忠治貸帳の清算
三右衛門は忠治の貸帳の貸金取り立てについても相談を受け、複雑な経緯をメモにした。
覚
嶋村三次郎事
当時木崎宿二而
田中や三次郎
右之もの江金拾両也忠次郎貸有之候処、中山様忠次郎貸帳は右お徳江御下ケニ相成ル
金拾両之内弐両受取
残リ八両也 内金五両也去忠次郎一件之砌金五両は三次郎より出候由、同人江催促仕候処、
同人申すには今井村伊三郎ヲ以去十月十日二忠次郎へ相対二面而相渡し候様ニ被申候、金子八九月
栄助へ伊三郎より相渡スと被申候、今田中や三次郎方二受取有之由二候処、受取書小俣村栄助
之自筆之由、人々被申候由、然ル処、当六月十四日、国定村重兵衛大間々宿二面右伊三郎二逢
ひ、右金一条聞合、伊三郎亦々申ニは丸山善太立合二面相生町正助へ相渡し候由ヲ被申候
生前忠治が、嶋村三次郎(木崎宿では田中屋)に貸した十両が、関東取締出役中山誠一郎が押収
し、徳に下げ渡した忠治の貸帳にあった。お徳が催促したところ、二両は返して残金はハ両である。
そのうち五両は今井村の伊三郎から、十月十日、玉村宿で収監されている忠治に直接渡す、との返
答であった。五両は九月二十九日、伊三郎へ渡され、受取書の日付は十月一日、実際の渡し方は、
玉村宿の道案内関根屋三右衛門のところで伊三郎から小俣村栄助へ渡すとのことであった。
このときの受取書が木崎宿の田中屋三次郎方にあるとのことだが、
小俣村栄助の自筆であると周囲の人々は言っている。
五両の金は忠治に返されずどこへ消えたか。六月十四日、子分重兵衛が大間々宿で
伊三郎に直接問い糺したところ、丸山善太の立会いで、桐生町の正助へ渡したとのことで、
話の筋が全く読めない。
まず傑刑になった博徒忠治の生前の博突その他の貸金を書き留めた貸帳が存在し、
これを押さえた中山誠一郎が徳に下げ渡していることに驚かされる。
お上は忠治を極刑に処しながら、一方で忠治の悪の本業の博突を見逃していることになる。
忠治は死んでも貸帳はお上公認で生きているから、木崎宿三次郎の十両の取立てが行われたので
ある。あの手この手を使い返済を迫るが、相手もさるもの、仲介と称して割前をはねようとする
悪が入れ替わり立ち替わり登場してウヤムヤにしようとする。
伊三郎、関根屋、栄助、正助等は煮ても喰えない二足草鞍の禿鷹のような連中であろう。
彼らを腕ずくで押さえる力は国定一家にはもうない。
忠治の子分重兵衛とて五十一歳の老境である。
頼りになるのはお上にも裏世界にも顔の利く三右衛門しかないと、徳は思い込んだ。
続く