北の都へ
今回、久しぶりに訪れたその地金沢は、折しも寒波の襲来で雪景色の中にありました。
振り返れば、今から50年程前、私は北陸本線の列車「しらさぎ」に乗り、北の都金沢へ向かっていました。
手には五木寛之の小説「青年は荒野をめざす」をたずさえ、その主人公と同じように、心には大いなる不安と夢を抱きながら、車窓に流れる風景を眺めていました。私がこの地で初めての一人暮らしを始めることになったたのは、その古い城下町のお城の中に位置する大学に、強く心を惹かれたからでした。
そこには、石川門と呼ばれる白壁の美しく威厳のある門がありました。折しも、その門は桜に覆われた美しい姿で、私を迎えてくれました。
そして今、50年の歳月を経て、その地をおとづれることになりました。
それは、当時からの友が計画をしてくれた、coming homeの旅でもあったからです。そして、雪の中に佇む石川門の威厳のある姿は、50年前と同じように私を迎えてくれていました。
今回の旅の目的の一つは、四年間を過ごしたこの街の痕迹を辿るとともに、その変貌を確認することでした。
私たちが真っ先に訪れたのは、当時暮らした下宿でした。
その場所は、東茶屋街から大通りを隔てた反対側に位置する、浅野川沿いの古い街並みに残る一軒屋でした。古い記憶を呼び戻しながら探し当てたその家は、リニュアルしていましたが、まさにその下宿でした。
私が暮らした二階の格子戸は新しくなっていましたが、あの中に、遠い日の私がいるようでした。そして、襖を隔てた隣の部屋には、今回の旅のプランニングをしてくれた、Nくんが住んでいました。
冷たい雨が降り注ぐ二階の格子戸の向こうには、暖かいこたつの中で、ラジオの深夜放送を聴きながら、本を読んでいるかつての自分を見たような気がしました。
近くの「中の橋」と呼ばれる橋を渡ると銭湯があり、いつも、銭湯を出た後、その近くの一膳飯屋で夕食を食べ、テレビを見ていたような記憶があります。
その後、我々は浅野川沿いに進み、東茶屋街を見ることにしました。
途中、当時のゼミの教授が、我々学生を連れて行ってくれた「「太郎」という鍋料理店が当時と同じ佇まいで残っていました。
遊びの友亡きNくんが教授と最前列にいます
東茶屋街は、江戸時代の遊郭の一つで、古い町家の茶屋が軒を並べる、当時から観光名所の一つになっていた場所です。
当時、映画「朱鷺の墓」の撮影がその一軒であり、女優浅丘るり子を見るために、そこに行った記憶が蘇ってきました。
現在、その界隈は綺麗に整備され、金沢の一大観光名所になっており、その日も雨模様にも関わらず、中国人観光客などが多数訪れていました。
金沢は金箔工芸の地でもあり、ここ東茶屋街にも、町家を改造した金箔工芸店が、軒を連ねています。私たちもその一軒を見学することにしました。そこは古い土蔵に金箔を張り巡らした金色の土蔵があり、まばゆく光り輝く姿を見せていました。
東茶屋街の近くの神社では、節分の日ということもあって、芸妓による豆まきの準備をしていました。造り酒屋が提供するお酒が振舞われるということでした。
豆まきは3時過ぎとのことで、我々は、茶屋街から少し離れた料理屋で、昼食を取ることにしました。
道すがら、この地出身の泉鏡花の碑や、この地で暮らしていた五木寛之の記念館などを眺めることができました。
さらに、偶然にも、我々が最後の年にアルバイトをしていた日経の新聞配達店が、昔そのままの姿で残っていました。
予約していた昼食の弁当を食べ終わってから、買い物にいく友と別れ、わたしは茶屋街の豆まきを見学することにしました。
すでに酒が振舞われている会場には、人が溢れ、とても近くで見学できる状態ではありませんでした。
そこでわたしは、お酒をいただきながら、その場の人たちと親しく交流することにしました。豆まきは、神社の特設のStageで見ることができるようになっていましたが、一時間あまり、豆まきが遅れたため、また、友との待ち合わせの時間に間に合わせるため、芸妓による豆まきを見ることができませんでした。それでも、地元の人々や観光客とも親しく話すことができ、楽しい時間を過ごすことができました。