渡辺三右衛門の人別は玉村宿にはない。玉村宿の隣村福島村に移住する。
福島村は家数五十軒余り、村高八百九十二石余、内五百九拾七九石余が旗本大久保筑前守の、
知行所、いう、二人の旗本が支配した。
村の生業がわかる反別は、二十三町2反四畝が田方「二十八パーセント」五十九町二反四畝畑方
「七十二パーセント」で、畑方優位な上州の典型的村落である明治元年〔村方明細書上帳〕
渡辺家は旗本大久保筑前守の支配に属し歴代名主を務める名家であった。
名主として両辺村四の紛争処理に頭角を現した。三右衛門は、四十歳の弘化三年「一八四六」、
玉村宿外二十四か村改革組合村の大総代選任される・組合村及び旗本分の二給含めて二十七枚の
入れ札の結果二十五枚獲得するという圧倒的人気であった。
以上の様な公の顔役に、渡辺三右衛門に徳は、人生を掛けた。
続く