モー吉の悠悠パース留学絵日記

この日記では、パースでの留学生活での出来事を中心に、心象風景を交えて、写真とエッセイにより、絵日記風に綴っています。

パンデミックの予兆 - 海を越えて

2020-05-03 21:50:20 | 今日を旅する
 今年も、確定申告のため、1月21日、日本へ旅立った。
 折しも、オストラリアは、去年から全土に広がったプッシュファイアーがようやく収まりつつあった時期であったが、飛行機の翼の下に広がった大地の上空には、まだ、ファイアーの煙の残骸と思しき黒っぽい雲が覆っていた。それは、いつも目にする、どこまでも澄み渡った大気を通して見える、あの赤い大地ではなかった。その印象的な情景をカメラに収めたかったが、あいにく、カメラをスーツケースに入れてあったので、そのイメージを記録することができなかった。それで、そのイメージを脳裏に焼き付け、いつの日か、絵にしようとスケッチをすることにした。
 それは、不吉な未来を暗示しているのだろうかと、ふと不安がよぎった。それは、いつもフライトのたびに感じる不安感、それは、大地に暮らす人類が、大地を離れるとき感じる共通の不安感であるが、それとは少し違っていた。それは、すでにその時、中国に広がりつつあったコロナウィルスの猛威を知っていたからかもしれない。そういえば、フライトの前日、妻が、それを心配してか、医療用マスクを一箱買い揃え、私に持参していく様にあてがってくれていました。

                              






 乗り継ぎのため、シンガポールのチャング空港で、いつも通り待ち時間を過ごしていたが、いつもに比べると、人の数が少ない様に感じられたが、相変わらず、中国人が多く、まだ、人の往来が禁止されていないことを物語っていた。
 私は、マスクを着用していたが、彼らのほとんどがマスクをしていない状況だった。チャング空港は世界一のハブ空港で、そこから世界のほとんどの国へ行くことができる空港だ。それで、その時、その後に世界各国へコロナが伝播した発端を見た様な気がした。
 そして、翌朝、中部国際空港に着くと、いつもより、少し少なめではあったが、相変わらず、中国人観光客が沢山たむろっていた。中国武漢から脱出してきた人たちであるかもしれないと思うと、その時、少し心配になっていました。後々、そういった人々から、日本の各地へコロナが伝播していった事実を、その後知ることになりました。







 久しぶりに、名古屋の自宅に着くと、庭には、水仙と寒椿の花が咲いており、主人のいないこの場所にも、毎年、命の花を咲かして待ってくれていて、旅の疲れを癒してくれることに感謝しました。。
 今年の名古屋は暖冬で、一度も雪が降っていないといっていた、タクシードライバーの言葉通り、到着の日以後も大変暖かい日が続きました。それで、まず、家の掃除や、車の点検などを済ませることにしました。
 その後は、年金の手続きなどの用事をまず済まし、郵便物の転送先になっている税理士事務所へ赴き、郵便物を受け取り、近況報告などをしました。いつも、彼とは、積もる話で、楽しい時間を持つことができ、また、彼の話から、日本の、また、名古屋の状況を知ることができ、助かったてます。
 また、今年は、姉が、腰の手術をするということで、名古屋の市大病院へ豊田から連日検査通院しており、私の家から近いため、その都度付き添うことになりました。その後、入院し、股関節を人工骨に変える手術をすることとなりました。そして、手術は成功し、手術後ほぼひと月ほどの入院生活をしていました。
 その一方で、その間に、心配していたコロナウィルスが世界中で徐々に広がり始めていました。
 日本では、最初は、2月はじめに、横浜港に入港したクルーズ船ダイヤモンドプリンセス号内での感染でしたが、その後に続いて、徐々に国内での感染が広がり始めました。国内での最初は、北海道でした。それは、おそらく、二月始めの札幌雪まつりにおとづれた、たくさんの中国人観光客から持ち込まれたウィルスに由来するものだと、確信しました。それは、私が、シンガポールのチャング空港で感じた不安があったからです。その当時、まだ、中国からの渡航禁止をシンガポールも日本もしていなかったからです。唯一していたのは、台湾ぐらいでした。北海道での感染拡大に対して、北海道鈴木知事は、勇敢にも、国とは独自に緊急事態宣言を発し、拡大の阻止に対処しました。彼のこの英断は、海外でも大いに賞賛されました。その後、その措置により、北海道での感染の第一波は食い止められることにつながりました。その後、次々と、感染の波が、大阪、名古屋を始め、その後東京へも直撃することとなりました。




 それにつれて、各地で、外出自粛要請や休校の措置が取られることになりました。私が暮らす名古屋においても、二つのクラスター(集団感染)が発生し、全国でも2番か3番目のたくさんの感染者が発生することになりました。私がよく行くイオンのショッピングモールでも一人の感染者が出たため、それまで混んでいた駐車場が大変空いた状態になっていました。



 それで、私も、安心な場所を選んで、食料品の購入などを済ます様になりました。例えば、それは、昔から地元の人が利用している食料日用品店や、古くからある笠寺と言われる由緒ある寺の境内で毎月の六の日に開かれる青空市場です。特にその市場は、各地からやってきて、テントの店を開いているいろいろな人や店があり、楽しい雰囲気のため、毎回通う様になりました。









 そんな状況であったため、あまり外出しない様にしていましたが、市役所時代の友人で、写真を趣味とし、クラッシックカメラの収集家でもあるKくんからの誘いで、名古屋駅のカフェで互いに写真集を持ち寄り、写真談義をすることになりました。
 彼は、写真を題材に本のデザインと制作を計画しており、私も、留学生活の記録を綴ったブログの記事をまとめた本の制作を計画をしていたため、大いに話が弾みました。私が写真学校の卒業に際して制作印刷した写真集について、その苦労話を披露することになりました。
 そのカフェは、近年の駅前再開発で新築されたビルの中にあり、駅周辺や遠くまで見渡せるベランダを併設しており、そこから遠くに名古屋のシンボル名古屋城を見ることができます。









 彼との楽しい時間を過ごした数日後、毎回帰国の折には集まって、旧交を温めている市役所仲間とも、名古屋駅のいつも利用している居酒屋に集まり、お互いの近況を報告し合い、楽しい時間過ごすことができました。
 今回の帰国では、まだ、本格的に日本に戻る予定ではなく、三月にオーストラリアへ戻る予定でした。そこで、いざ戻るために、飛行機を予約しようと、シンガポール空港の予約サイトを開くと、すでに予約がクローズになっており、すでに予約済みのチケットも六月以降に変更されることになっていました。全日空のパースと成田の直行便も減便されていました。まだ、この時には、出入国禁止にはなっていませんでしたが、オーストラリアでは入国できたとしても、二週間の自宅隔離という措置がなされていました。その後、しばらくして、出入国禁止の鎖国状態になりました。日本も、徐々に出入国の管理が厳しくなり、ついには、オーストラリアと同様に、鎖国状態になりました。オーストラリアの状況については、娘や妻からもメールで知ることとなり、また、日本領事館からも同様の内容のメールが届いていました。
 オーストラリアは日本ほどの感染状況ではなかったにも関わらず、早くから出入国の管理を厳しくしていました。オーストラリアは、昔から、固有種の生物保護のため、国内への生物の持ち込みには、厳しく管理をしてきた歴史があり、その様な姿勢からか、今回のコロナウィルスに関しても、特に厳しく対処していました。また、それは、去年から続いていた森林火災のクライシスを体験していたため、続いて起こりつつあったコロナクライシスに対しても敏感に反応し、対処できたのではと、思いました。
 そして、その時点で、学校では、すでにオンライン授業になっており、妻の英語学校も同様の様でした。スーパーでは、みんなが買い漁るため、すぐに紙類がなくなるようになり、手に入れるのに、妻たちは大変苦労している様でした。
 この様な状況下なので、日本での滞在が長期(六ヶ月ほど)に渡ることが予想されたため、腰を据えて、名古屋での単身生活を送る覚悟を決め、その準備に取り掛かりました。
 まずはじめに、歯医者に通っていたため、医療費のことも考え、また、コロナはもちろん、その他の病気のことも考え、留学を終え、完全に日本へ戻ってからと考えていた住民登録を、早々に済ませ、国民健康保険に加入する手続きも済ませました。そして、交通費が無料になる敬老パス取得の手続きも済ませました。それに関連した一連の手続きをすませると、少し安心しました。
 そして、今まで、一時帰国の折には、毎回簡単に済ましていた日常生活についても、少し、改善することにしました。それは、具体的には、例えば、食生活においては、自炊を中心にし、ご飯を炊飯器で炊き、料理もできるだけ作る様にし、シャワーで済ましていた風呂も、、湯船に入る様にしました。そして、気になっていた障子や網戸の損傷したところを、業者にたのみ、修繕してもらいました。また、留学をはじめてから七年余り、整頓していなかった自室の整頓に取り掛かり、勉強しやすい環境を整えることにしました。
 そんな日常生活の改善とともに、外出自粛で運動不足になることのない様に、毎朝の体操とともに、カメラを持って、近所によく散歩に出かける様になりました。








 それは、私が住んでいる近くには、由緒ある笠寺観音を始め、弥生時代の遺跡を再現している見晴台考古資料館とその周辺を取り巻く笠寺公園という散策に適した大きな公園があるからでした。
 そして、この近辺は、万葉集の時代には、古代の笠寺台地の縁にあたり、その東方には、万葉集の歌に読まれている年魚市潟(あゆちがた)を見下ろすことができる場所でした。古代には、年魚市潟を望むことができたその場所は、今は、笠寺公園の縁にあたり、年魚市潟の代わって、家並みやビル群を見下ろすことができます。




 キンモクセイや雪柳の花とともに、早咲きの桜が咲き始めた三月の初め、笠寺の六の市で野菜や果物を買い求めた、その後、その笠寺公園へ写真を撮りに行きました。
 折しも、コロナによる外出自粛、学校の休校の時期とあって、子供達が、家族とともに、また、友達と一緒に、その公園に遊びに来ていました。その広々とした見晴らしのいい台地の縁に立つと、心が開かれ、ストレスが発散される様です。
 それは、はるか万葉の時代、古代の民が、その同じ大地の縁に立ち、年魚市潟を眺めたときに感じた、驚きと感動で、その心が伸びやかに解き放たれ、歌を読み上げた時と、同じ様な心の高揚を感じることができる証かもしれません。
 また、そこには、この地で百歳まで生きたあの金さん銀さん姉妹の名を持つ桜の木が植えられており、その碑が建てられています。










 そこでは、今、子供達は、風に乗せて、空高く凧をあげるのに熱中していました。彼らの願いを込めた凧は、なかなか風に乗ることができずに悪戦苦闘している様でした。それでも、彼らは凧につながる糸を必死になって引っ張っていました。彼らの願いを込めた凧が天高く登る様に。





 その姿は、現在ある我々の状況、日本の状況、そして、世界のこのコロナウィルスのクライシスの状況を映し出している様でした。
 それで、その時、私は、その情景を写真に収めながら、彼らの凧が天高く揚がっていく様に、思わず応援していました。
 そして、これから開花するであろう子供達の桜が、金さん銀さん桜の様に、長生きできる様にと。




















コアラの叫び オーストラリア火災

2020-01-14 02:32:55 | 今日を旅する
コアラの叫び オーストラリア火災
 
 先日、Cityの街に行ったら、ここパースでは珍しい大規模な集会が行われていました。
 それは、今、オーストラリア全土に広がっているBush fires、山火事の危機を憂えて集まった人たちの集会でした。
 ショッピイングモルの一つである、歩行者天国になっている、マーレストリートが、人で埋め尽くされていました。
 私は、その場所で、よく写真撮影をしていますが、このようなことは、初めてです。






 昨年の末に広がった火災は、未だ衰える気配は見せていません。
 Bush firesは、オーストラリアでは、夏のシズンに限らず、乾燥が続くといつでも、発生しています。しかし、今回の規模は、過去最大で、ストラリア全土で発生しており、ここパースの近辺でも発生しています。それは、例年になくひどく、街が煙で霞むことも何回かありました。
 特に、大陸の東側の位置するNSW地方と南のビクトリア地方が深刻です。NSW地方の大都市シドニーは、その影響をもろに受け、その煙で、視界不良の日が何度かありました。ビクトリア地方のメルボルンでも同じような事態を招いています。




 この火災の鎮火には、どれぐらいかかるかも、検討が立たないようで、その沈静化のめどは、未だ立っていません。
 被害は、深刻で、火災により焼失した面積は、以前あったアマゾンの規模を上回っています。それにもまして、動物たちへ及ぼしたダメジは、さらに深刻になっています。何億もの生命が奪われています。その中には、コアラ、カンガルも含まれており、逃げ足の遅いコアラの被害は、深刻です。大げさではなく、絶滅の危機さえ懸念されています。この火災によって、固有種の多く生息するオストラリアの生態系そのものが危機に直面しており、事態は、深刻な状況を呈してきています。
 コアラに関していえば、12月に流れたニュスは衝撃的なものでした。
一人の女性が、激しくもえる森に近づくと、動物の叫び声が森に響き渡っており、そこに近づくと、木にしがみついているコアラを発見しました。コアラはおとなしい動物で、ほとんど声を出すことはありません。彼女は、そのコアラを救出し、毛布にくるんで連れ帰りました。それで、彼は、安心したものか、一時、少し落ち着いた模様でしたが、火傷がひどく、苦しみだしたので、最後には、安楽死させることになりました。そのコアラの叫び声と、その火災の映像が、ニュスで流れ、人々は、その火災の酷さを知ることになりました。






 このように火災が拡がった原因は何なのかと、いろいろ取りざたされていますが、Climate Changeが大きな原因ではないかと言われています。
 気温の上昇は、ここパースでも実感しています。今まで、12月に40℃を超えることは、ほとんどありませんでしたが、去年の12月にはすでに何度かありました。
 ここオーストラリアでは、自然発火による山火事は、毎年起きてきました。それに拍車をかけたのが、気温上昇ではないかと取りざたされています。
 コアラの主食であるユカリの葉は、テルペルという物質を含んでおり、それは大変引火性の高い物質で、気温の上昇によって、放出されたテルペルが自然発火して火災を招いたのではないかと推測されています。過去にもそう言われていたこともあったそうです。
 さらにカリの木はカリ油と言われる油を大量に含んでいるため、火災に拍車をかけることになります。
 何れにしても、カリの木は、この大陸には、昔からあるわけですから、やはり、一番の原因は、気温の上昇ではないだろうかと、思っています。





 集会には、先住民アボリジニの姿も多く見かけました。
 アボリジニの集会にはいつも見かける哲学者のごとき風貌をした翁の姿もありました。
一人のアボリジニが、"我々の自然を壊したのは、誰だ。"と。彼らの暮らしていた土地に、後で植民してきた白人を、暗に糾弾していました。




 彼らは、"この大地は、みんなでShareしているのだ。"との世界観を持っています。これは、以前に、ブログにも書いたように、日本人の、自然も含めて、すべての生きとし生けるものは共存して生きていくべきだ、との世界観にもあい通じるものがあります。
 Shareとは、日本語で言えば、すべてのものがが融和、調和して生きることを意味しており、それは、まさに和を重んじる世界観そのものです。

 今回の集会には、普段陽気なオーも、さすがにこのCrisisを強く感じているようで、たくさんの人が、それぞれのプラカドを掲げて参加していました。









https://www.bbc.com/japanese/video-50969978


もしかして  A dog's journey

2020-01-10 03:00:27 | 今日を旅する
もしかして A dog's journey

 先日、いつも行く近くの公園で体操をしていた時のことです。
 私の近くで、オージーの男の人が、一匹の犬を連れてベンチに座っていました。携帯を操作している彼の傍らで、一匹の犬が動き回っていました。

 その時、その犬が、私に気がついて、猛然と私の方へ駆け出しました。私は、だんだんと近づいてくる犬に、少し恐怖感を感じていました。
 しかし、その犬の様子は、私のそばまでくると尻尾を振って、後ろ足で立ち、前足で私の体に抱きついてくるような仕草で、明らかに親愛の情を表していました。ついには、私の体を舐めてくるような仕草を始めました。
 私は、犬を嫌いではなく、むしろ好きですが、その犬は、ブルドックですごい形相をしていたので、私は、逃げ回りましたが、一向に離れる気配はありませんでした。、
 そこで、私は、大声で、その主人に声をかけました。彼は、その声に気づき、大声で犬を呼び寄せました。一旦、犬は、主人の元に戻りましたので、私は、安心して、体操を再開しました。しかし、すぐさまその犬が、また私の方へ猛然と駆け寄って来ました。そして、前と同じような振る舞いでしたので、また私は、犬の主人に声をかけました。
 それが二回、三回と続きましたので、私は、やむなく、体操をやめ、アパートメントに帰ることにしました。
 帰りすがら、私は、その犬の振る舞いを不思議に思いつつ、初めは、単に私の犬好きを察ししての振る舞いなのかと思いましたが、歩いているうちに、ふと別の考えが、頭によぎって来ました。

 もしかして、あの犬は---





 数日前、妻の誘いで、久しぶりにDVDを見ることにしました。
 その映画は、"A dog's journey"という題でした。

 そのストリーは、一人の少女Gと一匹の犬Bの、度重なる出会いと、心温まる交流を綴った、長い長い物語でした。少女はシングルマザーと一緒に、祖父の家で暮らしており、その祖父が飼っていた犬がBでした。
 祖父は、彼女の不幸な境遇を考えて、彼の愛犬に、いつも、そして、いつまでも、Gを守っていきなさいと、マインドコントロールするように伝えていました。
 忠実な犬Bは、三度の転生をえながら、姿かたちが変わっても、その度に、彼女を見つけ出し、守っていきました。
 そして、祖父の教えの通り、彼女を守るという約束を、三回の転生を経ながらも、やり遂げたBは、最後には、亡くなった主人の墓に安らかに眠ることになりました。そして、彼の転生の長いJourneyは、ようやく幕を閉じたのでした。

 この映画は、人間の命の長さと、犬のそれとが違うところを、うまく使い、命の短い犬が、転生を繰り返すことによって、一人の人間の命に寄り添いながら、その使命を達成するという、心温まる物語となっています。

 この映画を見ながら、妻とともに、目頭を熱くし、思わず涙ぐむこととなりました。
 このストリーは、ありえない話ではありますが、私は、一方では、このような物語は、きっとあり得るような気がするとともに、そうあってほしいとも、、その時思っていました。そして、今では、その気持ちは、さらに強くなり、確信へと変わって来ました。
 
 振り返ると、私も、幼少期から犬と親しんで来ました。




 五人兄弟の末っ子であった私は、当時、自分に従い、、ともに遊び合うことのできる下の子の存在を望んでいたかもしれません。一番上の兄は、10歳も歳が離れていたということもあったからかもしれません。
 そんなことを考えてか、親父が、私に子犬をあてがってくれました。




 その犬は、ゴンという名で、雑種の秋田犬だったように記憶しています。彼は、私によくなつき、いつも一緒に遊んでいました。





 当時は、まだ、家の周りには、田畑が広がり、自然が残っていましたので、その自然に包まれて、ゴンと一緒の楽しい時間を過ごしていました。



 そして、当初の遊び相手としての存在から、、成長するにつれて、わたしを守るガード犬のような存在になり、わたしを守ってくれたことが何度かありました。
 彼は、周りの人たちからも、ヒーロー犬のように扱われており、彼が人に噛みつき、危害を加えても、彼を責め立てる声はいつもなく、噛み付かれた人が批判を受けていました。彼の機嫌を損ねるような振る舞いがあったからだと。

 彼も、寄る年波には勝てず、また、折しも始まった車社会の到来によるアクシデントに見舞われることとなりました。
 わたしは、道路脇に横たわる年老いた彼の体を、窓越しに眺め、涙していた記憶があります。



 そして、今、わたしは、あの時、公園で何度となく、必死にわたしを追いかけ回ったあの犬は、
もしかして、あのゴンの生まれ変わりでなかっただろうかとの、考えがよぎりました。

 ゴンに与えた親父のメッセージ、使命がなんであったのか。
 あの映画の中の祖父がBに伝えたメッセージと同じようなものであったのかと、思いをめぐらしていました。
 そして、公園の犬が、ゴンの転生した姿であったとしたら、彼は、自分の使命を、まだ成し遂げてはいないから、この世に再び現れ、探し求めて来たわたしを見つけて、あのような振る舞いをしていたのか、と思ってもいました。
 それで、今度、公園で会った時には、彼を抱きしめてやろうと、今思っています。



 そして、"もしかして---"という思うに至ったのは、以前に"写真の友K君に捧げる"や、"亡き母に捧げる"などの記事で書いたような、カモメの不思議な行動にも、何回か遭遇していたからです。


 



君の名は

2019-12-21 03:09:26 | 今日を旅する
君の名は
 
 先日、Cityのショツピンクモールを歩いていると、そこに、あの時の彼女がいました。

 私が、彼女に最初に出逢ったのは、4年ほど前の四月でした。
 その日も、彼女は同じストリートにいました。

 その年、私は写真勉強の最後の年を迎え、卒業作品の制作を始めることとなりました。
 その一つで、最大のものが、フォトブックの制作でした。
 それは、一年をかけてのフォトブックづくりで、息の長い根気のいる作業となります。そのコンセプトづくりとストリーラインの構想を、まずたてなければいけませんが、私は、それを三月に、おぼろげながら決めていました。

 それは、簡潔に言えば、この街に生きる人たちの"After dream Before 夢のあとさき"です。それは、それらの痕迹を、光りと影の交錯、光と暗闇の交響曲として描いた、人々と街の織りなす叙事詩を、落書き風に作り上げるものでした。

 そのための題材となる写真撮影をスタートしたのが、その日でした。
 その日、彼女は、ギターを抱え、そのストリートで歌っていました。

 その日のことについて、私は、"あとがき"の中で次のように記しました。
  "バースでの撮影は、4月5日から始まった。
  その日も、ストリートは日射しが強く,街には光が充満していた。
  人々は、その中を楽しそうに行き来していた。
  その中を私は一人孤独に歩いていた。
  その時、大きなギターを抱えて、一心に歌っている小さな少女の姿が目にとまった。
  彼女は強い日射しを避けるためか、大きな白い帽子をかぶっていた。
  そのため、彼女の正面に向かい、初めて彼女の顔をみることができた。
  優しく微笑みかけてくれた彼女に、私は,自然に撮影をお願いしていた。
  そこから,すべては始まった。
  振り返れば、あの出会いがすべてだったような気がする。
  作品のコンセプト、ストーリーラインは、あの時撮った数枚の写真が、キーになっている。"










 四年前のその日のイメージは、フォトブックの中には、鮮明に残っていますが、私は、彼女については、ほかには何も知りませんでした。当時、彼女は、お父さんのガードの下で、一心に歌っていました。
 私は、フォトブックが完成したあと、それをお礼として手渡そうと思い、Cityの街に何度となく、出かけましたが、その機会を失し、現在まで来てしまいました。



 そして、四年の歳月を経たこの12月、私は彼女に再会したのでした。
 彼女は、以前に比べ、随分大人びた雰囲気を醸し出していました。
 私は、不審に思われてはいけないと思い、自分の名刺とポストカードを渡し、四年前に写真を撮らしてもらったことを告げると、彼女は嬉しそうな表情を浮かべて、以前と同じ様に微笑みかけて来ました。

 それで、私は、さらに話しかけてみようと思い、
 "Your name?"
 "How old are you?" と、尋ねました。 
 すると、彼女は、
 "My name is Sophiie!"
  "I'm 16 yeas old."  と答えてくれました。
 
 その彼女の言葉によって、初めて、当時、彼女は12才のうら若き少女であったことを、知りました。









 その後、彼女は少し打ち解けて来たのか、自分の夢は歌手になることであり、今日は友達と一緒に来ていると教えてくれました。






 私は、最初の出会いから、四年後となったこの日、彼女とより親しくなることができたことに感謝し、帰りがけに、私のホームページに、彼女の写真が載っている旨と、インスタグラムのアドレスを教えてあげました。 
 また、今回、お礼を告げることができ、やっと心残りが解消された、清々しい気持ちで、家路につくことにしました。

 折しも、街はクリスマスシーズンとあって、クリスマスデコレーションで飾られたストリートには、いろいろなパホーマーが出没しており、華やいだ雰囲気を醸し出していました。
 その中で、人々が彼らとともになって、楽しみ、興じている姿を見て、私も今日の嬉しい気持ちが、さらに大きくなっていました。









 家に帰って、パソコンを開くと、早速、Sophiieからインスタグラフでの応答がありました。
 私は、今度、また会う機会があったら、是非、私のフォトブックをプレゼントしようと、その時思いました。




 




微笑みのScherri

2019-12-19 23:48:35 | 今日を旅する
微笑みのScherri!

 私が、Scherriを知ったのは、この地で留学を始めて、1年が経ち、2年目に入った頃だったと思います。

 それは、こちらのテレビ局9Nineのニュース番組でした。
 彼女は、Weathercasterで(日本で言えば お天気お姉さんか)、PM4時からと6時からのニュース番組に月曜から金曜にかけて、出ていました。

 私は、なぜか彼女の笑い顔に惹かれ、いつしかそれを見るのが、楽しみとなり、日課となりました。彼女は、いつも微笑みを絶やさず、楽しそうに元気な笑い顔で、天気予報を届けていました。
 私の家族も彼女のファンで、ある時、妻が、彼女のことを調べると、彼女は2011年度のミスワールドのオーストラリア代表に選ばれており、世界大会でトップテンに選ばれていることがわかりました。
 私は、そうだったのかと、思いましたが、私にとっての彼女は、この異国の地で、テレビ画面の中だけではありましたが、笑い顔で、天気予報を伝えてくれる、癒しの存在でした。

 その後、ある時、9Newsのチームが、チャリテイーイベントで、Cityのよく知るCffee ClubというCafeへ来るというので、その日に、私はカメラを持って、その場所に足を運びました。
しかし、その日は、残念ながら、別のスタッフが来ており、彼女は来ていませんでした。
 
 また、ある時は、キングスパークで9Newsのチームに出会ったのでしたが、その時も残念ながら、やはり別のスタッフでした。


 

 その後、私が、初めて生の彼女を見たのは、キングスパークからの帰り道、バスの中からでした。
 9Newsのオフィスの建物が、その通り沿いにあるからです。
 その日、彼女はその玄関前の庭でレポートをしていました。その時、遠くからの写真は撮ることができましたが。





 そして、ついにその日が来ました。
 11月22日夕方、私はいつも通り9Newsを見ていると、その日は、9NewsのチームがForest Placeという、パース駅前の広場でレポートするようで、Scherrieもそこに来ていました。
 それを見たのが、番組のはじめでした。Weather Reportは、番組の終わりでしたのて、今現地に行けば、充分間に合うと思い、すぐさま現地に行くことにしました。
 我々のアパートメントからそこまでは、歩いてもそんなにはかからず、バスでは5分もかかりません。

 私が現地に到着すると、今日は、金曜日とあって、その広場には、テント張りの屋台がたくさん出ており、たくさんの人が集まっていました。
 はやる心で、9Newsのチームを探すと、彼らは、ステージの上にいました。私は、そこにScherriを見つけ、やっと宝物に出会ったような気持ちでした。
 彼女はいつも通りの笑い顔をふりまいていました。



 彼女は、子供にも人気があり、子供たちが周りに群がっていました。
 ちょうど収録をしているようで、Ipadを見ながらレポートをしていました。彼女は想像していたより大きくはなく、私と同じぐらいの背丈のようでした。スタイルが良いため、テレビ画面では、大きく見えるのかもわかりません。








 収録を終わり帰る時、いつもイベントの行われるステージから降りるスロープのところで、彼女がちょうど私の近くを通ることになりましたので、私は思い切って声をかけて見ました。 
 "Scherri!".
 すると彼女は、それに気づき、わざわざ腰を曲げて、"Hay!"と返事をしてくれました。
 それに気を良くした私は、"I always look 9News. I"m Fan of you. My family too!"というと、大変喜んでくれ、"Thank you!"と言ってくれました。
 
 それから、私は、自分が日本のPhotographerである旨をつげ、また、現在、ここに住んでいることも告げ、私のポストカードと名刺を渡しました。
 彼女は、ポストカードを見て、ワイルドフラワーと舞妓の写真を大変気に入ってくれました。それで、こちらも感謝の気持ちを告げました。私は、それだけでも大変満足して、嬉しい気分になっていました。

 それで、帰るつもりでいましたら、別のオージーの家族連れが、記念写真を頼んで、彼女と一緒に写真を撮っていましたのて、私もそれに便乗して、9Newsのチームの写真ととった後、9NewsのカメラマンにScherriと一緒の写真をとってもらうことにしました。




 彼女は、並んでみると、私と同じほどの背丈で、とても親近感を感じました。目の当たりにみる彼女の笑い顔は、やはり本物で、人気がある由縁がよくわかりました。
 彼女とは、握手をして、名残欲しく別れました。彼女の人なっこい人柄からすると、私がハグをすれば、ハグに応じてくれただろうと、あとで、少し後悔することになりました。
 
 アパートメントに帰ると、妻たちが、どうだったかと聞いて来ましたので、事の成り行きを説明すると、一緒に大変喜んでくれました。
 写真を見たいというので、早速、カメラでその写真を見せることになりました。
やはり、彼女の美しさと、笑い顔を賞賛していました。
 私が、これで心置きなく日本に帰ることができるというと、皆で大笑いしました。

 その後、親しみを一層増したこともあって、9Newsのホームページを見てみることにしました。
 それによると、彼女は南アフリカの出身で、8才の時に、家族とともにパースへ移住して来たとのことです。2011年のミスワールド選出に伴い、その間、1,2年メルボルンiにいましたが、2014年に9Newsに入ると同時に、パースに戻ったようです。
 
 彼女の人なっこい笑顔と人柄は、immigrant移住者として苦労して来たからであろうと想像するとともに、それは、彼女と家族が培って来た歴史を、物語っているのだろうとも、思っていました。