あの万葉集に詠まれた地で、子供達の願いをのせた凧は、天まで届いただろうか、と想いをめぐらしている頃、自然の営みは、いつも通り進み、その地の桜もようやく、蕾を開きつつあった。
そういえば、あの万葉集に詠まれた歌の碑が、この地の古い神社にあることを思い出し、私は久しぶりにその地の遺跡を巡ることにした。
その碑は、その地に古くからある八幡神社の境内に建てられている。それは万葉集の歌に詠まれた桜田の名から、人々はその地を愛でて、現在、そこは桜田勝景と呼ばれ、そこに記念碑が建てられている。
また、その周辺には、その万葉の時代をさらに遡ること、古墳、弥生、縄文そして旧石器といった時代の遺物や遺跡が残っている。それは、貝塚、竪穴住居の発掘であったり、旧石器や弥生時代の石器、古墳時代前の銅鐸などと様々である。現在、それらの発掘作業の記録と遺物は、そこに建てられた見晴台考古資料館の中に、展示されている。以前にも、観たことがあったが、それをまた、観たいと赴いたが、あいにくこのコロナクライシスのため、休館となっていた。
しかし、その辺りの丘陵地の雑木林には、住居の跡と思しき濠の跡を見ることができる。
その様な遺跡が物語る様に、その昔、この地は、古代の人々が暮らすのに適した地として、また、桜の咲く田畑が連なる美しい地として、古代人に愛された地であったことが想像される。
そして、私は、さくらが、なぜ古代から、日本人に愛されてきたかを知る機会を持つことができた。それは、ある本によれば、サクラはサとクラからなる古代語であり、サは穀物の精霊を指す古代語であり、クラはその精霊が依りつき鎮まるところを意味する、従って、サクラは田の神さまの降臨を表す意であると。そして、その頃のサクラは、日本各地の野山に自生し、春を告げた山桜で、古人は作物は神さまからの授かり物とみなし、山々を彩るこの花に豊作を祈り、また、花の咲き具合で、一年の稲の実りを占ったとのことです。
そして、その様な意味を持つ桜と田であったからこそ、万葉の時代に歌に詠まれたことに始まり、今もなお、この地の地名として、例えば、桜、桜台、桜本、元桜田と言った地名として、刻印されてきた。
そのため、現在、この地にも、あちこちに桜が植えられ、道路には、桜並木の歩道を見ることができる。そして、今まさに、あの子供達の桜の蕾が開こうとしていた。
しかし、その一方、子供たちの凧にのせたその願いとは裏腹に、今広がりつつあったコロナパンデミックの風は、すでには世界に広がりつつあったが、そして、ついには、日本各地へも広がっていった。
WHOが遅ればせながら、3月11日にパンデミックを宣言したときには、すでにコロナの風は、世界中(110カ国)に吹き荒れていた。
そんな世の中の状況ではあったが、自然の営みは、何事もないかの様に、訪れつつあった。
この日本では、毎年やってくる、桜前線と呼ばれている桜の開花の波が、名古屋にもやってきていた。私が、それを七年ぶりに見ることができたのは、奇しくも、このコロナウィルスによるパンデミックのため、日本に足止めをされたお陰でもあった。
この桜の開花の波を、この桜田勝景の地、そして、また、その地に1300年ほど前に創建された笠寺の古寺でも見ることになった。
また、三月の初め、外出自粛の折ではあったが、メガネの修理のため、名古屋一番の繁華街栄へ行った時にも、それを見ることができた。
しかし、今年は、街中の歩道を歩く人々は、以前とは違い、まばらであり、とりわけ、ほとんどの人はマスクをしており、普通なら心弾む春先ではあるが、彼らの表情はいつになく、沈んでいた。
そんな人間社会の雰囲気とは裏腹に、街路樹として植えられている早咲きの桜が、すでにかわいい花をつけ、私たち人間に、命の息吹を囁きかけてきていた。
そして、その後、その桜の息吹の波は、着実に広がり、大きくなっていった。
しかし、その時、町中で目にした、ゴミをついばむカラスの姿に、私は不吉な予感を感じていた。
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