中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

一富士 二鷹 三茄子(旧中山道を歩く 15)

2005年02月07日 20時56分20秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(一富士 二鷹 三茄子)
本郷通りをさらに進むと、
右側に吉祥寺が見えてくる。

武蔵野にある吉祥寺市には、
同名のお寺があるか(?)どうか知らない。

吉祥寺。

山門脇に案内板があり、次のように記されている。

「曹洞宗 諏訪山 吉祥寺
長禄2年(1458)太田道灌が江戸築城の際、
井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、
城内に(現在の和田倉門内)に一宇を設け、
「吉祥寺」と称したのが始まり。
大正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。
明暦3年の大火で焼失し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、
大寺院となった。
僧侶の養成期間として栴檀林(駒沢大学の前身)を持ち、
一千余名の学僧が学び、
当時の昌平坂学問所と並び称された。


古い塔堂、山門、
 享和2年(1802)再建、江戸後期の特色を残す。
経蔵、
 文化元年(1804)再建、栴檀林の図書収蔵庫。
          (文京区指定文化財)

墓所
二宮尊徳(江戸末期の農政家)
鳥居耀蔵(江戸南町奉行)
榎本武揚(江戸末期の幕臣、明治の政治家)
川上眉山(小説家)
(文京区教育委員会)

他に八百屋お七と吉三の比翼塚もここにある。
由緒ありそうな大きなお寺である。

(八百屋 お七と吉三郎の比翼塚)


(二宮尊徳の墓)


(榎本武揚の墓)

小田原の二宮町の二宮尊徳がここに骨を埋め、
函館の五稜郭で戦い、後に逓信相、農商務相、文部相、外相を歴任した、
榎本武揚のお墓が、ここにあるのは意外であった。

(吉祥寺の山門)


(古い経蔵)

山門、経蔵は見るからに年季の入った建物であった。

本郷通りへ出て、しばらく行くと、同じ右側に天祖神社がある。
この裏手に駒込病院があるが、この辺りには昔は鷹匠屋敷があった。

(天祖神社)

さらに進むと、やはり右側に富士神社がある。
この時代、江戸市民の間に冨士信仰が広く発生した。
旧五月になると、多くの富士講の人たちが、
冨士登拝の祈祷をするために、祭りを行った。
富士山山開きにあわせ、代参人を送り、
他の人は江戸の冨士にもうでた。
江戸には、模型の「お冨士さん」が出来た。

(冨士神社内の模型の冨士)


(駒込の冨士神社}

文京区内には「駒込のお富士さん」、護国寺の
「音羽のお富士さん」、白山の「白山の冨士」があった。

この頃、江戸の人口が膨らみ、主食の米は全国から
取り寄せたものの、野菜に不足して、
またこの「駒込の冨士神社」近くでは、野菜の栽培が奨励され、
各種の野菜が栽培された。特にナスは優れており、
「駒込ナス」として江戸市民に好かれた。

吉夢は「一富士 二鷹 三茄子」という川柳があるが、
鷹匠屋敷が近くの天祖神社の裏にあり、駒込ナスは名産で、
冨士神社があり、吉夢の要素が揃っていることから、

「駒込の冨士は二三も一と所」
という川柳もあった。

(駒込の冨士神社には、二番の鷹も三番の茄子も
一箇所にあると胸を張った庶民の心意気が感じられる。)

さらに北に進むと、六義園がある。
この庭園は、元禄15年(1702年)川越藩主
柳沢吉保が自ら設計指揮して完成した、
回遊式築山泉水庭園である。園は吉保の
文学的教養により作庭され、園名は古今和歌集の
序文に見える六義に因み命名され、園内88箇所の
名勝と共に元禄時代を代表する大名庭園である。


入場料600円(65歳以上は150円証明物が必要)であるが、
是非見ておきたい名勝である。


(六義園1)


(六義園2)


(六義園3)

道を左に折れて、旧中山道へ戻るがここでは国道17号と
同じ道路である。

JR巣鴨駅に近づく歩道上の左側の車道側に、
「徳川慶喜すがも屋敷跡」の石碑がある。
この一帯は、徳川慶喜が明治30年から四年間住んだ
場所であるが、JRの騒音を嫌って退去したという。

(屋敷跡の石碑)

そこから、少し行くとJRの線路をまたぐ巣鴨橋がある。
その橋を渡りきった左側に「ソメイヨシノ」の石碑がある。




目赤不動尊と一葉の恋人 (旧中山道を歩く 14)

2005年02月07日 20時54分22秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(目赤不動尊と一葉の恋人 半井 桃水(なからい とうすい))

 本郷通りを進むと、左側に南谷寺(なんこくじ)という名のお寺が見える。
門柱の石塔には、目赤不動尊と書いてある。

案内によれば、
「南谷寺(なんこくじ)の目赤不動は、もと動坂にあったが、
寛永のころ(1624~44)三代将軍徳川家光が
鷹狩の途中立ち寄り、目黒、目白に対して、
目赤不動と命名し、寺を現在地に移した。」
(文京区教育委員会)

(目赤不動尊)

寺に立ち寄って見ると、
なるほど目の赤い不動明王が睨んでいる。

江戸には五色不動尊があることを始めて知った。
目黒区の目黒不動は有名で、よく知っていたが、
目白は山手線の駅があり、学習院大学があり、
よく知っていたが目白不動があるとは、
また、目赤があり、さらに目青、目黄にいたっては
不動尊があるとは夢にも思わなかった。

この目赤不動尊の由来は、比叡山南谷に名僧がおり、
不動明王を尊信すること昼夜不退に、精進を重ねたところ、
夢枕に、伊賀の国、赤目山に来るように告げられ、
訪ねると、“汝身命を惜しまず、信心深きゆえに、
この霊像あたうべし“と手のひらに、投げ入れ給うものあり、
それが不動明王の尊像であった。
赤目山を降り、比叡山南谷に安置した。
(目赤不動尊縁起 大聖山 東朝院 南谷寺)

ということらしいが、事実の程は不明。
キリスト教にも良くある奇跡みたいなものである。

さて、江戸五色不動は、
目赤は、かくいう文京区の 南谷寺、
目黒は、目黒区の 竜泉寺、
目青は、世田谷区 教学院、
目黄は、台東区の 永久寺、
または、江戸川区 最勝寺、
目白は、豊島区の 金乗院、(鬼子母神近く)
にそれぞれあるとのこと。
(ボクは目黒と今回の目赤しか訪ねたことがない)

この目赤不動尊のすぐ先に、
曹洞宗 繁栄山 養昌寺がある。

ここに、
半井(なからい) 桃水(とうすい)の墓がある。
「半井(なからい) 桃水(とうすい)は
万延元年~昭和元年(1860~1926)
対馬に生まれ、名は冽。 
桃(とう)水(すい)は号。別号に菊阿見あり。
共立学舎に学び、明治21年東京朝日新聞社に入社して、
新聞小説家として活躍した。
「天狗回状」など時代小説を著した。

 桃水(とうすい)は、樋口 一葉の師として、
また一葉の思慕した人として知られている。
墓は、墓地を突き当たったところにある。」
(文京区教育委員会)

ここで興味を引くのが、
樋口一葉の彼氏であったというところ。
教育委員会であるから、恋人だとか彼氏という表現を避けたのか?
あるいは、プラトニック・ラブであったことを表現したかったのか?
単に、片想いだけであったといいたかったのか?
(思慕した人)と表現せざるを得なかったか?

「たけくらべ」など名作を残した一葉は、
人間をよく知っていたはずであるから、
片想いでは終わっていなかったのではないだろうか?
八百屋お七のように、身悶えしてまでの
恋をしなかったのであろうか?
興味のあるところではある。

(半井 桃水の墓)

なお、お墓は、突き当たったところに無く、
墓地に入ったすぐの正面にある。
案内と違うので注意が必要である。




やっちゃ場跡 (旧中山道を歩く 13)

2005年02月07日 20時04分48秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
中山道を歩いて二日目。
 2004年3月31日(都営地下鉄「白山」から)

(やっちゃ場跡)
 「ほうろく地蔵」から白山上の五叉路の信号に出たら、
中山道は直進するが、信号を渡って先にある細い道を、
斜め右に入る。
この道は土物棚新道と呼ばれた道で、神田、千住に並ぶ
江戸の三大青果市場の一つで、幕府の御用市場であった。

道の先の本郷通りに出ると、右側が交番、左側に天栄寺があり、
門前に「駒込土物店跡」と「江戸三大青物市場遺跡」の石碑がある。

(駒込土物店の石碑)


(江戸三大青物市場跡の石碑)

案内によれば、
「初めは近郊の農家が、野菜を担いで江戸に出る途中、
天栄寺境内の“サイカチの木”の下で毎朝休むことを例とした。
すると、付近の人が新鮮な野菜を求めて集まったのが起こりという。
土地の人は“駒込辻のやっちゃ場”と呼んで親しんだ。
また、富士神社一帯は、駒込ナスの生産地として有名であり、
ナス以外に、大根、人参、ごぼうなど、土の付いたままの
野菜である“土物”が取引されたので土物店といわれた。
正式名は“駒込青物市場”で、昭和4年(1929)からは
“駒込青果市場”と改称した。街道筋にあった問屋は、
道路の拡張などで、昭和12年(1937)豊島区へ移転して、
巣鴨の青果市場として現在も残っている。」(文京区教育委員会)

この本郷通りは、中山道とほぼ平行しているので、左に出れば
いつでも中山道へ出られる。
「富士神社」や「六義園(りくぎえん)」が、
この本郷通りに面しているので、
しばらくこのまま進むことにする。