モー吉の悠悠パース留学絵日記

この日記では、パースでの留学生活での出来事を中心に、心象風景を交えて、写真とエッセイにより、絵日記風に綴っています。

写真の友 K君に捧ぐーメッセージ 

2012-09-30 01:15:55 | 捧げる言葉
写真の友 K君に捧ぐーメッセージ 9月29日(土)

 最近、気になることがあります。
 それは・・・
 
 先日、シティの街に出ると、上空を旋回している一羽のかもめが、急降下して私の方へ目がけて飛んで来て、私の横を飛び去り、急上昇して飛去っていきました。そんなことが二回程続き、不思議に思っていました。



 K君を知ったのは、私が役所に入って間もない頃です。
 私は、最初のボーナスで念願のカメラを手に入れ喜んでいました。そして、その頃、隣の係にいたK君が、「写真でも撮りに行こうぜ」と、ぶっきらぼうな声で誘ってくれました。
 それがきっかけで、彼とあちこちへ撮影旅行に出かけることになったのです。旅行といってもたいそれたものではなく、日帰りか、一泊の旅行で、ほとんど彼の持っていた車に乗っての旅でした。彼はその頃の若者のあこがれのスカイラインGTに乗っていましたが、特に自慢するでもなく、ごく普通に乗りこなしていました。
 
 私のカメラはニコンFフォトミックで、当時人気のものでしたが、彼はその頃、既にブロニカの一眼レフ(6×6)中判カメラを持っていました。彼の技術は確かなもので、たくさん撮るのではなく、確かな少ない写真を撮るスタイルでした。私は、まだ、その域までは達してしないと常々思い、彼を見習わなければいけないと、思ったものでした。
 
 彼とは、よく大和路を旅しました。あるとき、若草山の山焼きの瞬間を見ようと、時間を合わせて行ったのですが、現地に着いたときには、既に終わったあとで、二人で苦笑いをして酒を飲んだ懐かしい思いでもあります。二人とも入江泰吉の大和路の写真が好きで、私も二冊ほど写真集を手に入れよく眺めていました。
 東大寺の裏山に登り、朝もやのなかで、朝日に光り輝き浮かび上がる東大寺の甍を観て、その時代の人が眺めたと同じ風景だと言って、二人して喜んだものでした。
 また、信州の夜叉神峠にテントを張って、月光に輝く山々を眺めて感動し、その地の夜空と街中のそれとがあまりに違うので、街中で撮る写真はカーテン越しに撮る写真で、本物の風景だろうか、などと話し合ったものでした。 
 
 そして、彼と一緒に参加した職員写真撮影会で撮った私の写真がグランプリをとり、彼が準グランプリを取ったとき、彼の腕前を知る私は、彼の前で遠慮がちに喜んでいましたが、彼は素直に一緒に喜んでくれました。

落葉とモデルのいる風景

 その後、私の職場がかわり、それにつれて彼との撮影旅行もなくなりましたが、お互いの結婚式に参列し、それぞれ写真を取ってプレゼントし、私の書棚には、彼が撮ってくれた写真が大切に飾られています。
 それから20年余りが経過し、毎年の年賀状の挨拶が彼とのコンタクトの場となりました。彼の関心は写真から書へと移り、年賀状も端正な書での挨拶となりました。私も、家族旅行での写真が主になり撮影旅行といったものもなくなりました。 
 
 退職も近づいた頃、私は久しぶりに一人旅の撮影旅行で沖縄を訪れ、良い写真が撮れたので、彼に連絡をして、沖縄料理店で彼に会うことになりました。いつも辛口の批評家である彼も、私の自身作を観て、大変褒めてくれました。そのとき、泡盛を飲みながら写真談義でもりあがり、久しぶりに撮影旅行に行こうかということになり、約束をして別れましたが、その後、お互いの都合が合わず、その約束は実現しませんでした。


昔は誰が歩いたのだろう
 
 その後退職した年、私は、その時の私の写真への彼の評価に気を良くし、その一枚を初めて雑誌へ応募しました。それが幸運にもサライ風景写真大賞に入賞することとなりました。それをきっかけに、私の写真への情熱が再燃し、Webサイトに「モー吉の写真館 達真館」をホームページとして立ち上げました。そこには、彼との撮影旅行での写真も数点掲載してあり、是非彼に観てもらい、また彼に的確な批評をしてほしいと思い、はがきでホームページの案内を出し、彼からの連絡を心待ちに待っていました。


 それより、数ヶ月前の正月に、彼も久しぶりに写真を印刷した年賀状を送ってくれました。それには、窓越しの一輪の花と添え書きが書かれていました。
 私が心待ちにしていた返事は、思いがけなく彼の奥さんからのものでした。胸騒ぎがする心で、その内容を読んで愕然としました。彼は、その年の正月を過ぎた二月に亡くなっていたのでした。
 そして、早るこころで、彼からの年賀状を取り出し、その写真と文面を読み返してみました。そこには、窓越しに咲く命の灯とも想える、かすかに赤く染まる一輪の花が、そして、添え書きには、「今年を最後に、年賀のあいさつをご無礼します」と彼らしくぶっきらぼうに書かれていました。
 
 私は、なぜその時気が付かなかったのだろうと、大変悔やみました。
 窓越しの写真は、病室からだろうか、自宅の部屋だろうか、今にも消えようとする一輪の花の命を、確かに、そして、見事に伝えるものでした。彼はその花を眺めながら、その花に、消えようとする自分の命をたくしていたのだろうと、彼の心の声を知ると、私は涙がとまりませんでした。


 あのカモメと遭遇して数日後、シティの街に出ると、あの時と同じように、上空を旋回していたカモメが、私を見つけたかのように、急降下してきて、私のそばを飛び抜けようとしたその時、羽ばたきとともに「また、写真を撮りに行こうぜ」と、K君のあのぶっきらぼうな声を聞いたような気がしました。
 想えば、私がこの地へ来て、写真の勉強をすることになったのも、この地から遥かかなたの日本へ、私を呼び寄せる彼の「メッセージ」が届いたからだろうか。

 


 このパースの地は、「peace」の語源「perth」の名に由来し、平和な街、楽園都市と呼ばれています。この地が、エデンの園に帰還したK君にふさわしい場所だと想うと、私は、この街が一層好きになりました。









 私はパースの澄みきった空に向かって、「また、写真を撮りに行こうぜ」と大声で呼びかけました。 私の「メッセージ」が彼のもとへ届くように。



学生ビザの交付ー深夜の怪

2012-09-23 23:55:18 | 今日を旅する
学生ビザの交付ー深夜の怪  9月17日(月)

 学生ビザのための健康診断も終わり、移民局への提出書類も揃ったため、翻訳が出来上がってきた書類を、順次、移民局へメールで送信する作業を、ほぼ毎日、留学センターですることとなりました。
 その合間に、家探しに専念することとなり、連日ネットでrent houseを探し、見学に訪れたりしていると、あっと言う間に一週間が過ぎてしまいました。物件はたくさんあるのですが、なかなか希望にあったものは見つからないものです。








 日曜日には,気分転換のため、またキングスパークまで散歩で出かけ、咲き乱れているワイルドフラワーを見て疲れを癒しました。パークにはたくさんの市民が訪れ、癒しの場となっていました。














 翌日、健康診断の結果が仮の住所になっている娘のシェアハウスに届いていたので、移民局へ届ける予定でしたが、留学センターで移民局へ書類をメールで送る作業をしていて遅くなったため、移民局へは翌日行くことにしました。
 そのため、その日はホテルに帰り、ネットで家探しをすることとしました。オーストラリアには「リアルエステート」という不動産サイトがあって、それで探すのが一番便利で、見学会のある物件も即座にわかるようになっています。
 
 深夜までそのサイトで家探しをしていると、突然、移民局の担当者からメールが入り、その文面を読むと、どうも学生ビザがおりたような文面になっているので、びっくりしていると、娘が、添付ファイルがついていないし、こんな深夜に送ってくるのはおかしいといっていました。確かに健康診断結果の書類も明日届ける予定になっているので、半信半疑でした。しかし、確かに文面は「grant」のもので、交付番号もあり、パスポート番号も私のものなので、間違いはないのですが。
 それで、翌日、留学センターのHさんに電話をし、メールを転送して、我々はホテルのすぐ近くの移民局へ健康診断結果を届け、センターへ足を運びました。
 センターではHさんが待っていて、メールは学生ビザ交付のものに間違いないということを聞いて、ほっとしました。
 Hさんの話では、ビザ交付に際して、添付ファイルのないスタイルは昔のスタイルだとのことで、また、診断結果の前に交付する例も過去にもあったそうでした。
 ただ、移民局の役人が夜まで仕事をすることは皆無だそうで、その点は不可解だと言っていました。
 私とHさんで、移民局からの質問に対してまじめに回答をした書類を、メールで連日送り続けていたためなのかとも想った次第です。










 ちなみに、移民局からの質問の概略は次のとおりでした。
  1 この勉強コースを選んだ理由は
  2 どうしてオーストラリアでの勉強を選んだのか
  3 あなたのバックグランドとの関連性は
  4 あなたの将来のキャリアとの関連性は
  5 あなたの母国での経済的な基盤、資産は
  6 あなたが母国へ帰国するという証明は
  7 あなたの職歴証明は
  8 あなたの学校の卒業、成績証明書は
  9 あなたは大学でどんな勉強をしたのか
  10 もう一度なぜ勉強するのか
  11 この写真コースを勉強して、将来何をしたいのか

 これらの質問で解ることは、移民局は、留学生が地元の人たちの仕事を取らないかとの懸念をしているということです。また、現在、移民は広く認めていますが、誰でも彼でも永住を認めるのではなく、留学生は、勉強が終わったら、原則自分の国へ帰るべきだとの姿勢を持っているということです。
 こういった移民局の対応の背景には、不法滞在者が多いという事情もあるということでした。
 いづれにしても、この「深夜の怪」は未だに不可解な出来事として、わたしの中のXファイルになっています。







留学生活の始まり

2012-09-16 05:15:34 | 今日を旅する
留学生活の始まり 9月10日(月)晴れ

 今日は学生ビザを取得するための健康診断の日だ。
 パースに到着してから既に10日になるが、これまで、とにかく忙しい毎日だった。






 
 到着した日が土曜日で、留学センターは休みであるため、まずは生活に必要なものをスーパーでそろえることから始めた。
 アパートメントホテルも以前に利用したホテルで、従業員も以前からの人がいて、我々を暖かく迎えてくれた。この「City Stay Appertment」は、本当に便利で良いホテルだ。前と同じ間取りの部屋でパースの我が家へ戻ったような気分だ。リビングも一回り大きな部屋を提供してくれていた。二回目の利用だからだろうか。洗濯機も良くなっており、食器類も以前より充実していた。住宅を借りるまでは、このホテルで暮らすことを予定しており、二ヶ月の間に住宅を決めなければなりません。







 留学中の娘と三ヶ月ぶりに再会した初日の1日は、前回からの気に入りの中華街の店で夕食を食べることにした。前回一緒に撮った写真をこの店のおかみさんにプレゼントすると、大変喜んでくれた。
 
 土、日曜日は生活用品を揃えることに費やし、月曜日の3日に留学センターにお土産を持って挨拶にいくと、お世話になっているHさん始めメンバーが暖かく迎えてくれ、我々も大変うれしく話が弾むことになった。
 喜んでばかりはおれず、翌日から学生ビザの申請、健康診断の予約などの手続きのため、留学センターとホテルを毎日往復することとなった。
 私の場合、この学生ビザ申請に際して、移民局からアンケートへの回答要請があり(この七月から始まったもので、アットランダムに対象者を決めるとのことであるが、私が60歳を超えているからなのか?)、これで大変手間のかかることになった。
 すなわち、職歴証明、年金収入、銀行残高証明、固定資産証明、留学の理由書などの書類を揃えることとなり、手元にないため、日本から取り寄せる必要があるものもあった。そのため、前の職場のSさんには、職歴証明書、懇意にしている税理士のNさんには固定資産証明を取ってももらうようにお願いすることとなった。電話とメールでのやりとりになったが、お二人とも大変すばやく、正確に書類をそろえて送信していただき、大変助かり、感謝している次第です。
 留学センターの方も、「さすがに日本人はすごい」と言って,感心していました。ここオーストラリアでは、頼んでも予定通りいかないことが日常的であるからです。
 そして、一番ありがたいことは、パースの留学センターの方たちが、とても親切にサポートしてくれることです。彼女たちは皆、何年か前にこのパースに来て、この異国の地で羽ばたき、活躍している大和撫子です。
彼女たちのサポートなしには、今回の留学はありえなかったと思っています。
 その他に、そろえた書類を翻訳にかけてもらうこと、銀行の現地口座を開設するなどをしていると、あっという間に一週間がすぎました。

 そして、休みの日曜日、パースに来てはじめて、キングスパークを散歩がたら訪れ、シティの街の眺望や咲き乱れるワイルドフラワーを見て癒されました。









 このパースでは、街中へ出るだけで、飛び交うカモメやアートで陽気なミュージシャンや画家のたまごの人たちのアートに心を癒されますが、ここキングスパークは市民の一番の癒しの場です。












 そして、ようやく今日、健康診断の日を迎えることになり、これをクリアーすれば、留学手続きでは、後は学生ビザの認可を待つだけです。健康診断は、日本人スタッフがいないので、娘が通訳をしてくれることになり、大変助かりました。また、イタリア人のスタッフはとても親切で、医者の指示がわからなくて困っていると、親切に教えてくれました。
 これで、後は,健康診断の結果が送られてきたら、それを移民局へ持っていき、学生ビザの認可がおりることを祈るばかりです。
 そして、これからは、家探しを本格的にやらなければなりません。
 


夢追(老)人留学生モー吉の誕生ー夢に向かって

2012-09-09 00:34:57 | 今日を旅する
夢追(老)人留学生モー吉の誕生ー夢に向かって 9月1日(土) 晴れ

 この春のパースでのロングスティから、日本に帰還して3ヶ月以上が経った8月31日、三度目のパースへ旅立ちました。
 今度は、留学という大きな夢に向かった旅立ちのため、その準備のため、慌ただしく、あっという間に3ヶ月が過ぎました。
 留学の準備には本当にたくさんのことが必要で、この3ヶ月で経験したことを綴れば、一冊の本が書けるほどです。それは、老後の楽しみにして、ここでは、今回の留学について、綴りたいと思います。

 今回の留学は、この春の2ヶ月余りのロングスティで学校などを見学し、決めてきました。
日本に帰ってから、オーストラリア留学センターとメールのやりとりをしながら、ようやく、留学の手続きをほぼ終わり、8月31日に日本を立ちました。
 
 この留学では、西オーストラリア州立職業専門学校の語学とフォトグラフィーのコースを三年間程勉強する予定です。フォトグラフィーは二年間でディプロマの資格がとれ、写真関係の仕事は何でもできることとなります。
 学校はシティの街中近くにあり、とても便利で,設備もとてもすばらしく、気に入っています。若い人たちと勉強することとなりますので、不安もありますが、とても楽しみにしております。
家族三人ともども、このパースで暮らすこととなりますので、その点は心強いところです。

 今回の留学を決めたのは、何よりも,この地の人たちがとてもフレンドリーであること、自然が豊かである
こと、そしてこの街が、とても美しく,暮らしやすく、気候がよいことが、後押ししてくれたからです。


 
 8月31日、飛行機の中から、翼の下に広がる雲海を眺める気持ちは、今までの二度の旅で感じた気持ちと少し異なっていました。今回は今までの短い滞在と違い、母国を離れ,異国で長く暮らすことになるからかも知れません。
 寂しい思いと、新たな夢に向かった旅立ちのため、期待を胸に膨らました楽しい気持ちが混ざり、複雑なものでした。



 古の旅人たちが新天地へ旅立ち、荒波の大海で感じた気持ちは、計り知れない程の不安が会ったでしょう。私の感じた気持ちも、大きさは違っても、似た気持ちだったからでしょうか。

 古の旅人たちが、夢を追って大海に船出したように、私も、留学という夢に向かって,大海原に旅立つこととなりました。夢を追ってと言う意味では、大きさは違っても同じ「夢追人」ではないかと、翼の向こうを見ながら思ったものです。
 また、五木寛之氏の小説「青年は荒野をめざす」を持って、大学生活に出発した時の心境も、この時思い出したものです。
 このあたりの心境を綴ったページを、モー吉のホームページ「達真館」の「あの日を旅する」でアップする予定にしています。




 今の私の年代からすると、「夢老人」というべきかも知れませんが、夢に向かって旅立った、今がその時と思っている今日この頃です。


 
 そして、9月1日到着したパースの空は、澄み切った青空が広がっていました。



 そして、今回訪れたパースの街には、今日もカモメが飛び交い、アートで陽気なオージーたちが、私たちを迎えてくれました。