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モー吉の悠悠パース留学絵日記

この日記では、パースでの留学生活での出来事を中心に、心象風景を交えて、写真とエッセイにより、絵日記風に綴っています。

Chrisがいない! Semester1 Graffit

2014-06-29 01:00:40 | エッセイ
 Chrisがいない!

 振り返ると、前期では本当にたくさんのことを学び、経験をすることができました。
特にこの前期では、私たちは七人ものteacherから教えを請うこととなりました。
その中で一番多くの時間をもったのがChrisです。

 彼は、我々の週4日の授業の2日を担当し、木曜日にはBasic Photo、金曜日にはHistory&ThoryとVisual Literacyを担当する、我々にとっては、一番重要なTeacherでした。


 彼は、我々にとってどんなTeacherだっただろうか。

 「彼は何時に来るだろうか。」
 最初の頃は、彼が時間通りに来ないので、我々はClassroomの廊下に座り込んで待ち、このように思っていたものでした。そして30分、一時間待つこともありました。しかし、それが何回も続き、そのうちには、彼の遅れに会わせて来る人も出てきました。
 
 このような前期での振る舞いのため、後期では、彼の担当を避ける人が出てきたのは、やむを得ないことでした。彼が時間にルーズであったのは、まぎれのない事実でしたから。
 その上、彼の言葉は早口でわかりづらいのは、わたしだけだっただろうか。また、ボードに書く英語は、小さくて、しかも乱雑なため読み取りづらいのも、皆が認めるところでした。





 彼は、我々にとって、このようなマイナス面だけだっただろうか。

 彼は、我々をよく外に連れ出し、撮影のExerciceを実践し、撮影の手ほどきをしてくれました。また、近くのギャラリーへ我々を何度も連れ出してくれたので、いろいろな写真をみることができました。
 Classroomの中でも、スクリーンで沢山の写真家とその写真を紹介することも多くありました。
 あるときは,日本の写真家アラーキーの過激な写真を紹介したことがあり、若い女性が驚きの声をあげたこともありました。アラーキーに限らず、いろいろなジャンルの様々な写真を我々は知ることとなり、それによって、我々は視野を大いに広げることが出来たのも事実です。









 また、我々自身のイメージの紹介のプレゼンでは、どんなイメージであっても、決して否定することはなく、あたたかいコメントをしてくれたものでした。
 そして、彼は、Classroomにコーヒー、サンドイッチを持ち込み、食べながら授業をすることも度々ありましたし、チョコレートを皆に配っていたこともありました。そのような振る舞いのため、皆はリラックスして授業を受けることができたのではないだろうか。







 このSemesterを終えて、私自身は、彼に対しては,マイナス面を含めても、好感をもっており、彼の人懐っこいその振る舞いは、捨てがたいキャラクターだと、今思っています。
 そして、このSemesterを通じて、一番親しみを感じたTeacherは彼でした。
 しかし、残念ですが、タイムテーブルなどの事情から、次のSemesterでは、私は彼を失うことになりました。それは、私にとって少し寂しいことでもあります。

 私は、今、彼が時間をもう少し守るTeacherであれば、もっと良いTeacherとして、皆から認められただろうと思うと同時に、もしそうなったら、彼は彼でなくなり、彼の捨てがたいキャラクターが果たして残るだろうかとも思っています。





We are one - Semester1 Graffiti

2014-06-27 23:00:27 | 今日を旅する
 We are one 6月26日

 今日は、Semester2(後期)のクラス編成の日だ。
 私が10時過ぎに指定された部屋に着くと、既にたくさんの人が集まっていました。クラスメートも10人前後集まっており、聞くところによると、7時頃に来た人もいたと言うことでした。早く来た順番にクラスが選べるためだということで、私は26番目でした。

 前期の私のクラスは20名いましたが、このクラス編成で何人かは、どうしても別のクラスにならざるを得ません。というのは、多くの生徒がアルバイトをしているため、後期の四クラスの時間割のタイムテーブルと、自分のアルバイトの日や時間とをマッチングさせる必要があるためです。
 私は、前期のインターナショナルの仲間と、数人のオージーと一緒になることができましたが、何人かとはクラスが別になることとなり、折角親しくなっていたため、残念でなりませんでした。別れることとなった若い仲間たちは、互いにハグして別れを惜しんでいました。
 私ももってきたカメラで、皆と記念写真を撮り、別れを惜しみました。






 すべての手続きを済ました後、私は我々インターナショナルの仲間の四人と共に近くのレストランへ赴き、ランチタイムをもちました。
 明日からは本当のホリデーに入るため、話が弾みました。
 私はビールを飲み気分をよくして、一時帰国では、彼らに日本の土産を買ってくることを約束して、皆と別れました。
 ほろ酔い気分でシティの街を散策し、時々訪れるロンドンコートのカフェに入り、一休みすることにしました。





 折しも、カフェの中はワールドカップの飾りでうまり、テレビではフランスとコスタリカの試合を報じていました。私はその試合を見ながら、今日で別れることとなったクラスの仲間のことや、前期のことに想いを巡らしていました。
 そして、私は、今日のクラス編成で別れることとなったクラスメートたち、これからも同じクラスで学ぶ友たち、Group Gの全員へ、写真とともに次のメッセージを送ることにしました。

" Dear G classmates
We are One.
6 month ago we gathered into Group G, and now we have become One.
In the future we will be One."

 振り返ると、前期では本当にたくさんのことを学び、経験をすることができました。
 特にこの前期では、私たちは七人のteacherから教えを請うこととなりました。その中で一番多くの時間をもったのがChrisです。( Next continue)





遊びの友 N君に捧ぐ 6月20日

2014-06-22 00:00:31 | 捧げる言葉
遊びの友 N君に捧ぐ 6月20日

 今、ここバースは冬の到来を感じる季節です。
 私の住むアパートメントの中庭には落ち葉が舞い降り、時折ストームの続く日々があります。夜は5℃前後に冷え込むこともあって、ホットカーペットは欠かせません。それでも、昼間は20℃前後まで上がり、天気の良い日は快適な気候です。




 今から一月程前の丁度落ち葉が舞い始めた頃、N君の突然の訃報が届きました。
 彼とはこの一月に帰国した折りに会っており、その時、彼は元気そうで、名古屋に集合してくれた他の友たちを含め四人で飲み、語り合い、楽しい時間を過ごしたものでした。連絡をくれた友の言葉によれば、彼はそれからひと月弱の二月に亡くなったとのことでした。
 
 今想うと,あの時既に死期を自覚していた彼は、我々に会うためにわざわざ東京から来たのだろうか。



 憶えば、私が彼を知ったのは、大学に入って間もない頃です。

 彼は大阪出身で、背が高いハンサムボーイでしたが、気取らないひょうひょうとした振る舞いと、ひと懐っこい笑い顔のためか、親しみを感じ、声を交えるようになりました。
 当時、彼はマンドリンクラブとバイトに明け暮れ、授業ではあまり顔を会わせることはありませんでした。
 当時の彼の逸話として覚えているのは、成人式に友たちと献血に出かけた際、彼はアルコールが検出されたため、献血を拒否されたことです。みんなでそれを話題に大笑いした記憶があります。それは彼の当時のの生活の有様をしる逸話として鮮明に記憶されています。



 その後専門コースに入った折り、彼は私と同じ民事訴訟法のゼミに入ってきました。
そのゼミは司法試験を目指す仲間が多いところでしたので、マンドリンクラブとバイトに明け暮れていた彼が入ってきたのには、少し驚きました。
 そのゼミでは、私は彼とペァーを組んで研究テーマに取り組むこととなり、彼とは一層親しくなることとなりました。彼は最小の努力で最大の結果を得ようとする要領の良いところがあり、私と正反対の研究態度でしたので、その点では見習うべきところも多く、彼の影響で楽をしたところもあり、楽しい研究仲間でした。
 当時、我々の仲間で、ガールフレンドがいたのは彼だけでした。その点、青春を一番謳歌したのは彼ではなかっただろうかと思っています。
そのガールフレンドと彼との逸話は、彼から後々話を聞いたり、相談を受けたりしたこともありました。彼にとっては、その頃が一番楽しくもあっただろうし、人生の中での一番の思い出ではなかっただろうか。

 彼との付き合いは社会人になってからも続き、むしろだんだんと多くなりました。彼は東京の半官半民の公庫に就職し、最初は前橋支店の配属となり、私は地元の役所に務めることとなりました。
 彼が前橋支店にいる頃、この一月に集まった友たちと、彼の宿舎を起点に尾瀬を旅したのは楽しい思い出です。
 彼は生粋の都会人でタバコと喫茶店がないと生きていけない人間で、尾瀬沼に入っても、喫茶店がないかと、探すような変人気質の持ち主でした。


 その後も、その仲間たちと伊豆七島の式根島を旅したのも楽しい思い出です。
 私は,その他にも、彼の計らいで、伊豆七島の三宅島、下田と楽しい旅をしています。
 私も彼を渥美半島でのキャンプに誘ったことがあり、その際には、私の実家に彼を泊めたこともありました。私の亡き母を知る数少ない親友でした。

 そして、その他にも彼には感謝しなければならないことがいくつかあります。
 それは、私が名古屋の役所勤めということで、しばしば東京の霞ヶ関へ出張の機会があり、その度に公庫の本店勤めとなっていた彼が,東京を案内してくれたことです。
 公庫の給与は高く、また彼は独身貴族ということで、私を赤坂の料亭や、当時有名であった料理人道場三郎の店などの高級料理店を案内してくれました。薄給の公務員では行けないようなところばかりでした。
 また、仙台支店にいた折りには、たまたま私が仙台市役所へ出張の機会があり、その時には、仙台の夜のネオン街を案内してくれました。
 そして、最近では、私が退職して間もない頃、私の写真がサライ風景写真大賞に入選し、東京で展示会が開催された折り、彼は喜んで飛んで来てくれました。
 振り返ると彼との思い出はたくさんあり、ここに印したのは、その一旦にすぎないものです。
 
 そう言えば、美食家の彼は50歳の頃、大腸がんを煩い手術したことがあり、その時は早期発見であったため、その後も元気に暮らしていたようでした。
 そして、正真正銘の独身貴族を貫いた彼は、彼の人生プランの下、55歳にして早期退職し、悠々自適の暮らしを続けていました。そして、数年前母親を亡くし、彼女を比叡山に永代供養をお願いし、安心したと言って、その帰りに名古屋によったことがありました。
 その折りには、私は、友たちを名古屋に呼んで、みんなで彼を慰めたことがありました。
その時、彼は、嫁いでいるお姉さんを除けば、正に天涯孤独の身になったのでした。


 彼の人生はどうであったのだろうか。
 私はその一端を知る一人ではありますが、彼が死ぬ間際に感じた念いは、どんなものだったのか、当然知る由もありません。なぜなら彼はいつも、私たちに人懐っこい笑い顔を見せていたからです。この一月に会った折りにも同じ振る舞いでした。


 私は、そんなことに想いを巡らしながら、翌日シティの街を散策していました。
 街中には、人々に混じって、かもめたちも、いつものよう楽しげに飛び回っていました。私はあのかもめたちの中に、彼がガールフレンドであったあの彼女とともに楽しげに飛び回っているような気がしてなりませんでした。
 正真正銘の都会人であった彼は、この街でも、あの尾瀬での時と同じように、喫茶店を探しまわっているのだろうかと、ふと思い、思わず笑みがこぼれてしまいました。
 そして、カフェテラスでコーヒーを飲みながら想いを巡らしていると、一羽のかもめが私のテーブルの近くに舞い降りてきました。

 私は思わず、「よう、N! コーヒーでも一緒に飲もうか!」と、心の中で声をかけていました。






紹介 写真家 入江泰吉 Semester1(前期)の終了

2014-06-19 03:00:02 | 今日を旅する
紹介 写真家 入江泰吉   6月17日 Semester1(前期)の終了

 前期の授業が先週で終わり、今ほっとしているところです。
 前期は7月4日まで組まれていますが、Assessment(課題)の提出が先週ですべて終わったため、学校へ行かなくてもよくなったからです。私もほとんど完了し、一部の写真データをメールで送るだけになり、後は6 月26日に、Semester2へ向けてのクラス編成の説明会のため学校へ行くだけです。
 それにしても、Assessmentには四苦八苦しました。その甲斐あってすべてクリアーすることができました。
 振り返り数えてみると、22の課題があり、さらに一つの課題の中にも複数のものもあるため、さらに沢山の課題をやらなければなりません。それは写真家のリサーチであったり、自分のイメージの提出であったり様々ですが、皆の前でのプレゼンテーションが多く、他の若い生徒たちのイメージも沢山みることができ、彼らの感性を知る良い機会となり、勉強にもなり楽しみも多いものでした。
 私はその課題の一つで、" Japanese Religion or Japanese Mind"と題するTopicでプレゼンテーションをしたものがありました。
 それは私が若い頃好きだった写真家「入江泰吉」と彼のテーマとしていた「大和路」とその写真を紹介し、日本の原風景とJapanese Religion or Japanese Mindについて説明し、自分のイメージを紹介する内容でした。それは次のとおりでした。

1 私の選択した主題と写真家
 主 題 宗教と日本の心 
 写真家 入江泰吉 1905~1992
 経 歴
 彼は特に大和路(歴史的な奈良地域)や仏像の写真に全力を注いだ写真家でした。
 入江は、1905年奈良で生まれました。
  彼は、兄の影響で、10代で写真を始めました。 
 そして、1925年、大阪の写真店で働き始めました。その後、 大阪で、彼自身の会社光
 芸社を立ち上げました。その社は、写真用品を売るとともに、製品づくりと広告写真
 を制作していました。
 1939年に、彼は、文楽の写真を撮り始め、1942年には、大阪で、文楽人形についての
 最初の個展を開きました。
 大阪の自宅が、1945年に、空襲により、消失しました。そのため、彼は奈良の実家に
 逃れることになりました。
    彼の仏像の写真が、1940年代始めに出版されました。 そして、1958年にはこれらの
 一連の写真集を出すことになり、それによって成功を収めることになりました。
    1992年に亡くなった後、その年に、その大きな功績により、彼の作品を奉納するため
 の写真館、奈良市写真美術館が、設立されました。  
     
2 作品の対象とコンセプト、感性
    対象
       大和路、仏教
       仏像,文楽
       大和路は日本の最も古い都の風景を言います。
   感性
  それは、日本の原風景と日本の心を感じる情緒を持っていました。 
  彼は、詩的で、神々しい風景、彫像そして肖像として、それらのイメージを撮ること
  を探求してきました。
  また、彼はいつも、風景写真を、静かな感傷とともに描写しました。それは、雨、雪、
  霧、雲などを効果的に使っていました。
       そのため、彼の一番の友であった杉本健吉によって、彼は、ウエット入江と呼ばれ
  ていました。

3   大和はどこか?


 
  大和 (現在の奈良) 
         
  “大和は大いなる平和、調和を意味しています。”
             大和時代         AC  300-600
             飛鳥時代         AC 600-709
             奈良時代         AC 710-719
  “和は、日本の古代の17条憲法に由来しています。609年制定の憲法."
  “一に曰く、和を以て尊しと為す”

4 彼のイメージ







5   日本の宗教、日本の心は何に由来しているか?
     彼のイメージは、神々しい美を示しています。
     私は、それは、日本の原風景であり、日本の心そのものであると思っています。
  それは、風景、仏像、や文楽などに宿っている真の魂、神性を有しているように思わ
  れます。
     すなわち、それらのシーンや姿は、日本の原風景、日本の心を象徴しています。
     なぜなら、日本人は、生きとし生けるものすべてのものに対して、たとえ、それが風景
  や、仏像、人形であったとしても、深く敬ってきました。
  それが、日本の宗教、心の態様の中に根づいている理由です。

6   私のイメージ - 伊勢






     結論
  日本人は、いにしえより、自然や、すべての生き物に尊敬の念を抱いてきました。
       それが、すべてのものに神が宿ると信じてきた理由です。
    簡潔に言えば、それは, 和を意味し、和は、すべての存在と自然との調和、融和を意
  味して います。
       日本人は、いつも、 “もったいない”“ありがたい" “いただきます” “神がかり” 
  “神隠し”と言います。
      私は、それらの言葉は、日本の宗教、日本の心そのものを、表現したものであると思
  っています。
      それで、私自身も、そのような神々しい美しさを表現したいと思っています。
  





 私はこのプレゼンテーションによって、仲間たちに少しはJapanese mind の一端がわかってもらったのではないかと、その時確信しました。
それは、彼らから“もったいない” “ありがたい” “いただきます” “神がかり” “神隠し”といった言葉が発せられたからです。
 それで、私は“いただきます”の言葉の意味が、生き物たちの命を食することに対しての感謝の気持ちを、表した言葉であることを説明すると、彼らは一層、Japanese mindの理解を深めてくれたようでした。