中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

日本橋界隈:貨幣博物館 (旧中山道を歩く 6)

2005年01月17日 09時48分33秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26

日本橋を後にして中山道を歩き始める。
入り口にライオン像のある老舗のデパートを横目に見て、

(老舗デパートのライオン)

次の路地を左折するとすぐ右側に日本銀行がある。
左側には日本銀行経営というのも可笑しいが、
貨幣博物館がある。

入り口まで階段を三段上がり、
すこし年季の入った細かい鉄格子の扉は重厚で、
入るにはすこし勇気が必要である。
しかも、両脇に警察官に似た警備員がいる。
でも、大きく入場無料という文字が目に入ったので、
思い切って入ることにした。

(経営者は日本銀行で、お金には執着しない。
無料で当然と勝手に決め込んだ。)

警備員に頭を下げ、胸を張って入ろうとすると、
扉の両側に「扉に手を触れないで下さい」と看板がある。

(いくら日本銀行だからといって、
鉄の扉を破って強盗に入る訳じゃあるまいし、
この看板は行き過ぎ)と思ったが、

手を触れないで
どうやってドアーを開けるのだろうと考えながら
恐る恐る扉の前に立つと、
ドアーがゆっくりゆっくり開いた。
何のことはない自動ドアーだった。

一歩、中に進むと同じようなドアーがもう一つある。
御丁寧に「扉には手を触れないでください」の看板が
また立っている。ドアーは同じように自動で開く。
「扉には手を触れないでください」でなく、
「自動ドアー」と何処かに小さく書けばことは足りる。

中に入って驚いた。

鮮やかな真紅のカーペットが目に入ったからだ。
一歩足を踏み出すのをためらった。

ボクは知っている、
外国の要人が来日して、
首相が案内し、閲兵式をするとき、
あるいは外国の元首が国賓として招かれ、
飛行機のタラップを降りて歩き始める時、
そこには必ずレッドカーペットが敷かれていることを。

辞書にある、
Red carpet=
(貴賓などを迎えるための)赤じゅうたん
丁重なもてなし、手厚くもてなす意味とある。

ままよ、と足を一歩踏み出した。
こんなこともあろうかと、
今日は出掛けに靴もピカピカに磨いたし、
下町の粋な小父さん達に失礼があってはならないと、
イギリス王室御用達のトレンチコートを着てきたし、
同じメーカーのカラーシャツに、
胸と袖口に四つの金ボタンが付いた
ヨーロッピアン・タキシードと言われるジャケットも着てきた。

ここにも警備員がいる。

いかにも物々しく厳重であるが、日本銀行でもあるし、
これくらい厳重にしておけば
(中の展示物の重要さを判って頂ける)
と思っているのだろう。

警備員が「こちらに記帳を」と言って手招きをする。
これまた重々しい年代物と思しき机の前で紙を手渡される。
(展示してある貨幣の一部でも盗られた時の用心?)
で止むを得ないかと思ったら、
記入するのは性別、住所の都道府県名と個人か団体かの区別だけ。

「展示は二階です」の案内で階段を上る。
この間もレッドカーペットが敷かれており、
最上級のおもてなしを意味している。

博物館のお客様はボクと先客の40歳がらみの紳士だけで
静まり返っている。
展示物は、貨幣の歴史で人間が貨幣を必要とした
起源から始まり、世界の貨幣の移り変わりから、
日本の貨幣の変遷が実物で展示されている。
現存する硬貨で、世界一大きいといわれる大判は
小判と比べると本当に大きい。

(江戸時代一両で買えたもの)

お金はその昔は不要で、物々交換で取引されていた。
それが物と物の間で均衡が取れなくなり、
物に代わるための物として、お金が出来た。

お代としての品物であるから、希少で誰もが欲しがる
貴重品と言うことになる。

最初にお金に変わるものとして、貝殻が中国で発見された。
なぜ貝殻かと思ったが、考えてみると中国は広く、
昔の都は大陸の内深いところにあったので、
海にある貝殻が珍重されたと容易にうなずける。
小さな貝から大きな貝に、
価値としては上がって行ったであろう。

だから、お金に関わる漢字には、貝の文字が入っている。
売、買、寶、財、費、貯、etc.

(お金にかかわる文字と貝殻)

ついで、新札についての展示。
一万円、五千円、千円の登場人物について。

最後、出口の直前に、一億円が束になってケースの中にあり、
両サイドに手が入り、10センチほど持ち上げる体験が
出来るようになっている。

一億円を持っていかれると困るからだろうか?
ここにも警備員がいる。

両側に手を入れて一億円を持ち上げてみる。
説明によれば、十キロあるそうだ。
ずしりと重い。一億円を一度は手にしたいと、
庶民ならばそんな夢を誰もが持っているのであろう。
そんな気持ちをくすぐらせる展示であった。
警備員とレッドカーペットで重々しくお迎えするのは、
一億円のお客様の気持ちを満喫させる演出であった。

コートを抱えて、出口に向かった。

貨幣博物館に一度は訪ねてみたいものだ。




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高札場跡とさらし場跡と魚河岸跡 (旧中山道を歩く 5)

2005年01月08日 11時44分14秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26


日本橋を品川方向にもどって、右側に高札場跡がある。


「昔の高札場」

今は、高札場の形だけは残しているが、
書かれた内容は、日本橋の由来の碑になっている。

高札場が出来た頃は、道徳的な(?)
「君に忠に、親に孝に...」
などの教訓が書かれていたそうであるが、
評判が良くないので取りやめになったという。

道路の反対側は、さらし場になっていたというから、
不釣合いで、当然のことと言えるかもしれない。

道路を渡って反対側、橋の南たもと、
昔は罪人を三日間さらしものにした、
「さらし場跡」
主人殺し、女犯僧、心中者が主で、朝八時から
夕方16時まで、三日間晒され、その後非人とされた。

非人の歴史は古く、一部終戦の昭和20年まで続いていた。
ボクが子供の頃まで差別はあって、
その子供と遊んではならないと叱られたものだ。
非人は屠殺、寺社掃除、などに従事した賤民のことを言う。

戦後新憲法の下、当たり前のことだが、
人はすべて平等となり、差別は無くなった。

話を戻すと、その「さらし場跡」は、
現在は交番があり、その前には
しだれ桜が見事に咲いていた。
(さらし場跡の桜と交番)

観光客はお巡さんに路を訊いたり、
記念写真を撮ったりしていた。

橋を渡って、つまり中山道を進む右側に、
竜宮城の乙姫をかたどった石像があり、その前に
「日本橋魚河岸記念碑」がある。

今は築地に移転し、築地の魚河岸として、
首都圏に大量の魚を供給しているが、
元は魚河岸がここにあって、将軍に収めた魚の余りを、
ここで一般庶民に売りさばいた場所だそうだ。

(日本橋魚河岸記念碑)


(写真左端の橋のたもとに乙姫像はある)

講談などで有名な「大久保彦左衛門と一心太助」の
話に出てくる魚屋、天秤棒をかついだ一心太助も、
ここから魚を仕入れて売り歩いたのであろうか?
そんなことを思うと、なんとなく微笑ましく思える、
魚河岸跡の乙姫像である。




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日本橋道路原標 (旧中山道を歩く 4)

2005年01月08日 10時56分37秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(日本橋 4)
(日本橋の文字)

第一日目。2004年3月27日(土)晴れ

日本橋界隈は、史跡が豊富にある。
出発点の日本橋。
そこはミニ博物館のようだ。


(東京市道路元標)

「日本橋がはじめて架けられたのは、
徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603年)と伝えられる。
幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋と定め、
日本橋川と交差する点として、
重要な江戸経済の中心となっていたことは、
橋詰めに、高札場、魚河岸があったことでもうかがえます。」
東京都中央区教育委員会の案内にもある。

現在の日本橋の橋は、明治44年(1911)に創設された
ルネッサンス様式のアーチ型石橋。
日本橋名は十五代将軍 徳川慶喜の筆によるもので、
青銅の照明灯装飾品のキリンは東京市の繁栄を、
獅子は守護を表現しているとのこと。

(ルネッサンス様式のアーチ橋)


(キリン)

その日本橋のたもと。

品川方面から来て、橋を渡って左側に、
(橋の北、道路の東側)
「東京市道路元標」と「日本国道路元標」のレプリカがある。
真鍮で造られた本物は橋の中央、道路の真ん中にある。
(日本国道路元標のレプリカ)


(道路の中央にある本物の日本国道路元標)

「日本国道路元標」(レプリカ)の脇に日本橋を起点とする、
各地への距離が刻まれた石碑がある。

「日本国道路元標」を中心に西側に
横浜市    29km
甲府市   131km
名古屋市  370km
京都市   503km
大阪市   550km
下関市  1076km
鹿児島市 1469km



「日本国道路元標」を中心に東側に、
千葉市     37km
宇都宮市   107km
水戸市    118km
新潟市    344km
仙台市    350km
青森市    736km
札幌市   1156km  



二つの里程標がある。
この二つの里程標を見て、不思議に思うのは、
東方面は、本州を離れて海の向こうの札幌市までの
里程標はあるのに、
西方面については、海の向こうの那覇市までの
里程標が無いことである。
また、九州、北海道までの里程はあるのに、
四国の松山が無いのはどうしてだろうか?

この里程標が沖縄返還前に造られたから、
那覇市までの里程が刻まれていないのだろうか?
あるいは、JRの線路がつながっている街までの、
距離だけを表示したのだろうか?

そんな疑問が湧いた。



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お江戸日本橋(旧中山道を歩く 3)

2005年01月08日 10時43分09秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(お江戸日本橋3)

(日本橋の文字は慶喜揮毫か)

童謡 「一寸法師」は次のような歌詞になっている。

〽指に足りない一寸法師
 小さな体に 大きな望み
 お椀の舟に 箸の櫂(かい)
 京へはるばる 上り行く〽

最後の一句「京へはるばる 上り行く」とある。

現在は新幹線などすべて、東京に向かって上りになる。
それは天皇が東京にいらっしゃるからだ。

しかし、五街道が出来た頃は天皇が京都にいらっしゃったので
「京へ上る」となる。この違いだけ頭に入れておきたい。

日本橋を後に、徒歩で京を目指すことにした。
途中、界隈に残る文明開化の足跡を訪ね、
往時の偉人を偲びながら、可能な限り史跡も訪ね、
写真もふんだんに撮りながら、できるだけ当時の様子を
伝えようと、盛り沢山に欲張って歩こうと思っている。


(お江戸日本橋の浮世絵)

♪お江戸日本橋 七つ立ち 初のぼり
行列そろえて アレワイサノサ
コチャ 高輪(たかなわ)夜明けて
提灯けす コチャエ コチャエ♪

とあるように、
昔の旅人は朝四時(歌の文句の/七つ立ち)に出発して、
第一番の宿場 高輪(品川)で夜明けを迎えた。
旅人は一日に約40キロの距離を歩いた。
しかし、始めに書いたように、ボクは史跡を訪ねながら
歩くので、そんなに遠くまでは歩けない。

中山道の第一の宿場 板橋に到着するのに
4日が必要であった。
真っすぐ歩けば十キロそこそこなのに、
ボクは優に60キロを超えていた。



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歴史街道 (旧中山道を歩く 2)

2004年12月30日 12時24分23秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26

(日本橋2)

(埼玉県大宮の旧中山道の標柱)


およそ400年前に、徳川幕府が日本橋を起点に、
五街道を設置した。以下の通りである。
・東海道
・中山道
・日光道中
・奥州道中
・甲州道中

東海道と中山道はスタートが同じなら、
終着点も同じ京都三条大橋、
だが国道1号線の終わりは五条大橋である。

2004年1月に京都の浄瑠璃寺を訪ねた帰り、
知恩院から清水寺、焼き物通りをたどって、
五条大橋に着いた。

弁慶と牛若丸の故事は、事実かどうか知らないが、
今の五条大橋の巾は、物語にあるように、
牛若丸が弁慶の攻撃を避けて、欄干から欄干へ
体をかわす事が出来るほど狭くなかった。
国道一号線(東海道)、十七号線(中山道)の
終着点は、片道二車線の大通りであった。

そんな五条大橋を見て、徒歩で江戸から京へ上った
昔を思い出し、一度は歩いてみたいと思った。

しかし、旧街道の終着点は、五条大橋でなく
三条大橋であった。

中山道は東海道より長く、道中、山が険しいのに、
女性は中山道を往来したと聞いている。

徳川将軍家茂(いえもち)のご息女 
皇女和宮(かずのみや)の降嫁は有名な話である。
それ以前にも、十代将軍家治(いえはる)に降嫁した
五十宮(いそのみや)、12代将軍(しょうぐん)
家慶(いえよし)に降嫁した楽宮(ささのみや)があるが、
いずれの場合も東海道を下らずに、中山道を下った。

なぜだろう?

それは、どうやら東海道には「越すに越されぬ大井川」
があったからだとされる。
大井川には昔は橋が無く、水があふれると
川を渡ることが出来ず、溢れなくても河止めがあり、
旅の予定が定まらなかったことが原因の一つになって居る。
やむを得ず、旅程は長くなるが中山道を
選んだのであろう。

(本当の原因は、どうも警護の問題であったようです。
東海道は旅人も多く、警備するのに手間が掛かる、
加えて外国人が、出没する。
参勤交代の行列の前を横切った外国人がいて、
これを殺処分して、涼しい顔で通り過ぎていった。
そんな事件があった。
やはり警備の問題が一大事であった。
そこで、中山道を選んだ。)

(ボクの勝手な想像です。)
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まえがき (日本橋) (旧中山道を歩く 1)

2004年12月05日 22時04分03秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26

(埼玉県上尾の「旧中山道」の標柱)


思い立って旧中山道を歩くことにした。

ボクは中山道の江戸から数えて第一の宿場 
板橋宿から3km、志村一里塚の近くに住んでいる。

長い間、国の指定史跡になって居る、この一里塚を眺め、
一里塚のたもとにある「あらものや」の古い建物をみてきた。

(一里塚)

(街道の両側に完全な形で残る一里塚)

(一里塚の右の二階建ての家が 「あらものや」)

売れるとはとても思えない竹細工の箒や籠などを、
今でも商っているのを見て、
中山道を歩いてみようと思った。

街道に沿って、今も残る歴史を訪ねながら歩きたい、
その思いが高じて、スタートすることにした。

夏の暑い日を避け冬の寒さは危険と勝手に決めて、
気候の良い日を選んで歩く、
そんなわがまま放浪記を、
綴りたいと思います。

こんなわがまま旅行です。
何時京都の三条大橋に着くか全く分りませんし、
この旅行記も途中で中断することが
度々あるでしょうが、ご容赦いただき、
気長にご覧頂きますようお願い申し上げます。

目標としては、十年。

これ以上早く到着できれば、
拍手喝采、お手を拝借と
行きたいと思っています。
コメント (7)
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