘土版を、言語学と宇宙科学を酷使して解読し、壮大な叙事詩としてまとめた。

 その中の一枚のタブレットに、太陽を中心に12個の星が描かれたものがあった。正確には、太陽と月を除くと10個の惑星があり、その10番目の惑星は「二ビル」と呼ばれた。その名は、シュメールの言葉て「交差する」という意味をもっていた。すなわち、その名は地球の公転軌道とその惑星の公転軌道が交差するためにそう呼ばれたものだ。
 その第10番惑星二ビルは3600年の周期で太陽を一周する超楕円軌道を持つ惑星であり、3600年に一回、地球の公転軌道と交差するものだ。


 その交差する時に何が起こっていたのか。 
 驚くことに、その交差する時を利用して、その星に住む二ビル星人は、地球に降り立っていたのだ。
 「天から降り立った者」「巨人」と旧約聖書やシュメール神話で呼ばれた彼ら「アヌンナキ」「ネフィルム」こそ彼らなのだ。
 この物語は真実なのだろうか。


 シッチンは、シュメール文明の時代に、タブレットに刻まれた9個の惑星(水、金、地、火、木、土、天、海、冥)を肉眼で観測することは不可能であり、まして、10番目の惑星を知ることなど、シュメール人には不可能であり、3600年をかけて太陽系の中を公転する星の住人だからこそ、それを可能にしたのだと論証している。
 また、シッチンは、シュメール文明がおおむね3600年周期で、飛躍的な進化をとげており、特に天文学、暦などは、ほぼシュメール時代に完成している事実をあげて論証している。
 今の365日を一周期年とし、それを12月に分けた暦も、この3600年と12の数字からきたものだ。 

 それは何を意味しているのか。
 彼らは、3600年周期で地球に何度も到来しており、植民をしてきたというのだ。

 それは何のためだったのだろうか。
 それは、彼らの星の大気が汚染され生存の危機に直面することを予測してのことで、大気の浄化に必要な金を得るためだったと、シッチンは書いている。
 彼らは長年の観測により、地球に金が埋蔵していることを知っての、植民であったのだ。
 
 それでは、彼らと人類との接触は、どのようにおこなわれたのだろうか。  
 彼らの到来の第一歩は、数十億年前だったと、シッチンは書いている。
 かつて、彼らは、地球の太古のバンゲア大陸の入り込んだ湾の向こうにそびえ立つアララト山を目指して、天から降り立ったのだ。その地こそ、かつては湿地帯であったメソポタミアの地であったのだ。


 その後続いた何度かの到来の中で、まず生物の種子がまかれ(実際メソポタミアでは小麦の化石は天然種ではなく、栽培種であることが確認されている)、続いて都市の建設など、周到な準備の後、金採掘のための植民が行われたのである。事実、南アフリカの地で、太古の金採掘場も発見されている。
 
 そして、その後、金採掘の過酷な労働に耐えかねた、アヌンナキ族の一部に反乱の動きがあったため、新しい労働力の必要に迫られた彼らは、地球上で、最も彼らに似ており、最も賢い類人猿に目をつけたのである。
 そして、そのことが、旧約聖書にある「神の姿に似せてアダムとイブを創った」真相なのだと、シッチンはいうのである。
 実際、シュメールの粘土版にはそれらしき光景を描いたものも、見受けられるのである。
 
 そして、彼は、「神に似せて創った」ということにまで言及しているのである。
 最初は、類人猿にアヌンナキの遺伝子を人工授精してこころみたが、期待した賢い新種は生まれず、思考錯誤のすえ、アヌンナキ族の勇敢な女神ニンフルサグが、自分の子宮を使うことを申し出、彼女に類人猿の遺伝子を人工授精した結果、期待した賢い新種、人類が誕生したのだ。
 それが、人類創成の真実なのだと物語っている。
 
 その後の人類の歴史については、大雑多ではあるが、旧約聖書に書かれているが、アダムとイブを創成した「天から降りてきた者」の行方は聖書には記されていない。そこでは、「ネフィルム」と言う言葉が残され、「巨人」と訳され、「神」は別の存在、宗教的な絶対神となってしまったのだ。
 しかし、彼らこそ、かつての時代に「神」と呼ばれた存在だったのだ。
 「衣」を着た、言葉を「申」すという本来の意味で。
 そして、人類の最初の母体となった「ニンフルサグ」は、現代まで「ニンフ(妖精)」と言う言葉で敬われているのである。
 日本でもニンフ、ニンプ(妊婦)と呼ばれる言葉は、この語源に由来しているのだ。





 人類は、3600年ごとに到来し、人類に文明を授けてきた彼らの到来を待ち望み、その待ち望む人類の願望が、メシア(救世主)思想となり、聖書に記述されることとなったのだ。イエス生誕の時に現れたと言われるベツレヘムの星も、この星の到来を願ってきた人類の願望の印だろう。
 そして、十字をきって祈りを捧げる仕草も、この星が地球と交差する時を願望した由の、仕草からきたものなのだ
 また、彼らの惑星は、太陽を3600年かけて一周するため、彼らの一歳は地球上での3600年となり、彼らが不老不死の存在として崇められたのはそのためだ。
 浦島太郎効果の伝説も、もとを辿れば、この人類の言い伝えからきているのだ。

 その後の、地球と「アヌンナキ」の歴史についても、シッチンは詳しく物語っているが、長くなるので、ここでは記さないが、大洪水の時期、一時避難していた彼らは、その後、文明の再構築にとりかかったが、重力の負担には勝てず、知識の一部を人類に残し、地球を後にしたのだろう。
 そして、彼らの痕跡として残っているのが、ギザのピラミットをはじめ、避難都市マチュピチュなどの古代の遺跡なのだろう。




 そう言えば、「風の谷のナウシカ」でも「その者、青い衣をまとい、金色の野に降り」と言う表現で、救世主の出現を予言する老婆の言葉が、随所に出てくる。そして、最後にナウシカが青い衣をまとった姿となり、人類を救って天に昇り、そして金色の野に降り立つ光景が描かれている。それは、衣をまとった言葉を話す存在、「天から降り立った者」として、神と呼ばれた存在を連想させ、彼らから知識を授かった人類を象徴するかのような光景だ。



 DVDを観て妄想を巡らした翌日、シティの街へ出て、大聖堂の前を通りかかると、その前で祈りを捧げる老婆がおり、「青い衣をまとった・・・」とつぶやきながら、クルス(十字)をきっている姿を見たような気がしました。
 すると、そばから妻の声が聞こえ、我にかえったものでした。



失われた時を旅するー序章

2012-05-06 01:17:00 | 失われた時を旅する
失われた時を旅するー序章 4月25日(木) 曇り後晴れ

 ここパースの空はいつ見てもきれいだが、秋の気配の深まる最近の雲の流れる夕暮れ時の空もすばらしい。
 「アバター」を見て妄想した数日後の今日、その夕暮れ時の美しい空に、月と宵の明星が西の空にくっきりと浮かび上がる、珍しい瞬間に出会い、その美しい幻想的な光景に感動した。




 その感動もあって、数日前の「アバターの帰還」で抱いた妄想がさらに広がることとなった。
今日見た月とビーナスの接近の光景は、偶然の所産であるが、かつて本当の出会いはなかったのだろうか。
 そう言えば、「衝突する宇宙」の作者ヴェリコフスキーは、旧約聖書やギリシャ神話を読み解き、ゼウスの額からビーナスが飛び出したという神話は、木星から金星が飛び出した事実を記憶した先人類が、象徴として神話化したものだとの説を唱えている。
 さらに、サイエンスエンターテナー飛鳥昭雄氏は、その説をさらに広げ、驚くべき説を唱えている。
 木星は一般的に言われているガス惑星ではなく、地殻惑星であり、その雲の下に巨大火山クロノスがあり、かつてその火山が大噴火を起こし、その時、その火山から飛び出した地殻が、旧約聖書で言うところの巨大彗星メノラーとなって、地球の近くを通過することとなった。その時、月と地球に起こったカタストロフィーが、洪水神話の真実なのだと。

 まさに、月とビーナスの出会いが、かつてあったのだ。
 そして、そのカタストロフィーとは、まず月の地殻に亀裂が入り、地殻の中に充満していた熱水が宇宙空間に飛び出すこととなり、その熱水は、地球の引力に引き寄せられて、滝のように地球に降り注ぐことになった。その史実を、旧約聖書では「天の扉が開き、水が滝のように降り注いだ」とあり、それが洪水神話の真実だと。
 すなわち、洪水前の地球には、旧約聖書の描くところの楽園「エデンの園」があり、それがカブレラストーンに描かれている地球であり、キャメロン監督の描くところのアバター星なのだ。







 そして、その太古の地球は、現在よりも小さく、重力も弱いもので、恐竜と先人類が空をも自由に飛び回ることができ、体も一回りも二回りも大きいものだった。大地は超大陸バンゲアがあるだけで、海は入り江状の湾があるだけだった。
 そこに、かの洪水によるカタストロフィーが起き、超大陸バンゲアはほんの一部を除いて水没することとなった。その水没の伝説が、現在のヨーロッパの地では、アトランティス大陸の伝説となり、太平洋の地では、ムー大陸の伝説となった。そのカタストロフィーを生き延びた先人類の伝説が、ノアの箱船伝説となった。




 その後の地球環境の激変はどうだったのだろうか。
 大量の水と砂が、月から降り注ぎ、質量を増し、重力の強くなった地球は、その内部の対流も激変することとなり、水没していたバンゲア大陸に亀裂が入り、徐々に分離移動しながら海面から姿を現してきたのだ。それが大陸移動の真実なのだ。
 驚くことに、南米チリのイカの地で発見されたカブレラストーンの一つには、先人類と恐竜とともに、ギザのピラミッドらしきものが描かれているのだ。
 その事実は何を意味するのか。
 それは、かつて、南米大陸とアフリカ大陸がひとつであったことを意味し、洪水前の地球には一つの大陸バンゲアがあった、との仮説と一致するものだ。
 また、その激変は、当然ながら、洪水というカタストロフィーを生き延びた先人類や生物たちにも、計り知れない影響を及ぼしたことだろう。
 驚くべきことに、そのあたりの記憶がカブレラストーンに線刻画として刻まれているのだ。
 後期のカブレラストーンには、帝王切開をする手術の光景を描くものと、ホモセクシュアルの光景を描くものが、たくさん発見されている。
 この事実は何を意味するのだろうか。
 それは、重力の変化により、母体の受けるそれと、胎内で羊水の保護のもとで胎児が受ける重力の違いにより、重力ラグが生じ、大きな胎児により母体が危険にさらされることとなった所産ではないのか。ホモセクシュアルの増加も母体の妊娠による危険を避けるため、アダムがとった悲しい選択だったのではないか。
 そのように苦難を潜り抜け、今の人類があるとすれば、かつてのアダムとイブたちに感謝するばかりだ。
 
 そんな妄想を巡らした翌日、シティの街に出ると、今日も変わりなくアダムとイブの末裔たちが、楽しげに交流する光景があった。







 イブたちの惜しげもなく胸をさらけ出して、アダムを誘うかのような所作にも、あの苦難の時代にアダムから忌避されても、なおアダムの心をとらえたいと願った、悲しくも愛情深いイブの心の痛みを感じ、素直に「ありがとう」と感謝したい気持ちだ。
 そして、ホモセクシュアルのカップルをみても、同じ時代に生きたアダムがとった悲しい選択のなごりだと考えると、アダムにも「ごくろうさま」と感謝をしたい気持ちがわいてきたものだ。
 かれらの産みの苦しみと悲しい選択が、現在の人類の繁栄を築いたのであろうと想うと、それを引き継いだ我々も、未来に繋がる選択をしなければ、申し訳ないと思ったものです。





アバターの帰還

2012-04-28 02:25:48 | 失われた時を旅する
4月15日(日) 晴れ
アバターの帰還
 
 サウス・ウエストからの帰りの途中、バスの車窓からみた漆黒の空に散りばめられた満天の星に感動したこともあって、翌日、キングスパークへ夜空を観に行くこととした。公園には、既に沢山の人が集まり、シティの夜景と夜空の満天の星を眺めて、癒しの時を楽しんでいる。


 我々も、シティの夜景に感動し、満天の星の中に南十字星を見つけることができ、初めてみたこの十字星の遠慮がちな姿に、親しみを覚えたものだ。というのは、この星座の近くに、にせ十字星と言われる大きな十字を象る星座があるからだ。
 今日観たこのキングスパークからのシティの夜景と南十字星、そして、数日前にみたシティの日の出の光景は、一生忘れることはないだろう。そして、その感動が私のイマジネーションを駆り立てることとなった。



 サウス・ウエストの岬で、アイルランド娘たちの「楽園への帰還」を祈り、その翌日、満天の星空で南十字星を見つけたこともあって、前から気になっていた、今日のテレビで放映される「アバター」をみることにした。というのは、以前、日本の映画館でみたのであるが、その時、おぼろげに感じていたが、なかなかはっきりと見えてこなかった、キャメロン監督のこの映画での意図が、今なら解明できそうな気がしたからだ。
 
 それは、この楽園都市パースで現在を生きる、たくさんのアダムとイブたちの多くが、移民やその末裔であること、そして彼らが、本国のしがらみから解き放たれ、この楽園と言われる都市でフレンドリーに、自由に暮らしている光景を目にするからだろうか。
 そういえば、パース駅の広場にある「Grow Your Own」と言う名のモニュメントは、旧約聖書にあったと言われる楽園を象徴する、生命の樹を連想させるものだ。この緑のモニュメントは、シティの街へ入る時、現代のアダムとイブたちが、その下をくぐったり、触ったりする親しみのあるものだ。




 ここでのテレビ放映では、翻訳者の勝手な翻訳字幕を目でおうこともないので、キャメロン監督が映像で訴えたかったものが、そのままダイレクトに伝わってくるような気がした。
 この主人公は、近未来の地球に生きる、傷ついた人間で、アバター星を目指すミッションの一員であったが、彼こそは、エデンの園を追放されたアダムの象徴として、その星に送り込まれたのではないのか。
 りんごの実を食べて、エデンの園を追放され、地上に築き上げた文明の利器をもって、アバターとなって、その星にタイムスリップして、彼がそこで見たものは。




 そこでは、生命の樹のもとでアバターたちが、平和に暮らしている。恐竜たちとも共存して、彼らが暮らすその星の光景は、正に、りんごの樹のもとで暮らしていた、かつての楽園「エデンの園」ではなかったのか。







 アバターとは、傷ついたアダムが、かつての「楽園への帰還」を果たし、イブに再会した話ではないのか。
 この映画では、邪悪な文明の武器を用いて、アバター星を征服しようとする人間たちと、アバター星人との戦いが描かれている。この戦いで楽園は破壊されようとするが、アバターとなった傷ついたアダムと彼に賛同する数人の人間たちの助けにより、邪悪な人間たちを撃退することができた。

 アバター星とは何であったのか。
 興味深いのは、南米チリで発見された「カブレラストーン」と言われる考古学資料には、恐竜たちと共存している、先人類の線刻画が描かれている。それは、今までの学説の常識とはかけ離れているが、先人類と恐竜たちが共存していた時代が、かつて存在していたことが、うかがわれるのである。キャメロンは、この資料を知っていたのだろうか。
 この映画では、人間よりも巨大なアバターたちは、恐竜に乗って空を自由に飛び回っており、重力が現在の地球のそれよりも小さいことがうかがわれる。それは、かつての地球に生きた恐竜たちも、現在の地球の重力では、自由に動き回れることもできず、まして空を飛べることもできなかったとも言われており、かつての地球も、重力も今より小さかったのではないかと言われていることとも一致する。
 この映画では、近未来の人間が、その科学によって、アバター星人に似せてアバターを創成するのであるが、旧約聖書では、神が自分の姿に似せて人間を創成したとある。
 そして、そのアバター星人は旧約聖書が描くところの生命の樹の下で暮らしている。ならば、そこにアバター星人を創成した神がいたとしたら、その神とはアバター星人に似た巨人であったとも、想像されるのである。
 驚くことに、旧約聖書には巨人と訳されている「ネフィルム」という存在が記されており、また、その原典とされるシュメール神話には「アヌンナキ」と言われる巨人が記されている。イスラエルの言語学者セガリオ・シッチンは、この巨人を「天から降りてきた者」と解読し、彼らこそが「神」と呼ばれた存在の、かつての地球に到来した宇宙人だ、との説を唱えている。

 キャメロン監督もそのようなことも頭に描きながら、この映画を創ったのだろうか。
 カブレラストーンの時代と、その後の地球の重力の増加は、何が原因だったのだろうか。それは、旧約聖書で描かれ、全世界に残っている洪水伝説として語られている大洪水ではなかったのか。
 アダムとイブが背負うことになった原罪とは、物理学的には、大洪水の後のカタストロフィーの結果、地球の質量の増加がもたらした、重力の増加と言うかたちでも現れたのだ。彼らの末裔たちは、これらの地球そのものの激変をもくぐりぬけ、今日まで生き延びてきたのだ。
 このあたりの話は、モー吉の写真館「達真館」で予定している旅シリーズの第三弾「失われた時を旅するー古代史の原風景」で探求してみたいと思っています。
 
 この映画を見ながら妄想した翌日、シティの街へ出ると、今日も変わらず、現代のアダムとイブの末裔たちが、あのオブジェの下を潜り抜けていました。