中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

紅葉と石畳と乱れ橋(十三峠前半)(旧中山道を歩く 225)

2011年01月20日 10時28分40秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(十三峠入口の石碑)


(西行塚100mの案内)

(大井宿 5)
今回まで西行法師と縁が切れない。
十三峠の石碑を過ぎると、道路は石畳に変わる。
旧街道の臭いがしてくる。
そして西行塚までと西行の森までの
里程が記された中部北陸自然歩道の木の案内が旧街道らしさと、
「これから山登りだぞ」と覚悟させる表情を見せる。

(西行塚0.1km)の案内に、何処、何処と見渡す。
馬頭観音が藪の奥にひっそり立っている。
石畳を少し進むと「伝西行塚」右ですの案内と、
「五輪塔」「見晴台」右矢印の案内が急な階段と共に目に入る。


(石畳の道)


(馬頭観音)


(西行塚への急な階段)

見上げると急な階段は上のほうで左折しており、
行き先が見えない。階段は一定の歩幅に造られているので、
ボクのように短足だと歩幅が合わずに登り難いものだ。
どんな急な坂でも、どちらかと言うと階段でないほうが登りやすい。
歩幅を自分の足に合わせて進めることが出来るからだ。

三回くらい休憩して、やっと西行塚が見えるところまで来た。
西行の五輪の塔があるところまでは、さらに数段登らねばならない。

岐阜県の指定(史跡)になっている西行塚について、
(恵那市の市街地を一望できる小高い丘の上に築かれたこの塚は、
歌聖 西行法師の供養のために造られたと言われています。
小さな塚の上には、高さ約1.4mの五輪塔が立っており、
形式的には、室町時代末期のものと推定されます。
西行がこの地で入寂したと言う伝説は古くからあり、
慶長十九年(1614)に書写された当市大井町の長国寺に伝わる
「長国寺縁起」に終焉の様子が細かく記されています。
西行塚は、大田蜀山人の旅行記「壬戊紀行」(1802)や
秋里離島の「木曽路名所図会」(1805)など、
江戸時代の出版物に登場し、古くから中山道の名所として有名で、
今も大切に祀られています。)(恵那市教育委員会)


(伝西行塚)


(見晴台から見た恵那市)

西行の五輪塔の横には、恵那市が造った見晴台があり、
確かに恵那市が一望できる。
ここで晴れ渡った空の下で少し休む。
恵那市が訪れた人に署名と感想を記入するノートが置いてある。
開いてみると、4日前に訪れた横浜の方の名前が記入されていた。

考えてみると昨日追い越していった、
お揃いの赤いリュックを背負ったご夫婦が
ボクの前を歩いているはずである。
その方はただ中山道を歩いていらっしゃったので、
この西行塚には寄られなかったのであろうか・・・

その昔、ボクを追い越していった人は、
中山道を14日で踏破すると話しておられた。
ボクのようにキョロキョロ見ながら歩く人は少ないのであろうか?

話を戻して、西行塚を跡に今度は塚の反対側に降りていくと、
山の中にしては、立派なお手洗いがあり、
中山道の石畳に出る。
十三峠は、この先長いので用は済ませておきたい。
十三峠とは、峠が十三あるところから名が付いていると言う。
中山道で今まで一番辛かったのが碓氷峠であるが、
この度の十三峠は、かなりしんどかった。
ボクにとって、中山道一の難所に感じられた。


(石畳の中山道)


(途中の中山道の案内)


(槙ヶ根の一里塚)


(一対のもう一つの一里塚。松が植えてある)

その先は石畳の上り坂である。
登りきって開けた明るい場所に出ると、
そこが「槙ヶ根の一里塚」で両側に一対になって残り、
いずれも松の木が植えてある。
山の中で地形上、場所が上手く取れなかったのか、
左右で約10m位置がずれている。

この先が西行の森になっており、
西行が好んだ桜の木を100種類、
合計130本が植えられていると言う。
ボクが歩いた時期には、桜ならぬ紅葉が陽に映えて美しかった。


(西行の森、桜百選の園)


(紅葉が美しい)


(中山道の案内と枯葉)


(広い舗装路)

道路は山の中の枯葉の砂利道を,
シャンソンの「Autumn Leaves(枯葉)」を思い出し、
熊よけに丁度良いと、口ずさみながら音痴丸出しで進む。

(この音痴には、さぞや熊もびっくりしたに違いない。)

所々「中山道」や「東海北陸自然歩道」の案内に助けられ、
道路に誤りが無いことを確認しながら進む。

やがて広い舗装道路に出る。
道路の左右に、水戸屋茶屋跡、槙ヶ根茶屋跡、etc.などを通り、
右手にコンクリート生コンの工場を見たら、
右の脇道に入る。
「熊出没注意!」の看板がある。

(音痴に驚いて、熊は遠くに逃げているはず。)


(茶屋跡)


(茶屋水戸屋跡)


(コンクリート工場跡)


(熊出没注意)

しばらくして、やや広い場所に出ると、左手に石碑があり
「右 西京 大阪、 左 伊勢 名古屋、」道と書かれている。
京 大阪への道の中山道は上街道、伊勢 名古屋への道は下街道といい、
下街道への追分になっている。
下街道を行けば、名古屋へ出ることになる。


(立場茶屋の説明板)


(立場があったと思われる場所)


(かまど跡)


(柵のあるところが 井戸跡)


(下街道伊勢・名古屋への追分の道標)


(下街道への分かれ道、柱の前の道)


(下街道の枯葉道)

また槙ヶ根の立て場茶屋跡には、九軒の茶屋があったと言う。
そのかまど跡や古井戸跡が見受けられる。
なおも石畳道を登る。
やがて馬頭観音像のある地点の、
高い所に「姫御殿跡」の石碑が見える。
ここは祝い峠といい、
文久元年(1861)皇女和宮が通行された時、
仮小屋を立てて御小休みされた場所である。


(なお登る石畳道)


(路傍の馬頭観音)


(姫御殿跡)

その先左側に「首なし地蔵」が屋根付きで祀ってある。
宝暦六年(1756)地元の人たちが旅人の道中安全を願って建てたもの。
お地蔵様の首を刀で切り落としたと言う伝説が残っているそうだ。
途中、「下座切り座」の標柱があるが、村役人が裃(かみしも)を着て、
土下座して向えた場所であると言う。
その後道路は急な下り坂になり、
行列も乱れるほどの急坂であったことから、
「乱れ坂」といい、坂を下り終えた場所が右に曲がり橋を渡る。

大変小さな橋であるが、川は深く「乱れ川」と
昔は言ったほどの急流であったため、
この橋を渡るときは有料であったと言う。
今は静かな川である。


(首なし地蔵跡)


(首なしのお地蔵様)


(下座切座の碑)


(乱れ坂の急な下りの石畳、先を右に廻った所に橋がある。)


(乱れ坂の終りにある乱れ橋。3mほどの小さな橋だが川は深い)


(橋からのぞいた川面)