中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

東京大学とその周辺 (旧中山道を歩く 11)

2005年02月01日 10時46分07秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(東京大学と中山道最初の一里塚)


(有名な東大赤門)

街道に戻り、正面の東大赤門をくぐってみよう。
赤門は文政10年(1827年)加賀藩主 前田齋泰(なりやす)に
嫁いだ十一代将軍徳川 家斉の息女溶姫(ようひめ)のために
建てられた御守殿門である。 と案内看板がある。

赤門をくぐると守衛所があるが、気にしないで奥へ進もう。
突き当たりの建物の左横にうっそうとした林が見られる。
その林の方へ下りていくと、夏目漱石の小説「三四郎」で
有名な「三四郎池」にでる。
なかなか見晴らしの良いところで、四季折々に、
季節の風景を描く画家や、写真を撮ろうと、
三脚を立てて光線の加減を待っている人に出会うこともある。


(三四郎池1)

(三四郎池2)

ここで一服したら、また街道へ戻り、歩を進める。東大正門前で
道路は二手に分かれる。いわゆる本郷追分である。
追分とは、街道と街道の分かれ道である。

直進すれば、将軍が日光東照宮に参拝する日光御成道
いわゆる(岩槻街道)で、左折すれば旧中山道に分かれる本郷追分。

本郷追分の二股の間には、江戸時代から続く老舗の高崎屋酒店がある。
高崎屋酒店は、両替商を兼ね「現金安売り」で繁盛していた。
                  (文京区教育委員会)
言ってみれば、昔のコンビニエンス・ストアだったのであろう。


(高崎屋酒店)

日曜・祝日でなければ、酒店は営業しているので中に入ってみよう。
江戸時代の高崎屋を描いた浮世絵や昔の酒屋の立派な看板、
往時に使った徳利などを見ることが出来るし、
写真も撮らせてもらえる。
帰りにジュースか缶ビールなど求めれば良い。


(昔の高崎屋の看板)


(江戸時代に使用したと思われる徳利)


(江戸時代の高崎屋を描いた浮世絵)

その高崎屋の前に、昔は中山道最初の一里塚があったという。
「一里塚は、江戸時代街道筋に一里(約4K)ごとに
造られた塚である。荷駄の運賃の目安、道程の目印、
休息場所として、旅人に多くの便宜を与えた。
榎が植えられていたが、度々の災害と道路拡張によって、
昔の面影をとどめるものは無い。
分かれ道に在るので、追分一里塚とも呼ばれていた。
信長時代から一里塚はあったが、全国的に一里塚を設定したのは、
家康である。」(文京区教育委員会)

また、この辺りは、昭和40年頃までは森川町といった。
「江戸時代は森川宿と称し、明治5年には高崎藩主
本多氏の屋敷地と、先手組屋敷と併せて森川宿から
森川町と名づけた。当時は馬建場で人馬の休息場所であった。
先手組頭は森川金右衛門で、中山道の警備に当たったという。
町内には、徳田秋声などの文人が多く住んだ。」(文京区)


(森川町の案内)