アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の八 

2015年02月13日 | 近世の歴史の裏側

忠治磔刑後、公儀の眼を盗んで埋葬と供養に奔走した徳は、首は養寿寺法印貞然和尚に託し、

自らも情深墳を建立して遺体を葬送したことで、やるべきことが一段落した。

良きにつけ悪きにつけ、生き甲斐となりでいた忠治という後ろ盾を失い、自らも押込の罪を蒙った今、

本来は忠治の悪逆を滅罪するためにも、五目牛村一農家の寡婦として、残った生涯を平穏に、

終わるべきであった。徳は板橋宿での忠治との永別に臨んで、必ず尋常に御公儀様の御用に

立つように、と要求したからには尚更である。

ところがそれはそれ、また新たな生きがいを求めて行動を起こすのか、徳の生き様である。

忠治傑刑のほとぼりの醒めない頃から、徳は玉村宿を寄場とする改革組合総代渡辺三右衛門に

接近していく。

                                       続く