(一富士 二鷹 三茄子)
本郷通りをさらに進むと、
本郷通りをさらに進むと、
右側に吉祥寺が見えてくる。
武蔵野にある吉祥寺市には、
同名のお寺があるか(?)どうか知らない。
吉祥寺。
山門脇に案内板があり、次のように記されている。
「曹洞宗 諏訪山 吉祥寺
長禄2年(1458)太田道灌が江戸築城の際、
井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、
城内に(現在の和田倉門内)に一宇を設け、
「吉祥寺」と称したのが始まり。
大正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。
明暦3年の大火で焼失し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、
大寺院となった。
僧侶の養成期間として栴檀林(駒沢大学の前身)を持ち、
一千余名の学僧が学び、
当時の昌平坂学問所と並び称された。
古い塔堂、山門、
享和2年(1802)再建、江戸後期の特色を残す。
経蔵、
文化元年(1804)再建、栴檀林の図書収蔵庫。
(文京区指定文化財)
墓所
二宮尊徳(江戸末期の農政家)
鳥居耀蔵(江戸南町奉行)
榎本武揚(江戸末期の幕臣、明治の政治家)
川上眉山(小説家)
(文京区教育委員会)
他に八百屋お七と吉三の比翼塚もここにある。
由緒ありそうな大きなお寺である。
(八百屋 お七と吉三郎の比翼塚)
(二宮尊徳の墓)
(榎本武揚の墓)
小田原の二宮町の二宮尊徳がここに骨を埋め、
函館の五稜郭で戦い、後に逓信相、農商務相、文部相、外相を歴任した、
榎本武揚のお墓が、ここにあるのは意外であった。
(吉祥寺の山門)
(古い経蔵)
山門、経蔵は見るからに年季の入った建物であった。
本郷通りへ出て、しばらく行くと、同じ右側に天祖神社がある。
この裏手に駒込病院があるが、この辺りには昔は鷹匠屋敷があった。
(天祖神社)
さらに進むと、やはり右側に富士神社がある。
この時代、江戸市民の間に冨士信仰が広く発生した。
旧五月になると、多くの富士講の人たちが、
冨士登拝の祈祷をするために、祭りを行った。
富士山山開きにあわせ、代参人を送り、
他の人は江戸の冨士にもうでた。
江戸には、模型の「お冨士さん」が出来た。
(冨士神社内の模型の冨士)
(駒込の冨士神社}
文京区内には「駒込のお富士さん」、護国寺の
「音羽のお富士さん」、白山の「白山の冨士」があった。
この頃、江戸の人口が膨らみ、主食の米は全国から
取り寄せたものの、野菜に不足して、
またこの「駒込の冨士神社」近くでは、野菜の栽培が奨励され、
各種の野菜が栽培された。特にナスは優れており、
「駒込ナス」として江戸市民に好かれた。
吉夢は「一富士 二鷹 三茄子」という川柳があるが、
鷹匠屋敷が近くの天祖神社の裏にあり、駒込ナスは名産で、
冨士神社があり、吉夢の要素が揃っていることから、
「駒込の冨士は二三も一と所」
という川柳もあった。
(駒込の冨士神社には、二番の鷹も三番の茄子も
一箇所にあると胸を張った庶民の心意気が感じられる。)
さらに北に進むと、六義園がある。
この庭園は、元禄15年(1702年)川越藩主
柳沢吉保が自ら設計指揮して完成した、
回遊式築山泉水庭園である。園は吉保の
文学的教養により作庭され、園名は古今和歌集の
序文に見える六義に因み命名され、園内88箇所の
名勝と共に元禄時代を代表する大名庭園である。
入場料600円(65歳以上は150円証明物が必要)であるが、
是非見ておきたい名勝である。
(六義園1)
(六義園2)
(六義園3)
道を左に折れて、旧中山道へ戻るがここでは国道17号と
同じ道路である。
JR巣鴨駅に近づく歩道上の左側の車道側に、
「徳川慶喜すがも屋敷跡」の石碑がある。
この一帯は、徳川慶喜が明治30年から四年間住んだ
場所であるが、JRの騒音を嫌って退去したという。
(屋敷跡の石碑)
そこから、少し行くとJRの線路をまたぐ巣鴨橋がある。
その橋を渡りきった左側に「ソメイヨシノ」の石碑がある。
武蔵野にある吉祥寺市には、
同名のお寺があるか(?)どうか知らない。
吉祥寺。
山門脇に案内板があり、次のように記されている。
「曹洞宗 諏訪山 吉祥寺
長禄2年(1458)太田道灌が江戸築城の際、
井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、
城内に(現在の和田倉門内)に一宇を設け、
「吉祥寺」と称したのが始まり。
大正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。
明暦3年の大火で焼失し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、
大寺院となった。
僧侶の養成期間として栴檀林(駒沢大学の前身)を持ち、
一千余名の学僧が学び、
当時の昌平坂学問所と並び称された。
古い塔堂、山門、
享和2年(1802)再建、江戸後期の特色を残す。
経蔵、
文化元年(1804)再建、栴檀林の図書収蔵庫。
(文京区指定文化財)
墓所
二宮尊徳(江戸末期の農政家)
鳥居耀蔵(江戸南町奉行)
榎本武揚(江戸末期の幕臣、明治の政治家)
川上眉山(小説家)
(文京区教育委員会)
他に八百屋お七と吉三の比翼塚もここにある。
由緒ありそうな大きなお寺である。
(八百屋 お七と吉三郎の比翼塚)
(二宮尊徳の墓)
(榎本武揚の墓)
小田原の二宮町の二宮尊徳がここに骨を埋め、
函館の五稜郭で戦い、後に逓信相、農商務相、文部相、外相を歴任した、
榎本武揚のお墓が、ここにあるのは意外であった。
(吉祥寺の山門)
(古い経蔵)
山門、経蔵は見るからに年季の入った建物であった。
本郷通りへ出て、しばらく行くと、同じ右側に天祖神社がある。
この裏手に駒込病院があるが、この辺りには昔は鷹匠屋敷があった。
(天祖神社)
さらに進むと、やはり右側に富士神社がある。
この時代、江戸市民の間に冨士信仰が広く発生した。
旧五月になると、多くの富士講の人たちが、
冨士登拝の祈祷をするために、祭りを行った。
富士山山開きにあわせ、代参人を送り、
他の人は江戸の冨士にもうでた。
江戸には、模型の「お冨士さん」が出来た。
(冨士神社内の模型の冨士)
(駒込の冨士神社}
文京区内には「駒込のお富士さん」、護国寺の
「音羽のお富士さん」、白山の「白山の冨士」があった。
この頃、江戸の人口が膨らみ、主食の米は全国から
取り寄せたものの、野菜に不足して、
またこの「駒込の冨士神社」近くでは、野菜の栽培が奨励され、
各種の野菜が栽培された。特にナスは優れており、
「駒込ナス」として江戸市民に好かれた。
吉夢は「一富士 二鷹 三茄子」という川柳があるが、
鷹匠屋敷が近くの天祖神社の裏にあり、駒込ナスは名産で、
冨士神社があり、吉夢の要素が揃っていることから、
「駒込の冨士は二三も一と所」
という川柳もあった。
(駒込の冨士神社には、二番の鷹も三番の茄子も
一箇所にあると胸を張った庶民の心意気が感じられる。)
さらに北に進むと、六義園がある。
この庭園は、元禄15年(1702年)川越藩主
柳沢吉保が自ら設計指揮して完成した、
回遊式築山泉水庭園である。園は吉保の
文学的教養により作庭され、園名は古今和歌集の
序文に見える六義に因み命名され、園内88箇所の
名勝と共に元禄時代を代表する大名庭園である。
入場料600円(65歳以上は150円証明物が必要)であるが、
是非見ておきたい名勝である。
(六義園1)
(六義園2)
(六義園3)
道を左に折れて、旧中山道へ戻るがここでは国道17号と
同じ道路である。
JR巣鴨駅に近づく歩道上の左側の車道側に、
「徳川慶喜すがも屋敷跡」の石碑がある。
この一帯は、徳川慶喜が明治30年から四年間住んだ
場所であるが、JRの騒音を嫌って退去したという。
(屋敷跡の石碑)
そこから、少し行くとJRの線路をまたぐ巣鴨橋がある。
その橋を渡りきった左側に「ソメイヨシノ」の石碑がある。