徳の三右衛門への働きかけは忠治絡みである。嘉永四年七月二十一日、三右衛門の三回目の訪問
の際の出来事である。
「五目牛村お徳の方へ罷出候処、国定村重兵衛居り面談いたす、同村友蔵義去戌年
御取締御出役中山様、関様より御差紙之節逃去り、此節帰農仕度侯間、御伺下され被伺
被下度申入候、国定村領主松平誠丸様、五目牛村地頭は平岡鐘之介様、但し両者佐位郡也
右五目牛村お徳より被申候事」
上記の文面では
おとく殿(呼び捨てにしていない)へ出かけた処、国定村重兵衛(忠治の子分次郎右衛門、中追放の刑を受けていた)が居て、去年の召捕りのとき、関東取締出役の中山・関両人から出頭するよう差紙をつけられながら逃亡した忠治の弟友蔵が帰村したがっている。
大総代の三右衛門の方から出役の二人に御意向を伺ってみてはくれまいか、国定、五目牛どちらでも良いが、念の為国定の領主は、前橋藩の松平誠丸様、五目牛は旗本平岡鐘之助様です。両者とも佐位郡においでになります。と五目牛村のおとくから言われた。
徳は忠治はじめ自分をも捕らえた関東取締出校の中山・関の二人に最も近いところにいる大総代の
三右衛門を介して、「忠党」の弟友蔵の正式な帰村を認めるよう頼んだのである。
徳の家には中追放に処せられ、居てはならないはずの忠治の子分重兵衛までが居合わせている。
なんとも融通無碍の世界である。三右衛門の尽力で帰村したのか、確証はないか、その後友蔵は、
一家を構え、糸繭商として財を成し、兄忠治亡きあと長岡家を盤石なものとした。
続く