(鳥居峠への階段)
(奈良井宿5)
鎮(しずめ)神社を出て、街道を進むと右手先方に狭い階段が見える。
いよいよ旧中山道鳥居峠への上り口である。
道路はそのまま直進し右のほうへ大回りして登っていくが、
人が歩いた旧中山道はその道をショートカットして、急坂を登る。
(階段の先の草道)
(ガードレールの間から国道に合流する)
(道路はこの先半円を描いて左へ)
すぐに大回りしてきた道路に合流するが、
その道路は今度は左に半円を描くように曲がる。
車が坂道を行くには止むを得ない。
箱根の山や碓氷峠、日光のいろは坂のようなものである。
左に折れると道路は二又になっており、間に案内看板が立っていて、
右手の道路の4~50m先にもう一つの案内看板が立っているのが見える。
案内に沿って進めば、右手に見える案内看板の横をさらに登れとある。
(二股の間にある案内看板、右手奥にもう一つの案内看板が見える)
(案内看板)
(右奥に見えた看板と石畳)
石畳のひなびた道は旧街道にふさわしいが、
その勾配を見ると行き先が思いやられる。
とても急だからである。
鳥居峠が、中山道の三大難所の一つといわれる所以(ゆえん)が理解できる坂道だ。
しばらく歩いて道路標識を見るとまだ35メートルしか進んでいない。
山登りなんてこんなものだ。ボクには300mも歩いた気分である。
(急勾配の石畳)
(谷を越え)
(山道を越え進む)
覚悟を決めて登り始めると、左へ降りる道に出るが、奈良井への近道とある。
ここまで来てまた奈良井に戻ってはたまらないと、
さらに登ると展望台と書いてある場所に出る。
左上のほうに東屋らしきものが見えるので、疲れた足を引きずりながら進む。
南の方の梢の上のはるか先に雪を頂いた山が見える。
とても厳かで美しい。
山のことには特にうといボクには山の名前さえわからない。
(展望台)
(展望台から見えた山、ご存知の方山の名前を教えてください)
展望台を降りてもと来た道に戻りさらに登ったり下ったり、
谷間の木橋を二回ほど渡ったりして、しばらくすると、
休憩所のような山小屋がみえる。近づくと「中の茶屋」とある。
(菊池寛の「恩讐の彼方に」の一舞台となった場所で、
ここから遠く「青の洞門」へと舞台は移っていく。)と、
奈良井宿観光協会の手で、小屋の中に掲示されている。
(何度か渡った木橋、手すりが腐って落ちている)
(奥に見える山小屋)
(中の茶屋)
その先に「本沢自然探勝園」の看板がある。
確かに新緑に包まれた美しい山道ではあるが、
上りの厳しさに負けて、とても公園とは思えない。
元気はつらつの、帰りには「抱っこして」の子供には公園に思えるであろうが、
間もなく後期高齢者入りのボクのようなジジイには、
地獄の一歩手前――煉獄――への道とでも言いたい所。
(天正十年(1582)二月、木曽義昌が武田勝頼の二千余兵を迎撃し、
大勝利を収めた鳥居峠の古戦場である。
このとき武田方の戦死者五百余名でこの谷が埋もれたといわれ、
戦死者を葬った場所として、
「葬り沢(ほうむりさわ)」と呼ばれる。)(楢川村)とある。
(急坂を登る)
「葬り沢」をすぎて、最後の長い急坂を、
ヨイショヨイショと気持ちの上で掛声を掛けながら進むと、
前方が開け、山小屋「峠の茶屋」がある。
小屋の右横にはとうとうと流れる水場があり、
左横には三箇所のお手洗いもある。
峠を登り初めておよそ二時間。小屋の扉を開くと総ヒノキ造りで、
綺麗に掃除が行き届いた板張りは、
中央に通路左右に十畳間ほどの仕切りなしの部屋がある。
お手洗いも綺麗に掃除されており、豊富な水量を利用した水洗であるが、
下水道があるわけでなく、必要量以上に水を流すということではない。
ここから先が木祖村藪原に入る。
(峠の茶屋、右手に水場が)