(安楽寺の入り口)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/af/79a26511683f1f1e05a4efb5098ada98.jpg)
(本堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/7d/7d49d2752b68d7aead31ba6a99d3d9cb.jpg)
(倉賀野宿7)
倉賀野神社をあとに旧中山道へ出て左折、約200メートル先の
右側、信号の手前に「安楽寺」がある。
この寺は天平時代の創建と伝えられ、将棋の形をした板碑があることで知られる。
また、将軍地蔵、二十二夜堂、本堂裏山には横穴式石室古墳がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/23/a7166099384e23492d887cb9747b43f1.jpg)
(将棋の形をした板碑)
安楽寺にある板碑は、
(将棋の駒形をした天引石に梵字で、阿弥陀三尊に天蓋、
花瓶がつけられている。銘文や年号もあったが、
残念ながら石の風化剥落があって正確な年代は不明であるが、
全体の造りや梵字の彫り方などから南北朝(1300年代)を
下るものでないと思われる。
板碑は「板仏」または「平仏」ともいい、正しくは「板石
塔婆」といい、板状の石で作った卒塔婆のことである。
板碑は鎌倉時代中ごろから室町時代にかけて多く創られた。
緑泥片岩による板碑の多い当地方において特殊な板碑といえる。
砂岩製のこの種の板碑は、県下に約九基あるが、この安楽寺の
異形板碑は中でも大きく立派なものである。)
(高崎市教育委員会)
将軍地蔵は地蔵尊としては、身に鎧兜をつけた珍しいものです。
脇本陣家の須賀一族の祖先が建立したものらしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/22/50ab4ebd00c00a531cf7e15b22ee9963.jpg)
(鎧を着けた地蔵尊)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/1a/f8fae5afa7db5fcc83a7e6ab5f961be3.jpg)
(二十二夜堂)
二十二夜堂(観音堂)は
(当山第四十八世亮田(りょうでん)上人が、
住職在職中、吾妻郡沢渡温泉在、浄土宗、宗本寺の哲誉上人と
国定忠治一家の代貸、空っ風の長四郎(小山の長四郎)とが、
奇遇し哲誉上人から長四郎が「幻の火伏せの名号」の巻物
一巻を授与されたところである。)(五十一世住職 亮仁)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/27/e69806a6ce3d4986161c77917bad748b.jpg)
(本堂とつながっている古墳)
安楽寺古墳は、横穴式石室の古墳で本堂につながっており、
面白いつくりで、群馬県指定文化財になっている。
この石室には三方の壁面に七体の石仏が彫られており、
十二年に一度「巳年」に開帳される。平成十三年に
百五回の開帳が行われ、次回は平成二十五年に開帳される。
安楽寺を過ぎたあたりに上の木戸があったところで、
倉賀野宿はここまでであった。
その先の道路の右側に、旧中山道らしい松並木が続く。
昔の松並木ではなく、新たに植えられたもので、木がまだ若いが、
それでも旧中山道の面影をとどめている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/86/d46245379aff178a3f3a97c82d48e7c9.jpg)
(松並木)
このあたり左手奥に小鶴巻古墳、大鶴巻古墳があるが、
少し奥まっているので通過する。
松並木が終わるあたりには、左側に「かんら信用金庫」があり、
その先「ガスト」を左折すると正面に、
「浅間山古墳」があるので寄ってみよう。
一目で前方後円墳であることが良くわかる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/46/26b27b09665ecb5a155d0e14123a7b4c.jpg)
(浅間山古墳)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/2b/e02605e206d931edf55d6df79fbfbc5d.jpg)
(別の角度から見た古墳)
文部科学省、高崎市教育委員会によると、
埋葬者については、伝説なども無く不明であるが、典型的な前方後円墳であるという。
この辺りから高崎宿に入る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/af/79a26511683f1f1e05a4efb5098ada98.jpg)
(本堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/7d/7d49d2752b68d7aead31ba6a99d3d9cb.jpg)
(倉賀野宿7)
倉賀野神社をあとに旧中山道へ出て左折、約200メートル先の
右側、信号の手前に「安楽寺」がある。
この寺は天平時代の創建と伝えられ、将棋の形をした板碑があることで知られる。
また、将軍地蔵、二十二夜堂、本堂裏山には横穴式石室古墳がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/23/a7166099384e23492d887cb9747b43f1.jpg)
(将棋の形をした板碑)
安楽寺にある板碑は、
(将棋の駒形をした天引石に梵字で、阿弥陀三尊に天蓋、
花瓶がつけられている。銘文や年号もあったが、
残念ながら石の風化剥落があって正確な年代は不明であるが、
全体の造りや梵字の彫り方などから南北朝(1300年代)を
下るものでないと思われる。
板碑は「板仏」または「平仏」ともいい、正しくは「板石
塔婆」といい、板状の石で作った卒塔婆のことである。
板碑は鎌倉時代中ごろから室町時代にかけて多く創られた。
緑泥片岩による板碑の多い当地方において特殊な板碑といえる。
砂岩製のこの種の板碑は、県下に約九基あるが、この安楽寺の
異形板碑は中でも大きく立派なものである。)
(高崎市教育委員会)
将軍地蔵は地蔵尊としては、身に鎧兜をつけた珍しいものです。
脇本陣家の須賀一族の祖先が建立したものらしい。
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(鎧を着けた地蔵尊)
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(二十二夜堂)
二十二夜堂(観音堂)は
(当山第四十八世亮田(りょうでん)上人が、
住職在職中、吾妻郡沢渡温泉在、浄土宗、宗本寺の哲誉上人と
国定忠治一家の代貸、空っ風の長四郎(小山の長四郎)とが、
奇遇し哲誉上人から長四郎が「幻の火伏せの名号」の巻物
一巻を授与されたところである。)(五十一世住職 亮仁)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/27/e69806a6ce3d4986161c77917bad748b.jpg)
(本堂とつながっている古墳)
安楽寺古墳は、横穴式石室の古墳で本堂につながっており、
面白いつくりで、群馬県指定文化財になっている。
この石室には三方の壁面に七体の石仏が彫られており、
十二年に一度「巳年」に開帳される。平成十三年に
百五回の開帳が行われ、次回は平成二十五年に開帳される。
安楽寺を過ぎたあたりに上の木戸があったところで、
倉賀野宿はここまでであった。
その先の道路の右側に、旧中山道らしい松並木が続く。
昔の松並木ではなく、新たに植えられたもので、木がまだ若いが、
それでも旧中山道の面影をとどめている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/86/d46245379aff178a3f3a97c82d48e7c9.jpg)
(松並木)
このあたり左手奥に小鶴巻古墳、大鶴巻古墳があるが、
少し奥まっているので通過する。
松並木が終わるあたりには、左側に「かんら信用金庫」があり、
その先「ガスト」を左折すると正面に、
「浅間山古墳」があるので寄ってみよう。
一目で前方後円墳であることが良くわかる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/46/26b27b09665ecb5a155d0e14123a7b4c.jpg)
(浅間山古墳)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/2b/e02605e206d931edf55d6df79fbfbc5d.jpg)
(別の角度から見た古墳)
文部科学省、高崎市教育委員会によると、
埋葬者については、伝説なども無く不明であるが、典型的な前方後円墳であるという。
この辺りから高崎宿に入る。